第4話

文字数 1,632文字

看取(みと)れなかったことだけが心残りです」

 月岡邸の庭に咲く彼岸桜を眺めながら、秋郎は新妻に語りかけた。

 鎌倉より一足遅く満開となったその樹は、かつて咲良が生まれた記念に植えられたものである。

「本当はサナトリウムの庭ではなく、この彼岸桜の下で死にたかったのかもしれません。この樹は咲良が嫡子として待ち望まれて生まれた(あかし)ですから」

 秋郎の妻となった真唯子は、腹部をかばうよう慎重に足を運んで夫に寄り添った。そっと触れた秋郎の手はひどく冷たい。

「後悔なさってる?」

 両手で包むようにやさしく()すると、武骨に筋張ったその手に少しずつ温もりが宿ってくる。真唯子は愛しさを覚え、夫の顔を見上げた。

「いいえ、ちっとも」

 秋郎は長身を屈め、妻の額に軽く接吻した。

「貴女のおかげで、咲良は思い残すことなく逝けたのです。感謝していますよ」

 真唯子は嬉しそうに微笑んだ。



 十以上も年若い妻の肌を、秋郎は知らない。

 咲良の留学中、真唯子から恋心を打ち明けられた時は、この令嬢を奪って駆け落ちでもしたなら父親はどんなに驚き慌てるだろうと考えた。実行するつもりはなかったが、その妄想は秋郎に暗い喜びを与えたものだ。

 この家で重ねた年月において、酷薄な父親やその妻への憎しみはあれど、咲良に対する感情だけは全く違うものであった。
 二人きりで生きることは叶わなくても、兄としてなら死ぬまで傍にいられる。気持ちを押し殺すことには慣れていたから、咲良が結婚して、たとえ目の前で妻と(むつ)み合われたとしても、誰にも胸の内を悟られない自信はあった。
 月岡が代替わりしたら公私に渡って咲良を支え、一生尽くしていけるものだと信じていたのだ。

 何故(なにゆえ)華やかな咲良ではなく地味な自分を好いたのか、秋郎には真唯子の心が理解できない。迷惑だとはねつけても一途に向けられ続ける恋情に戸惑い、当たり障りなく(かわ)しているうちに、咲良は死病に倒れ、秋郎が月岡の後継者に据えられてしまった。

 心を閉ざした咲良に、秋郎は深く絶望した。

 愛する咲良に憎まれていることは悲しく、どうしたら彼の気がおさまるか、必死に考えた。
 それに、咲良の死が避けられないのならば、せめてその血を受け継ぐ存在が欲しい。

 浮かんだ思いつきを実行に移すかどうか、大いに悩んだが、サナトリウムに転院しても快癒(かいゆ)(きざ)しすらないとわかった時、もうそれしか手段はないと決断するに至った。

 妻として生涯ずっと愛し慈しむから……と条件を切り出された真唯子は、秋郎の熱烈な接吻ひとつで承諾してくれた。首尾よくやり遂げた彼女には感謝してもしきれない。



「女学校を卒業させてあげられませんでしたね」

 大切な命を宿した女の体を、秋郎はやさしく腕の中に包みこんだ。

「結婚のために途中で退学なさる方は少なくありませんもの」

 真唯子は夫のたくましい胸に頬を寄せ、うっとりと目を閉じた。

「わたくしは貴方のお役に立てて幸せです」


 この秘めごとによって不幸になる者など誰もいない――秋郎は父親によく似た薄い唇に笑みを浮かべる。


「男でも女でも良い。体をいたわって、元気な子を産んでください」

 (うなず)いた真唯子は、夫の優しさに目を潤ませた。やはり秋郎(このひと)が良い、秋郎(このひと)でなければと胸が熱くなる。咲良が倒れなければ結ばれぬ縁であったことを考えると、お腹の子が(たま)らなく愛しく、また不憫(ふびん)に思えて仕方なかった。

「この子は何としても幸せにしないといけませんね」

「ええ、勿論(もちろん)です」


 彼岸桜の花びらが音もなく、どこか悲しげに(はかな)く散る。
 二人を包むようにくるくる舞った花吹雪は、やがて風に乗って遠くへ飛ばされ見えなくなっていった。





〜完〜
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