第3話 花曇りセンチメンタリズム
文字数 2,040文字
語源「晴る→春」など知らぬと言わんばかり、朝から白々しいまでの曇り空である。拙宅を出たときから足もとには花びらが延々と落ちている。青天を衝 かんと伸びて匂わしき桜花この世の春を謳えど、かくもあえなき三日天下よ。桜は散りきった。
春は桜、夏は蝉、秋は紅葉、冬は雪と、四季には「刹那」が欠かせない。しからずば、その中にある人事一切の塵労もまた邯鄲一炊、夢のまた夢、いずれ消えゆくものなるや。路傍に茶ばんで干からびる数多の残滓がいっせいに「無常」ということを物語っている──
桜の樹の下には屍体が埋まっている! (梶井基次郎)
死は冬ばかりのものではない。春だって、いや春だからこそ、余計に透けてそれが見える。影は闇ひしめく中より光さす中にある方が際立つものだ。ボッティチェルリの『春』に初めて暗い存在を見つけたときと同じ寒気にぶるっとする。
世の中にたえて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし (在原業平)
移ろいやすきが女心と秋の空なら未練がましきは男心と春の空、ぐずつく叢雲がようよう雨粒こぼしだしたら、バスの行先板でしか見たことのない地名にまで来ていた。ぼちぼち腹も空いてきたので左折し、もひとつ左折で一本奥まって、花冷えに追われ早足で帰路についた。
しばらく行くと色褪せた郵便ポストが彳 んでいた。錆びた「宅配便」の看板が並んでいて、「へえ珍しい」と思うや古めかしい木造の構えが見えてきて、ふわり胸が高鳴った。
駄菓子屋さんだ──!
昔ながらの店前 に、ビン詰めの棒飴やゼリーが、格子状に仕切られた箱に色とりどりが、所狭しと並んでいる。日灼けした値札があちこち添えられて、上がり框の奥はすだれが掛かって暗い。
「いらっしゃいませ」
こんなところに、と感動ひとしお立ち入り物色していたら、いつの間にかおばあちゃんが框に端坐していた。白髪をひっつめて、年代物らしい黒ぶち老眼鏡をずらして、喜寿はとっくに超えていそうな面持でほおえんでいる。
「すみません突然お邪魔してしまって──」
「いいえ、ゆっくりごらんになってください」
ごめんくださいの一言もなくこんな図体に闖入されたら意想外に違いないが、穏やかな抑揚が返ってきてホッとする。
「このあたりにお住まいなんですか」
「や、〇〇の方です」
「まあ、ずいぶん遠いところからいらしたんですねえ」
「散歩のつもりがだいぶ来てしまって、これから帰るところなんです」
「あらあら。でも大きなお客さんは、ひさしぶりですよ」
気恥ずかしくてアッハと吹いた。直前に小学校を通り過ぎていた。
「このあたりは小さなお客さんが多そうですね」
「ええ。でも最近はあんまり、お見えにならないんですよ。──どうぞお使いになってください」
「あっすみません」
両手が色とりどりでいっぱいになりつつあったところ、笊 を一枚もらう。平たい網の細かい竹細工で、買い物カゴの代わりだ。昔よく祖母に連れて行ってもらっていた駄菓子屋さんでもそうだった。
「お店は長いんですか」
「もう百年になりますよ」
「すごいですね、大正時代ですか」
「ええ、亡くなった主人の父が乾物屋でして──」
千家のたしなみを思わせる居住まいで、柔和な語り口と鼻母音が心地よくて、ずっとおしゃべりしていたい。幼時こんな人のいる駄菓子屋さんが近所にあれば、おこづかいなんて幾らあっても足りなかっただろう。
「じゃあこれでお願いします」
「ええと、──ごひゃく、さんじゅう円ですね」
すらりしわのある指先が宙を引っかいた。財布に小銭を探している間、手際よく色とりどりが茶袋へ詰められる。
「はい、ちょうど。ありがとうございました」
「ありがとうございます、いただきます──」
「ちょっとお待ちになって」
よいしょと土間の隅に腰を伸ばしたおばあちゃん、
「降ってきましたでしょう、お持ちになってください」
新品みたいに折り目正しいビニール傘が差し出され、あわてて首を振る。
「いや、いいんです、大丈夫です」
「いけませんよ、〇〇までお帰りなんでしょう」
「でも──」
「お体にさわりますから、ね」
莞爾 と、でも一歩も引きそうにない念押しがあって、受け取った。
「すみません、必ずお返しに上がります」
「ええ、またいらしてください」
軒先へ出て、はちきれそうな茶袋をしっかり抱えて頭を下げると、しわくちゃの顔が一層しわくちゃになった。
音なき透明のつぶつぶが傘をみるみる埋めてゆく。湿気にまじって燻 されたような香ばしさを胸もとの茶袋に聞きながら行く。
傘の持ち手をくるりと回したら、面に濃淡の襲 がひとつふいっと現れた。道なり八重桜は見ていない。風もやんでいる。歩を進めるたびちょうちょが蜜に憩うようにひらひらそよいで、雨だれ一閃その上をほうき星かと流れたら、ひたり張りついた。
ぬか雨けぶる空はまっ白で、まぶしいほどに明るくて、通り過ぎる車がしぶきを跳ねていっても、ぬかるみに踏みこんでしまっても、その方ばかりを見上げていた。
散る桜
残る桜も散る桜
(良寛)
春は桜、夏は蝉、秋は紅葉、冬は雪と、四季には「刹那」が欠かせない。しからずば、その中にある人事一切の塵労もまた邯鄲一炊、夢のまた夢、いずれ消えゆくものなるや。路傍に茶ばんで干からびる数多の残滓がいっせいに「無常」ということを物語っている──
桜の樹の下には屍体が埋まっている! (梶井基次郎)
死は冬ばかりのものではない。春だって、いや春だからこそ、余計に透けてそれが見える。影は闇ひしめく中より光さす中にある方が際立つものだ。ボッティチェルリの『春』に初めて暗い存在を見つけたときと同じ寒気にぶるっとする。
世の中にたえて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし (在原業平)
移ろいやすきが女心と秋の空なら未練がましきは男心と春の空、ぐずつく叢雲がようよう雨粒こぼしだしたら、バスの行先板でしか見たことのない地名にまで来ていた。ぼちぼち腹も空いてきたので左折し、もひとつ左折で一本奥まって、花冷えに追われ早足で帰路についた。
しばらく行くと色褪せた郵便ポストが
駄菓子屋さんだ──!
昔ながらの
「いらっしゃいませ」
こんなところに、と感動ひとしお立ち入り物色していたら、いつの間にかおばあちゃんが框に端坐していた。白髪をひっつめて、年代物らしい黒ぶち老眼鏡をずらして、喜寿はとっくに超えていそうな面持でほおえんでいる。
「すみません突然お邪魔してしまって──」
「いいえ、ゆっくりごらんになってください」
ごめんくださいの一言もなくこんな図体に闖入されたら意想外に違いないが、穏やかな抑揚が返ってきてホッとする。
「このあたりにお住まいなんですか」
「や、〇〇の方です」
「まあ、ずいぶん遠いところからいらしたんですねえ」
「散歩のつもりがだいぶ来てしまって、これから帰るところなんです」
「あらあら。でも大きなお客さんは、ひさしぶりですよ」
気恥ずかしくてアッハと吹いた。直前に小学校を通り過ぎていた。
「このあたりは小さなお客さんが多そうですね」
「ええ。でも最近はあんまり、お見えにならないんですよ。──どうぞお使いになってください」
「あっすみません」
両手が色とりどりでいっぱいになりつつあったところ、
「お店は長いんですか」
「もう百年になりますよ」
「すごいですね、大正時代ですか」
「ええ、亡くなった主人の父が乾物屋でして──」
千家のたしなみを思わせる居住まいで、柔和な語り口と鼻母音が心地よくて、ずっとおしゃべりしていたい。幼時こんな人のいる駄菓子屋さんが近所にあれば、おこづかいなんて幾らあっても足りなかっただろう。
「じゃあこれでお願いします」
「ええと、──ごひゃく、さんじゅう円ですね」
すらりしわのある指先が宙を引っかいた。財布に小銭を探している間、手際よく色とりどりが茶袋へ詰められる。
「はい、ちょうど。ありがとうございました」
「ありがとうございます、いただきます──」
「ちょっとお待ちになって」
よいしょと土間の隅に腰を伸ばしたおばあちゃん、
「降ってきましたでしょう、お持ちになってください」
新品みたいに折り目正しいビニール傘が差し出され、あわてて首を振る。
「いや、いいんです、大丈夫です」
「いけませんよ、〇〇までお帰りなんでしょう」
「でも──」
「お体にさわりますから、ね」
「すみません、必ずお返しに上がります」
「ええ、またいらしてください」
軒先へ出て、はちきれそうな茶袋をしっかり抱えて頭を下げると、しわくちゃの顔が一層しわくちゃになった。
音なき透明のつぶつぶが傘をみるみる埋めてゆく。湿気にまじって
傘の持ち手をくるりと回したら、面に濃淡の
ぬか雨けぶる空はまっ白で、まぶしいほどに明るくて、通り過ぎる車がしぶきを跳ねていっても、ぬかるみに踏みこんでしまっても、その方ばかりを見上げていた。
散る桜
残る桜も散る桜
(良寛)