第3話

文字数 2,745文字

 

 月岡秋郎と澤井子爵令嬢の結婚が紙面を飾ったのは翌年、大正三年の春、ちょうど彼岸の頃である。


 成金が女中に産ませた庶子が華族から妻を(めと)るなど、世間で面白おかしく噂されるに十分なゴシップであった。
 欧州帰りの優秀な嫡子が不治の病で後継者の椅子を外された一件から、月岡家の事情はたびたび紙面を(にぎ)わせ、虚実綯(きょじつな)()ぜに知れ渡っていたが、嫡子と婚約していたはずの令嬢が庶子の妻におさまり、更には婚礼前から身籠(みごも)っていた事実も明らかとなり、おおいに(ちまた)の関心を集めた。





「欧州では官民両面で不穏な動きが高まっているとのことだ」

 仏蘭西(ふらんす)語で(つづ)られた手紙から目を上げた咲良は、ベッド脇で直立不動の異母兄に気が付いて苦笑した。

「そう(かしこ)まるなよ。月岡家の長男らしく堂々としていてくれ」

「はあ……」

 久しぶりの面会で、咲良が以前のように

話してくれていることが、秋郎に妙な緊張を感じさせる。

 これまでの経緯を思うと、秋郎の心境は(はなは)だしく複雑だった。

 月岡二郎の第一子として生まれたものの、女中であった産みの母とは引き離され、あくまで使用人として育てられた秋郎である。咲良が生まれてこのかた、兄弟らしく過ごしたことなど皆無だった。父の家族、とりわけ妻とその周囲の者らが、二人が対等でいることを許さなかったのだ。
 咲良本人はというと、幼少の頃から無邪気に秋郎を慕ってくれた。兄気取りで出過ぎた真似をするなと叱られても、咲良に頼られると嬉しくなって、誰にも(とが)められることなく存分に相手出来たらどんなにか幸せだろうと思ったものだ。
 成長してもその態度は変わらず、周囲の誰よりも自分を気にかけてくれる咲良のおかげで、秋郎の心はどんなに救われたことか。

 ところが前年いきなり立場が逆転してから、咲良の態度は急によそよそしいものに変わった。卑屈な物言いが増え、秋郎に対しては徹底して敬語で応じるようになり、あれほど気さくで快活であったのに、能面のように無表情な病人になってしまった。
 拒絶されていると悟った秋郎は、(おもんばか)って距離を置いたが、怒りでも憎しみでもよいから、本音をぶつけてくれたらと思っていた。彼の胸の内を、今度は誰よりも自分が気にかけて理解してやらねばと、そのように考えるのだが、(かたく)なな様子に苛立(いらだ)ちを覚えてしまう場面も少なくなかった。

 父の後継者に()えられたのも、華族令嬢を妻に迎えたのも、決して秋郎自身が望んだことではない。だが咲良の病が治ることが見込めない以上、こんな立場は嫌だと逃げ出すわけにはいかない。与えられた(つと)めを果たす以外どうしようもない。

 それでも咲良に対し、一番に浮かぶ思いは憐憫(れんびん)であった。

 病状は、サナトリウムに転院してからも悪化の一途をたどっている。
 下がらない微熱に()かされるように体から肉が消えていき、白い頬は痩せこけて頬骨が目立ち、今にも折れそうな枯れ枝のごとき指も痛々しい。

「また戦争になるかもしれないな」

 留学時代の友人から届いた手紙を読み終えると、咲良は大きく息を吐いた。

「戦争になったら生糸どころじゃなくなるかもしれませんね」

「いや、我が国が戦場になるわけじゃないから、逆に高騰するかもしれん。だが一時的なものだろう。好景気に浮かれず、次の手も打っておくべきだと思う」

 秀才の咲良なら、世の中がどうなっても乗り切れる才覚があるに違いないが、秋郎はそこまで有能ではないことを自覚していた。現状を維持していくだけで精一杯な気がする。

 秋郎とて教育は一通り受けて育ち、成人してからは父の秘書として使われてきたが、仕事を教えられたのはあくまで咲良の補佐が出来るようにということであって、経営についてはまだこれから多くを学ばねばならない。父の後を継いでやっていける自信などまるでなかった。

「そこの引出しに僕の手帳が入ってる」

 咲良はサイドボードを指差して秋郎を見上げた。

「今後の事業について、思うところや提案をまとめておいた。必要なければ()ててくれて構わない」

 その表情には無念さも口惜しさもない。

「遺書みたいなものだと思ってくれ」

「遺書だなどと……」

「自虐のつもりはない。この体がもう駄目なことぐらいわかっている」

 結核とわかって以来、咲良が秋郎に対してこんなに饒舌(じょうぜつ)なことは一度もなかった。それが今は言葉も物腰も穏やかで自信に満ちている。健康だった頃のようだ。

「そういえば、まだ言ってなかったね」

 咲良は秋郎を見つめたまま、にこりと笑みを浮かべた。

「御結婚おめでとう」

 ひび割れて白っぽく乾いた唇から出てきた言葉で、秋郎はすべてを理解した。

「ありがとう」

 秋郎は笑顔を作って白い歯を見せた。

「そういえば妻がよろしくと言っていたが、伝え忘れるところだった」
「体調は?」
「すこぶる健康、食欲も旺盛で順調そのものだそうだ」
「何よりだな」

 にこやかな表情の真ん中で、充血した目だけが別の感情を宿して、秋郎の笑顔を(うつ)していた。

 秋郎が対等な口をきいたのは初めてのことだったが、この日、咲良が態度を変えることは最後までなかった。



 月岡咲良が亡くなったのは、その翌日のことである。

 夜明け前、サナトリウムの庭で大喀血(だいかっけつ)して息絶えていたのだという。

 近くに宿を取っていた秋郎は、知らせを受けるやいなや飛び起きて駆けつけた。

 暁光(ぎょうこう)に照らされた満開の彼岸桜の下で、舞い散る桜吹雪に埋もれるように倒れていた咲良の姿は、この世のものとは思えぬほど美しいものであった。

 薄紅色の花びらと鮮血にまみれた遺体を前に、秋郎は膝をついて慟哭(どうこく)した。

「おまえが俺の全てだった」

 誰にも聞こえぬほど小さな(ささや)き……それは彼の心の叫びであった。そして今日を限りに、生涯このことは口にすまいと固く決めた。



 咲良の死因は病によるものではあったが、夜半に薄着のまま病床を脱け出して庭を彷徨(さまよ)い歩くなど、自死にも等しいふるまいではないか。

 秋郎にあてつけるように、彼が面会に訪れた日を選んで行為に及んだのであろうと誰もが思った。

 むろん、秋郎自身もそのように受け止めており、咲良の死を綺麗事や美談で飾り立てて保身を図るつもりは更々(さらさら)なかった。



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