第8話 対立

文字数 8,830文字

 四月上旬。
 儚くも桜の花が散っていくその時期に、世間を揺るがす大事件が起きた。
 ある一人の青年が、自分の勤める企業の幹部数人を次々と斬殺し、最後は自らも喉に刃を突き立てたのである。
 彼の遺書には短く次のように書かれていた。
 
『格差社会を許すな。資産家の横暴を許すな。我々は道具ではない。人間だ』

 それは不条理な社会に対する悲痛な叫びだった。
 この事件をきっかけに民衆の格差社会への不満が爆発し、日本各地でストライキやデモが起こるようになった。少数の富裕層が富の大半を所有するという歪んだ現状に、誰もが不満を抱きながらも身動きが取れずにいた。そんな中、たった一人の青年の覚悟が民衆の怒りに火を付けたのである。
 はじめのうちは、これで日本が変わるなら良いと思っていた。でも、自分の生活に影響が出始めると、だんだんそうも言っていられなくなってきた。
 ストライキやデモに参加しているのは、主にこれまで負担を強いられてきた労働者たちだ。
 当然、その規模が拡大すれば日本中のあらゆる業務が滞ることなる。
 楽しみにしていた新刊が発売日から三日経っても配信されない。通販で注文した商品が予定日より一週間遅れてようやく届く。そんなことならまだいい。
 回収されるはずのゴミが回収されず、カラスに突っつき回されて、街中にゴミが散乱した。
 電車やバスのダイヤが乱れ、本数が減ったことで、駅やバス停は人で溢れかえっていた。
 スーパーやコンビニでは食料品が品薄状態だった。特に缶詰やレトルトなどの保存食品はどこへ行っても売切れだった。
 こうなると人々の心から余裕がなくなり、事故や犯罪も必然的に増える。しかし、政府はこの事態に有効な手立てを打つことができず、治安は悪化の一途を辿った。
 太刀河先生の予言が、ついに現実のものとなってしまったのだ。


 四月の下旬に入ると、校内にも不穏な空気が漂い始めていた。
 まず、急に来なくなる生徒が相次いだ。話によると、皆親の都合で転校するらしい。
 うちのクラスからも二人いなくなった。
 それから、部活動の朝練が禁止になった。下校時刻も今までより早くなり、放課後の練習時間も減った。修学旅行や文化祭などの行事が中止になるという噂が飛び交ったりもした。
 これに対し、学校側は『現在検討中』とだけ答えた。
 意外にも学校教師には仕事をボイコットする人が少なく、授業は平常通り行われていたが、社会の影響がここにも及んでいるのは明らかだった。
 こんな状況のせいでどこにも出かけられず、まるで楽しくなかった日曜日の夜。
 夕食の席で祖父が母に言った。
「明日からは小鞘を学校に送り迎えしてあげなさい」
「そうですね。今の状況では、外を歩くのも危険ですし……」
 母は快く同意したが、わたしは納得できなかった。
「ちょっと待って。わたし、紗月と一緒に行く約束をしてるの」
 祖父は露骨に顔をしかめる。
「一人だろうが二人だろうが、今は子供だけで道を歩くのは危険だ。また誘拐されそうになったらどうする? 状況が良くなるまでは送ってもらいなさい」
「でも紗月はどうなるの? あの子は送り迎えしてもらえないんだよ」
 一昔前と違い、今は家に二台も三台も車があるのはそれなりに裕福な家庭だけだ。一家の稼ぎ頭が車を使えば、あとは自転車かせいぜい原付という家庭がほとんどなので、毎日送り迎えをしてもらえる生徒は少ない。
 そんなことは祖父も知っているはずだが、議員時代の貫禄が残る厳格な表情は寸分たりとも変わらなかった。
「それはその子の家庭の問題だ。お前が考えることではない」
「友達を見捨てろって言うの? 身内さえ無事ならそれでいいの?」
「そんなことは言ってないだろう。お前のためを思ってのことだ」
「まあまあ」
 父が頑固な祖父をなだめた。
「だったら、その子も一緒に乗せていってあげればいいじゃないか。学校に行く通り道なんだろ? 親御さんには父さんから連絡しておくから」
 わたしと母が頷くと、祖父も渋々ながら引き下がってくれた。
 しかし、紗月の両親はそれを受け入れなかった。


 ぎこちない空気の中にあっても授業はつつがなく終わり、部活動の時間がやってきた。
 練習時間が多少短くなったとはいえ稽古内容はそれほど変わらない。変わったのは女子剣道部に一年生が入部して後輩ができたことだ。
 新入部員とはいえ一年生は皆経験者で、去年始めたばかりのわたしと紗月に彼女たちを指導できるだけの力量はない。でも、武道は実力がすべてではない。わたしたちは、太刀河先生から教わった武道の心得をさりげなく後輩たちに伝えていくことにした。 
 ……はずだった。
「コテェー!」
 掛け声と同時に、右肘に衝撃が走った。
「いっ!」
 わたしは激痛のあまり竹刀を落とし、床にしゃがみこんだ。
 技が外れて、防具のない部分に当たったのだ。
「ごめんなさ~い、先輩。大丈夫ですかぁ?」
 相手の一年生が駆け寄ってきて謝った。
 審判役の先輩は一年生に注意をした後、練習試合を中断させてわたしたちを下がらせた。
 面を外し、打たれた部分を見る。赤くなっている。動かす分には問題ないが、ヒリヒリと痛い。
 やっぱりおかしい。
 さっき、他の一年生には足を踏まれた。
 その前の一年生は、審判の「やめ!」の後に打ち込んできた。
 二度までは偶然と思ったが、今の子の口調で確信した。
 この子たち、絶対わざとやってる。それも審判に故意と思われないよう巧妙に。
「先輩、ごめんね。痛かったよね?」
 さっきの相手だった一年生が、わたしの右隣に正座した。
「ごめんって、さっきのはわざと――」
「大丈夫っしょ」
 わたしの言葉を遮るように、もう一人の一年生が左隣に正座した。前の試合で足を踏んできた子だ。
「小鞘ちゃんの家はお金持ちだから、怪我しても病院ですぐ治してもらえるんだよね?」
「な……」
 ゾッとするほど悪意が籠ったその声は、周囲の人たちには聞こえていない。今わたしが声を上げても、この二人がしらばくれて終わりだろう。
 左の子が右の子に言う。
「あんたさぁ、さっきの小手はちょっと無理があったっしょ。体勢悪かったし。バレるとこだったじゃん」
「大丈夫だって、一回なら。ね~、先輩?」
 本人に対してよくもぬけぬけと。
 でも、ここで怒っちゃダメ。今は我慢して、この子たちを良い方向に導いてあげる方法を考えないと。
 しかし、翌日。さすがに反則を繰り返してはまずいと思ったからか、一年生たちはやり方を変えてきた。
「ねえ、先輩。今日暑かったよね。あたしジュース飲みたいなぁ」
「小鞘ちゃんはお金持ちだから当然奢ってくれるよね。毎日五人分」
 わたしの周りに人がいないほんのわずかな隙をついて、さも先輩を慕っているように声をかけてくる。
「あの、ええと……」
 一日では対策を考えられなかった。このくらい誘拐犯や紀藤に比べればどうってことないはずなのに、とっさには言葉が出てこない。こういう地味な嫌がらせは、かえって対処がしづらい。
「小鞘、何してるの?」
 更衣室から出てきた紗月が声をかけてきた。
 すると、一年生の一人がすかさず紗月に駆け寄る。
「このあと新條先輩がジュース奢ってくれるんですよ。玉野先輩も一緒に行きませんか?」
 事情を知らない紗月は、目を丸くしてこっちを見てきた。
「え、いいの?」
 良くはないが、今は騒ぎを起こしたくないから仕方ない。
「うん、いいよ。みんなで行こ」


 一年生たちの嫌がらせに()えながら対策を考えているうちに、状況はもはやそれどころではなくなってきた。部活以外でも周囲の敵意を感じるようになったからだ。
 表立って嫌がらせをする者こそいなかったが、明らかに避けられているのがわかった。
 最低限の事務連絡を除いては、誰もわたしに声をかけてこなくなった。
 唯一わたしと話をしてくれる紗月に会いに行くと、自分のクラスメートたちと一緒にいて、声をかけられないことが多くなった。昼食も一緒には食べられなくなり、わたしは孤立していった。
 理由は想像がつく。
 社会で起きていることが、この学校でも起きているのだ。一部の富裕層とそうでない人間の対立。祖父が元国会議員で父が現職の県会議員であるわたしは、どちらかというと富裕層側の人間だ。だから多くの生徒たちがわたしを敵視する。
 だからといって、このまま雰囲気に呑まれるのは嫌だった。
 せめて昼食くらい友達と一緒が良かった。
 そうだ、教室じゃなくて、どこか別の場所に紗月を誘えばいい。
「待てよ」
 教室の前の廊下で、知っている三年生の男子生徒が声をかけてきた。
 紀藤(きとう)(れん)だ。
 以前は茶色に染まっていた髪が黒くなっている。制服も着崩していない。
「ど、どうしたの? わたし、紗月と……」
「やめとけ。教室なんかで無理に誘ったら、あいつまで標的にされるぞ」
「でも……」
「落ち着けって。俺もお前と同じ立場なんだ。まずは話し合って、頭ん中整理した方がいい」
 そう言われて思い出した。この人の家もお金持ちだったことを。
「付いてきな。たまには違う奴と昼飯ってのも悪くないだろ?」
「はぁ……」
 紀藤に連れて来られたのは、以前彼らが溜まり場として使っていた体育館裏だった。
 普通なら絶対に来ない場所だが、今は非常時なので仕方がない。タバコの吸殻も落ちていないことだし、ここは彼を信じよう。
 わたしたちは体育館裏のコンクリート階段に腰を下ろす。
 紀藤は持ってきたビニール袋からサンドイッチとパックのジュースを出した。
 わたしもお弁当を開け、食べ始める。
「で、最近どうなんだ? その顔を見るに、いじめとまではいかなくても、それに近いことされてるんじゃないのか?」
「うん」
「俺もだ」
 紀藤はサンドイッチを頬張り、それをジュースで流し込んだ。もうちょっと噛もうよ。
「花井……先輩とはどうなの? ちゃんと話してるの?」
「いや、学校じゃしばらく距離置くことにした。でないと、あいつまで標的にされちまうからな。ほとぼとりが冷めるまでお前もそうした方がいい」
 紗月の両親が送迎の誘いを断ったのも、きっと同じ理由だ。わたしと一緒にいると紗月まで嫌がらせを受けてしまう。
 わたしは頷くしかなかった。
「部活もしばらく休んだ方がいい。事情を説明すれば樋口先生ならわかってくれんだろ」
「うん……」
 紀藤はわずか五分足らずでサンドイッチを食べ終えると、ゴミをビニール袋に入れ、口を縛った。
「つらいかもしれねえが、とにかく今は堪え忍ぶことだ。こんな状況いつまでも続きゃしねえよ。大衆は飽きっぽいからな」
 いたずらっぽく笑う彼が、今は頼もしかった。
 あとで紗月にメッセージを送ろう。学校では無理でも、外でならいくらでも話せるんだから落ち込むほどじゃない。何より、わたしたちには同じ先生がいる。次の日曜日には、また一緒に練習できる。そう思えば少しの間くらい寂しくたって平気だ。
 ところがその日の夜、太刀河先生から送られてきたメッセージに、わたしは卒倒しそうになるほどショックを受けた。
 
『すまないが、武道の練習はこれまでだ。理由はボディガードとして雇われることになったからだ。詳細は次の練習日に話す』

 次の練習日に――という最後の一文を見て、わたしはなんとか倒れずに済んだ。
 まだ会って話ができる。いきなりお別れというわけではない。
 でも、どうして急に……。
 また世の中に変化が起きたのかもしれない。
 落ち込んでいても仕方がないので、わたしはネットで調べてみることにした。
 そのうち、こんな記事を見つけた。

『ここ数週間で富裕層が身を守るためにボディガードを雇うようになった。ただし、日本にはプロのボディガードが少ないため、武道家や格闘家と個人的に契約するケースが多いという。しかし、彼らの多くがスポーツ選手であり、護衛には不向きであることが露呈。それにより、今まで表舞台に出ることのなかった真の武道家たちに注目が集まることになる』
 
 太刀河先生が自分から名乗り出たとは思えない。おそらく、スポーツ選手として多少は名のある樋口先生あたりから漏れたのだろう。
 余計なことを――なんて言えるはずもない。わたしだって、樋口先生に太刀河先生を紹介してもらったのだから。
 本意ではないけれど、わたしは太刀河先生に励ましのメッセージを送った。


 次の日曜日。実質、最後の練習日。
 いつも通り三人で借りた公営の武道場に、わたしたちは集まった。、
 先生の様子は今までと変わらなかった。
 これが最後だなんて信じられないくらいに……。
 わたしも努めて平静を装った。
 まずは三十分ほど剣術の練習をした後、先生は言う。
「次は立禅を行う」
「りつぜん?」
 聞いたことのない言葉に、わたしと紗月は首を傾げた。
「座禅が座って行う禅であるのに対し、立禅は立って行う禅のことだ」
 立つことにどんな意味があるかはわからないが、わたしたちは素直に従った。
 先生のやることには必ず意味があるからだ。
 それに禅には興味があった。かの宮本武蔵が晩年に到達した境地である『剣禅一如(けんぜんいちにょ)』という言葉もあるし、武道と禅は深い関係にあるらしい。
「まずは姿勢からだ。足を肩幅に開いて、背筋(せすじ)を伸ばす。それから、頭のてっぺんを糸で吊るされているようなイメージをする」
 言われたとおりにすると、少し肩が軽くなる。普段からだいぶ猫背になっていたことに気付いた。
「膝は真っ直ぐ伸ばさず、ほんの少しだけ緩める」
 今度は膝が軽くなる。代わりに太ももの前面が少し張る。
「ヘソの下あたりに少し力を入れて腹を引き締める」
 なんとなくではあるが、下腹を意識したことで身体が安定したような気がした。
「手は座禅みたいに前で組んでおくといい。……そう、その姿勢だ。その姿勢のまま目を閉じて、なるべく動かないように」
 わたしは目を閉じる。
 禅についての説明はなかった。自分で考えろということか。
 そういえば座禅って何のためにするんだろう(今は立禅だけど)。
 興味はあったが深く考えたことはなかった。なるべく余計なことを考えないよう無心でいればいいのだろうか。
 とはいっても、そんなことは無理だ。望むと望まざると、頭の中にいろんなことが浮かんでくる。消しても消しても浮かんでくる。いや、消そうとすること自体もう無心ではない。そもそも無心って何? 目が覚めた状態で無心になんかなれるの? 無心になった瞬間、失神してない?
 目元がかゆい。かきたい。でもかけない。
 我慢できないほどではないけれど、これはつらい。
 今度は肘の辺りがかゆい。なんでこんな時に限ってあちこちかゆくなるの。
 そうこう考えているうちに五分くらいは経ったろうか。立っているのが少しつらくなってきた。とはいえ、このくらいなら学校の朝礼やバス停での待ち時間と変わらないからどうということはない。
 意識して無心になることは無理そうなので、もう頭の中に何が思い浮かんでも無視することにする。
 それからまたしばらく。十分くらいは経ったろうか。
 けっこうつらくなってきた。膝と踵が痛い。あちこちかゆい。つい、身体をモゾモゾ動かしてしまう。
 無視しようと思いつつも、これは無視できない。悟りの境地がどうとかの前に、まずはこの痛みとかゆさに打ち勝たなければならないことを悟った。
 さらにしばらく。
 何分経っただろうか。十五分くらいは経った気がする。
 だいぶつらくなってきた。だるい。屈伸したい。座りたい。そして、かゆい。
 これはもう苦行だ。
 禅は仏教用語だから、元は釈迦の教えだ。その釈迦が苦行は無意味だと悟ったはずなのに、どうしてこんなことを? この程度のこと苦行でないと言われてしまえばそれまでだが、わたしたちは修行僧ではない。ただの高校生だ。
 精神的に耐え切れなくなって、わたしは聞く。
「あの、先生。これいつまで続けるんですか?」
「生きている限りずっとだ」
 先生は冗談を言う人ではないから、その言葉に深い意味があるのはわかる。
 だからもう少しがんばってみる。
 何分かして、いよいよ限界が近くなってきた頃、声を上げたのは紗月だった。
「先生、そろそろ教えていただけないでしょうか? この立禅にはどんな意味があるんですか?」
 先生の反応が気になって、つい薄目を開けて見てしまう。
 わたしたちの前で同じ立禅を行っている先生は、目を閉じたまま菩薩のように安らかな表情をしていた。
 その先生がゆっくりと目を開く。
「そうだな、そろそろ頃合いか。でもその前に、自分で直せるところを直してみなさい」
 指摘されて、だいぶ姿勢が崩れているのに気付いた。はじめに言われたことを、すっかり忘れている。
 紗月も気付いたらしい。
 わたしたちはピンと背筋を伸ばし、元の姿勢になる。
「そう。その姿勢なら、ただ立っているだけよりずいぶん楽にならないかな?」
「う~ん……」
 多少は楽な気もするが、せいぜい気休め程度だ。つらいものはつらい。
「ずいぶんってほどじゃないです。ちょっとだけです」
 嘘を付いても仕方がないので正直に言うと、先生は苦笑した。
「そうか。まあ、慣れないうちはそうだろうな」
「慣れれば、ずっと立っていても平気なんですか?」
 紗月が聞いた。
「平気ってわけじゃない。俺だって三十分もすればつらくなってくるよ。二足立ちの人間が正しい姿勢を維持するのは、決して簡単なことではないんだ」
「でも、大事なことなんですよね?」
「そう」 
 わたしの言葉に、先生は力強く頷いた。
「正しい姿勢を維持することは日本武道の基本だ。姿勢の良し悪しがそのまま技の威力につながると言っても過言ではない。もちろん、立っている時だけでなく座っている時の姿勢も大事だ。正しい姿勢を覚えれば肩凝りや腰痛を防止にもなる。そういった痛みから自分を守るのも護身術のうちだ。さっき言ったことを忘れず意識するように」
「はい」
 と返事はしたものの、その自信はなかった。
「でも、姿勢って気が付くと崩れてるんですよね。どうしたら治せるんでしょう?」
「自然体で正しい姿勢ができるよう癖にするしか方法はない。そのためには練習の時だけでなく、常日頃から自分の姿勢を意識することだ」
 やっぱりそうですよね。地道にがんばるしかないですよね。
「そもそも武道の修行というものは、部活のように決まった時間にだけやれば良いというものではない。立つこと歩くこと座ること、それから食事も睡眠も、生活そのものが武道と深くつながっている。二十四時間すべてが練習時間であり、本番でもあるんだ。そうして自分で自分を管理できるようになれば、指導者がいなくとも成長していける……」
 先生の顔が急に曇った。それまでピンと伸びていた姿勢がわずかに縮こまる。
「本来なら、これは最初に教えるべきことだった。でも、いきなりこんな練習をさせたら変に思われるんじゃないかと不安で、つい後回しにしてしまった。でも、今はそうも言ってられない」
 もうすぐ終わりの時が来てしまう。そんな空気になってきた。
 しばらくの間、武道場を静寂が支配する。
 廊下の足音や、遠くで子供たちがはしゃぐ声が聞こえてくる。
 三十秒くらい経っただろうか。わたしは、いたたまれなくなって聞いた。
「ボディガードのお仕事、どうして断らなかったんですか? こんな言い方おかしいかもしれませんけど、その依頼主は先生が守るほどの人なんですか?」
「ただの俗物さ。守る価値なんてないよ」
「じゃあ、どうして?」
「俺はボディガードではなく、武道家として依頼主を指導するつもりだ。もちろん、依頼主を怒らせないよう慎重に、それとなくな。その上で依頼主の地位を利用して、この事態を穏便に収められるよう働きかけてみる」
「そんなことができるんですか?」
「俺一人では無理だが、武道家の中には俺と同じことを考えている人間が少なからずいる。みんなで力を合わせればあるいは――といったところだな」
 わたしはそれ以上何も言えなかった。
 やっぱり先生はすごい。まさかそんなことを考えていただなんて。
 わたしなんかが邪魔をするわけにはいかない。
 先生はわたしと紗月を交互に見た後、今まで見せたことのない悲哀を浮かべた。
「寂しくなるな。君たちと一緒に練習ができて、俺も楽しかったんだ。本当はもっと続けたいんだ。でも……」
 うつむいたまま、長い沈黙が続いた。
 いつまでもこうしてはいられないと、わかっていても。
「先生!」
 紗月が沈黙を破り、先生の胸に飛び込んでいった。
 そして、胸に顔を押し付けるようにして、嗚咽混じりの声を出した。
「行かないでください……!」
「玉野さん……」
 先生は紗月の肩を抱いた。
 やっぱり、紗月は先生のこと――
 じゃあ、わたしは?
 わたしは先生にハッキリとした恋愛感情を抱いているわけではない。先生は先生であって、尊敬はしていても、お付き合いするとかそういうことは、まだ考えられない。
 それでも、先生を想う気持ちで紗月に負けたくなかった。
「せ、先生!」
 わたしも先生の腕に飛び付いていった。
 すると先生は身体を少しずらして、わたしと紗月二人を抱えてくれた。
 紗月が先生の右胸に顔を押し付けるように、わたしも左胸に顔を押し付けた。
 先生の鼓動が聞こえてきた。でもそれ以上に、激しい自分の鼓動が聞こえた。
 わたしは思い切って言う。
「先生、お仕事断ってください。先生は、ずっと先生のままでいてください」
「新條さん……」
 先生の声は戸惑っていた。当たり前だ。
 それでも、気持ちを伝えずにはいられなかった。
 わかってる。こんなのワガママだってことはわかってる。
 それでも……。
 やがて、先生は優しく言った。
「君たちはもう立派な武道家だ。だから君たちは君たちで、自分にできることをするんだ。そしたら同じ武の道を進む者同士、必ずまた会えるよ」
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