第9話 跫

文字数 1,890文字

 晩秋の夕焼けには絶命間近の感がある。早くもおやつ時から傾き始めている日が午後4時を回ったあたりで強烈に濃い朱色を放ったと思えばたちまち暗転、この時季の日没が「釣瓶落とし」と呼ばれるのも(うべな)えるほどあっさり暮れる。

 釣瓶とは井戸に滑車で釣られている汲み桶のことだ。上下水道が完備された今では知る人ぞ知るという代物だろう。たしかにはるか地下で地上の光を映す水面へとそれを落としたとき予測よりよほど早くボチャッといっていた、ような気がする。それが喩えられたわけである。

「秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。」

 国語か日本史で冒頭を覚えさせられた筆頭『枕草子』は、秋の情緒にそんな釣瓶落としの夕方を挙げている。その筆者のことを、昔は「セイショウ・ナゴン」だと思っていた。字面だけで済ませたがる暗記至上主義の弊害か、暗に現代よくある姓名「二字・二字」に従っていたのだろう。後年「今和次郎」を見たときも「イマカズ・ジロウ」だと、「森林太郎」も「シンリン・タロウ」だと思った。

 もちろん正しくは「セイ・ショウナゴン」で、「小納言」は官位を表す通称(女房名)だと今は承知している。「コン・ワジロウ」は民俗学者で本名、「モリ・リンタロウ」は鷗外の本名である。ついでに「クレ・シゲイチ」のことは「ゴ・シゲカズ」とかなり最近まで思っていた。

 いくら無知な子供でも「セイショウナ・ゴン」とは思わなかったらしいが、稀代の猟奇的犯罪者「アベ・サダ」のように女性名だって濁音がまじるのは別段おかしいことではない。そもそも「ごん」は、日本文学史に燦然と輝く愛すべき名でもある。

「ある秋のことでした。二、三日雨がふりつづいたその間、ごんは、外へも出られなくて穴の中にしゃがんでいました。」

 もちろん新美南吉の『ごんぎつね』のことだ。実はこのごん、なぜかオスっぽい印象だったが、原作では性別が明らかにされていない。「おれ」または「わし」と自称しているものの、双方もともと「(おのれ)」または「(わたし)」から転じて男女の境なく使われていたものである。性別どうあれ愛らしいことに変わりはないが。

「兵十が、赤い井戸のところで、麦をといでいました。兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しいくらしをしていたもので、おっ母が死んでしまっては、もう一人ぼっちでした。」

 近ごろ縁あって何十年ぶりかに再読していてまず気づいたのは、上記の性別のほかに「井戸」が効果的だということだった。そこで米を研ぐ(洗うとは言わない)ことの肩と腰にくる重みを知っていれば、米より安価な麦ということもあいまって、兵十の寂しい貧しい暮らしぶりが手に取るようにわかる。

「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。」

 前々段の引用のとおり「秋」に、まさに釣瓶が落ちるように、ごんはあっけなく死んでしまう。その日の夕方も、たぶんこんなふうに朱の一色だったのだろう──

 窓のむこうで街路樹がはらはら黄葉を落としだしていた。青空を背景に見たいといつもより早めに散歩へ出て、あちこち堪能して、夕刻ある公園にさしかかった。もう百歳をゆうに超えているのだろう立派なイチョウが、見事にまとっていた黄金を一枚一枚と脱いでいるところだった。

 はらり、はらり、と眺めるうちにも剥がれゆくその木陰に、おばあちゃんが立っていた。ごそごそと、うんち袋を詰めているところだ。やや似つかわしくないフレンチブルが、肉付きのよい短足でそばに踏ん張っている。地面を嗅ぐわけでもなくうつむいたまま動じない。老犬らしい。

 おばあちゃんが、用の済んだ手をいぬの方へ下ろした。指の隙間にササミらしきが見えた。どこぞ痛んで屈めはしないのだろう、前後へよたよた足踏みするようにふらついている。

 手が頭に触れるか触れないかというくらいで察したのか、ふてぶてしい面が上がって、近づく指先に口を寄せ、パク、パク、とぶよぶよしい咀嚼を始めた。

「────」

 何かしゃべりかけている。にこにこして、うんうんと首肯(うなず)いている。ブスッとした目が口まわりを舐めてから「もうないのか」と言わんばかりにまばたいた。

 公園じゅうに黄葉が、一枚また一枚、ひた、ひた、と落ちていた。かすかな葉と葉の擦れる音が軽々しい(あしおと)みたいで、その色した毛並みの小さな愛らしい生き物が、まっかに染まりくる夕焼けの中を、あちこち跳ね回っているかのようだった。





人は、薔薇色の夜明けを迎えられると知ってもなお、道理に暗いままであることを自分自身で望むだろうか?
(ニーチェ)

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