第1話

文字数 593文字

 生糸商として名を知られた月岡(つきおか)二郎(じろう)の息子が病床に伏したのは、大正二年の秋口のことである。

 正妻との間に生まれた二十三歳の一粒種は優秀で、後継者として大切に育てられたのではあるが、生来あまり丈夫な方ではなく、一年間の仏蘭西(ふらんす)留学を終えて帰国した時分から、妙な空咳を繰り返していたという。

 結核との診断が下りた当初は、帝都でも指折りの大病院で治療を受けさせていたのだが、三ヶ月ほど入院したのち、鎌倉のサナトリウムにて転地療養することとなった。

 それと時を同じくして、月岡二郎は庶子を正式に戸籍に迎え入れた。

 生みの母から奪うように引き取っておきながら、これまで息子とせず、使用人同然の扱いをしてきた庶子であった。

 月岡二郎は上州(じょうしゅう)の豪農の生まれながら東京に出て貿易会社を立ち上げ、辣腕(らつわん)をふるって財を成した男である。

 嫡子である咲良(さくら)が不治の病とわかった途端、庶子の秋郎(あきろう)を表舞台に引っぱり出し、さっさと後継者の首をすげ替えたその判断は、さすが非情な成金よと世間で(ささや)かれた。

 二郎は妻に激しく(なじ)られたが、まったく意に介さなかった。自らの築いた富と家を守ることこそ重要で、その為には妻や息子らの心持ちなど斟酌(しんしゃく)する必要はないと言わんばかりの仕打ちであった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み