第14話 いぬと語れば

文字数 2,102文字

 英語、仏語、独語、古希語、簡体字、と学習してきたのは、とどのつまり犬語を解するためのような気がしてならない。6年前に実家の柴犬ケンが亡くなってから、そんなふうに感じるようになった。

「やあ」
「あっ、久しぶり!」
「調子はどうだい」
「おなかすいたよ」

 夕方ごろ散歩に出れば、住宅街を闊歩する面々と歓談できる。語学なんでも「習うより慣れろ」の鉄則で、そうして5年はうろうろしてきた。

「なんだ、しけたツラしてんな」
「腹減ってさ。そっちはたらふく食えてるみたいでいいよな」
「腹は膨れてもペットフードは考えもんだぜ」
「そんな不味いのか」
「不味かァねえんだけど、どうも臭うんだよな。ゲボ吐かねえと(こな)れねえし……」

 近ごろは初見のイヌでもあまり警戒されなくなった。ヒトの目は胡散臭そうでもイヌの目は(はな)から親しみ深いのだ。おしっこを引っ掛けた覚えはないのに、犬語とはかくも不思議なものである。

「ごきげんよう」
「はじめまして」
「わたくし、こないだ越してきたばかりなんです」
「確かに綺麗な御御足(プードル)、この辺じゃ見かけたことありませんね」
「おかげさまで登校途中の子供たちが毎朝うちを覗いてきて、やかましくって仕方ありませんの」

 悪魔、悪魔よ今こそ来たれ。黒むく犬に化けて来い。腎臓ひとつ()れてやるから、わが友となってくれぞかし──

 梅雨晴れの午後、しばしば立ち寄る公園にさしかかったら、ずんぐりむっくりブルドッグが崩れたオスワリをしていた。そばの水道で短パン中年が手を洗っている。

「──あッ待て! ハウル! 待て!」

 横目でこちらの進入を認めるや、素早く立ち上がった。(リード)の取っ手をずるずる引きずり、飼い主あわてて呼びかけるも時すでに遅し、勇名に(もと)らぬ動く城がごとき重たげな前進である。

 何度か見かけてきたやつだ、としゃがんで構える。なんと大きな体躯だろう、パグなんて比じゃない。まるで筋肉の塊が突進してくるみたいだ。やや気圧(けお)されていると目前で減速、差し出していた両手の甲に湿った鼻がぴちょんと当たる。

「おまえ、いつも一人だな」
「へい、ワンルームの一人暮らしで」
「それにしては分別ありという話だぞ」
「昔は、友がおりやして」
「どうりでおれの勘所も当てられるわけか」
「へい、ここも()っているでしょう」
「ふん、悪くない──」

 ごつい首輪の下を掻いてやったらたぷたぷあごを垂れたので、二足歩行を見上げる四足歩行が強張らせがちな両肩を入念に揉んでやる。

「すみません、やんちゃな子で」
「大丈夫です」
「人間はいいよな、肩が凝っても自分でほぐせる」
「肩を凝らないようにはできないのが人間ですよ」
「ふむ、あっちもこっちも不器用か。──ブシュ!」

 恐縮しきりの飼い主に上向いた鼻っ面をちょんとしたら一発盛大なくしゃみ、ぶくぶくしい顔つきに妙に厭世家めいた色を浮かべている。

「長老によろしく伝えておいてくれ」
「へい、これからちょうど向かうところで」
「こいつ最近あすこまで登らないんだ、暑いからって──」
「ほらハウル、行くぞ」

 充血した目が振り返り、のしのし去っていった。短く太い前足をそれぞれ外側から掻くように出して、大きなおしりをぶりぶり振りながら────

 山手の雑木林をしばらく行くと、つましい広場に抜けられる。一辺が十数歩程度の手狭な土地に木製ベンチとぼろっちい柵があるきりだが、関東西部へ開けた視界は富士の山まで見晴らせる穴場である。

 晴れていれば17時を過ぎたころ、そこに秋田犬が安らいでいる。おばあさんをベンチに休ませ、その足もとに伏せをして、柵越しに落日をじっと浴びているのである。

「あら」
「こんにちは」

 おばあさんは、散歩で知り合ったうち唯一お話できるヒトだ。初めてその広場を見つけたとき、ゴンの居住まいに心を打たれ、なけなしの勇気を絞って話しかけたのである。

「ゴンちゃん、お兄さんよ」
「……」
「ごめんなさいね、いつもブアイソで」
「いえいえ、元気そうでよかったです」

 大きな体を揺すられても横目ひとつ寄越してこない、ひげに白の目立つかなりの老犬だ。ブアイソなようで、柴犬の生き様を見届けた目には別段なんてことはない。

「さっきハウルに会ったんですが、よろしくと言っていました」
「……」

 ごわごわしい首もとを、色褪せた手作りらしい首輪に沿ってさすっていたら、ぴくりと左耳が揺れた。

「最近ここまで上がって来られないんですって、足の臭い飼い主のせいで」
「──」

 にんまりと口角が下がる。

「まっ、いい顔しちゃって」

 途端にツンとする。

「あらやだ。誰に似たのかしらねえ、この頑固者は」
「あはは」

 おばあさんは皺立った手を伸ばして、茜色に染まる頭にそっと置いた。ちりっと薬指の古びた銀色が輝いた。

「…………」

 昼間の暑熱が嘘のような涼しい風がひとつ吹いた。今まさに富士のむこうへ落ちてゆく夕陽と何かを語り合っているかのように、暮れなずむ空の下で、ゴンはじっとしていた。






 犬もまたこの地球上に生きる一つのいのちである。しかも何千年来の人間の親しい友である。その親しいいのちへの想像力と共感を失うとき、人は人としてダメになってしまうにちがいない。
(中野孝次)

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