第12話 花と芥のフラグメント
文字数 2,027文字
三月末に母の誕生日がある。大学は春季休暇の終盤で、非常勤講師ごとき親不孝者にも暇ができるので、今年も帰省した。
帰省中は母とよく散歩するが、折からの陽気のせいか今年は桜が満開だった。過疎と高齢化を極めつつある山国の片田舎では人出もなく、そよ風にちりめくさまを毎日のように堪能できた。
「おおっ」
「綺麗だねえ」
桜木の春たけなわに綻びて万朶の命いざと散りなむ。この色、この風、この潔さ、これぞ春である。
去年と同じく、十八年前から同じく、四月初旬の新横浜駅にひとり立った。気づけば上着の裾に桜の花びらが一枚ついてきていて、なァんだ今年は一人じゃなかったか、と思うやたちまち風に攫われて春霞の彼方へと逃げていった。
***
掃除が好きだ。身辺が猥雑だと思考まで雑然としてくる気がする。どこかで漱石がよい書斎の条件に「明窓浄机」を挙げていたが、よくわかる。
ほうきが最も楽しい。塵や芥を一ツ処へ集めていると思考も調和して研ぎ澄まされてくる気がして、心地よいのだ。
「千切りァええわ」
父は退職してから料理をするようになった。ある晩ザクザクと台所から聞こえてきて見に行ったら、あっという間にキャベツ一玉が微塵になった。あっけに取られているとほっと一息ついて、
「無になれるじゃろ、なァんも考えんでええ」
その境地に近いのかもしれない。
***
実家ゆずりの早寝早起きが抜けず、今朝も5時に目が覚めた。10時過ぎには昼飯をと腹が鳴ったので、散歩がてらバーガー店でお持ち帰りして近くの公園でつまんでいた。
「もう切っちゃおうかって、夫とも話してるの」
「あら、せっかく綺麗に咲いてるのに」
むかいの路地で中年女性が話していた。一方の庭の小ぶりなソメイヨシノをまぶしげに見上げつつ、どちらも語尾がやけに間延びしていて、所帯くさい。
「ケムシがすごいのよ。それに、ほら──」
「まッ!」
「桜は見るだけでじゅうぶんよ」
怨めしげなまなざしが隣人を超えてこの目を捉えかけて、ポテトを咀嚼しながら立った。四つの目が汚らしげに見下ろしていたアスファルトには、落ちた数多の花びらがこびりついていた。
***
「シーシュポスじゃあ……」
サークル部活に縁のなかった学生時代は学祭期間も帰省していた。ある秋だらだら本を読んでいたら、玄関から門扉までほうきで掃くよう母に言いつけられた。
「なに?」
「徒労よ徒労!」
垣根がわりに植えていたレッドロビンが掃いた先からまっかな葉々をちらちら落とし、秋風がほうきの線を掻き消しにきていた。
「そい でええんよ、ほうきがけは」
監視ついでに庭で草むしりをしていた母は、笑っていた。なにがええのかわからず、早く読みさしのスタンダールに戻りたくてほうきを振り回した。なぜええのか、今はよくわかる。
ほうきがほしい。だがワンルームに掃ける場所はない。それじゃ意味がない──
***
ドリンク片手に帰路を行っていると気づいた。お持ち帰りでついてくるドリンク用の台座みたいな型紙がない。宅配ピザの梱包材みたいに水で濡らせば縮こまり捨てるのが楽になるあれだ、どこかに落としてきたらしい。公園ではあったのに。
引き返すか。いや、もうだいぶ来てしまった。引き返さないのか。いや、ふくらはぎも張ってきている。引き返すべきだ。いや、日差しも強くなってきた。引き返せ。いや、──
くるりと回れ右したら、後ろに迫っていた日傘片手の女学生らしきが側溝すれすれによけた。
「お嬢さん、あいすまぬ。これは誇りの問題なのだ、道を開けてくれ」
しばらく前に追い越した婦人の、あからさまに不審な目つきとすれちがう。
「奥さん、ご容赦あれ。魂の健康のためだ、見過ごしてくれ──!」
それぞれに目礼をもって釈明しつつ、狭い路地を引き返した。
***
前年の秋口に大病をした母は杖をついているので、階段や下り坂はゆっくり歩く。自分の早足が気になって仕方なかったが、三日もすれば慣れた。
散歩から帰ってごちゃごちゃしていたら、母は納戸にいた。抽斗 で用事するその周りに花びらが散っている。まるで桜になったかのように、今また膝行 ると一枚その身から落ちた。
「ああ、こりゃ引っついてきたんよ──」
母は65になった。おかしそうに、どこか照れくさそうに一枚一枚つまんで拾う肩は、去年よりわずかに小さくなった。頭の中で「少年老ヒ易ク学成リ難シ」が白文のまま渦巻いていた。
***
新横浜駅の上りホームは、普段あれほど閑散としているのが嘘のような人だかりだった。英語、中国語、スペイン語、ヴェトナム語かタガログ語かが大荷物ごとのっそり改札へ降りてゆく。
しばらく待った方がいいか、と花びらの飛んでいった方を見上げていた。のどかな空は混じり気なく、底抜けに淡く青い。
アア煙草が吸いたい、今すぐに。無性にそう思った。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
(室生犀星)
帰省中は母とよく散歩するが、折からの陽気のせいか今年は桜が満開だった。過疎と高齢化を極めつつある山国の片田舎では人出もなく、そよ風にちりめくさまを毎日のように堪能できた。
「おおっ」
「綺麗だねえ」
桜木の春たけなわに綻びて万朶の命いざと散りなむ。この色、この風、この潔さ、これぞ春である。
去年と同じく、十八年前から同じく、四月初旬の新横浜駅にひとり立った。気づけば上着の裾に桜の花びらが一枚ついてきていて、なァんだ今年は一人じゃなかったか、と思うやたちまち風に攫われて春霞の彼方へと逃げていった。
***
掃除が好きだ。身辺が猥雑だと思考まで雑然としてくる気がする。どこかで漱石がよい書斎の条件に「明窓浄机」を挙げていたが、よくわかる。
ほうきが最も楽しい。塵や芥を一ツ処へ集めていると思考も調和して研ぎ澄まされてくる気がして、心地よいのだ。
「千切りァええわ」
父は退職してから料理をするようになった。ある晩ザクザクと台所から聞こえてきて見に行ったら、あっという間にキャベツ一玉が微塵になった。あっけに取られているとほっと一息ついて、
「無になれるじゃろ、なァんも考えんでええ」
その境地に近いのかもしれない。
***
実家ゆずりの早寝早起きが抜けず、今朝も5時に目が覚めた。10時過ぎには昼飯をと腹が鳴ったので、散歩がてらバーガー店でお持ち帰りして近くの公園でつまんでいた。
「もう切っちゃおうかって、夫とも話してるの」
「あら、せっかく綺麗に咲いてるのに」
むかいの路地で中年女性が話していた。一方の庭の小ぶりなソメイヨシノをまぶしげに見上げつつ、どちらも語尾がやけに間延びしていて、所帯くさい。
「ケムシがすごいのよ。それに、ほら──」
「まッ!」
「桜は見るだけでじゅうぶんよ」
怨めしげなまなざしが隣人を超えてこの目を捉えかけて、ポテトを咀嚼しながら立った。四つの目が汚らしげに見下ろしていたアスファルトには、落ちた数多の花びらがこびりついていた。
***
「シーシュポスじゃあ……」
サークル部活に縁のなかった学生時代は学祭期間も帰省していた。ある秋だらだら本を読んでいたら、玄関から門扉までほうきで掃くよう母に言いつけられた。
「なに?」
「徒労よ徒労!」
垣根がわりに植えていたレッドロビンが掃いた先からまっかな葉々をちらちら落とし、秋風がほうきの線を掻き消しにきていた。
「そ
監視ついでに庭で草むしりをしていた母は、笑っていた。なにがええのかわからず、早く読みさしのスタンダールに戻りたくてほうきを振り回した。なぜええのか、今はよくわかる。
ほうきがほしい。だがワンルームに掃ける場所はない。それじゃ意味がない──
***
ドリンク片手に帰路を行っていると気づいた。お持ち帰りでついてくるドリンク用の台座みたいな型紙がない。宅配ピザの梱包材みたいに水で濡らせば縮こまり捨てるのが楽になるあれだ、どこかに落としてきたらしい。公園ではあったのに。
引き返すか。いや、もうだいぶ来てしまった。引き返さないのか。いや、ふくらはぎも張ってきている。引き返すべきだ。いや、日差しも強くなってきた。引き返せ。いや、──
くるりと回れ右したら、後ろに迫っていた日傘片手の女学生らしきが側溝すれすれによけた。
「お嬢さん、あいすまぬ。これは誇りの問題なのだ、道を開けてくれ」
しばらく前に追い越した婦人の、あからさまに不審な目つきとすれちがう。
「奥さん、ご容赦あれ。魂の健康のためだ、見過ごしてくれ──!」
それぞれに目礼をもって釈明しつつ、狭い路地を引き返した。
***
前年の秋口に大病をした母は杖をついているので、階段や下り坂はゆっくり歩く。自分の早足が気になって仕方なかったが、三日もすれば慣れた。
散歩から帰ってごちゃごちゃしていたら、母は納戸にいた。
「ああ、こりゃ引っついてきたんよ──」
母は65になった。おかしそうに、どこか照れくさそうに一枚一枚つまんで拾う肩は、去年よりわずかに小さくなった。頭の中で「少年老ヒ易ク学成リ難シ」が白文のまま渦巻いていた。
***
新横浜駅の上りホームは、普段あれほど閑散としているのが嘘のような人だかりだった。英語、中国語、スペイン語、ヴェトナム語かタガログ語かが大荷物ごとのっそり改札へ降りてゆく。
しばらく待った方がいいか、と花びらの飛んでいった方を見上げていた。のどかな空は混じり気なく、底抜けに淡く青い。
アア煙草が吸いたい、今すぐに。無性にそう思った。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
(室生犀星)