第2話

文字数 3,085文字

「何をしにいらしたんです?」

 月岡咲良の声は冷たいものだった。
 安楽椅子に深く身を沈めて窓に顔を向けたまま、ふり返りもしない。

 病室の入口で果物籠を抱えて立っているのは、澤井子爵(さわいししゃく)家の令嬢・真唯子(まいこ)である。

「お見舞いに来てはいけませんでしたか?」

 甘やかでしっとりと落ち着きある真唯子の声は、まだ十七歳の女学生とは思えぬほど大人びていた。

「いけませんね」

 咲良はその言葉が終わるやいなや、手ぬぐいを口もとに当てて軽く咳きこんだ。
 サナトリウムの特別室は暖房がよくきいており、スチームで窓はすっかり曇っている。真唯子の方をふり向かないのは、窓の外の景色を見ているからではなさそうだ。

「咲良さん……」

「お帰りください。うつったらどうするんです?」

 真唯子からは横顔しか見えぬのだが、咲良の肌色は透きとおるように白く、黒髪にふちどられた頬は熱でもあるのか(かす)かに朱を()いたようで、紅い唇がまたなんとも艶めかしい。

 帝大生の頃から美男と名高かったこの病室の主は、数日前まで真唯子の許婚者(いいなずけ)であった。




 月岡家から咲良との縁談を持ちかけられたとき、澤井子爵は「成金の分際で図々しい」などと陰で散々なことを言いながら、金銭援助を条件に三女の真唯子を差し出した。

 年頃になればどこぞの金持ちに売り飛ばされるものと覚悟していた彼女は、相手が月岡咲良と聞き、年寄りや脂ぎった豚のような男でなくて良かったと安堵(あんど)したものだ。

 侯爵の分家筋という血統の良さだけが自慢の澤井子爵は、これといって財産があるわけでもないのに定職に就かず、体裁(ていさい)を保つための借金を重ねることしか出来ない無能な男である。真唯子の姉らもとっくに、華族の血という(はく)を欲しがる金満家にそれぞれ嫁がされていた。

――売ればお金になるから女子ばかりもうけたのかしら?

 成せることなど何ひとつないくせに気位ばかり高い両親を、真唯子は少なからず軽蔑していた。人の価値が身分や財産で測れるとは、全く思えないからである。




「お蜜柑(みかん)、召し上がりませんか?」

 真唯子は応接セットのテーブルに果物籠を乗せながら問いかけたが、返事はなかった。このようにはっきりした拒絶は予想していなかったので戸惑ってしまう。

 しかし、真唯子には今日この日、どうしてもしなければならぬことがあった。

 咲良の白い横顔を見つめ、思い切って口を開く。 

「お慕い申し上げております」

 このことの為に、渋る両親を説き伏せて鎌倉行きの許しを得たのである。羞恥心で失神しそうになりながら、彼女は言葉を続けた。

「家同士の決めたことではありましたが、わたくしは心から咲良さんを……」

「おやめなさい」

 ガタッと大きな音を立てて咲良が立ち上がった。

 分厚いガウンを羽織った下は寝間着や病衣ではなく、仕立ての良いシャツとスラックス姿だった。もともと線の細い体ではあったが、東京の病院にいた時より痩せたようである。

 咲良は真唯子に冷ややかな眼差しを向け、皮肉な笑いを口もとに浮かべた。

貴女(あなた)が恋い慕っていたのは、秋郎だったでしょう? 僕が何も知らないとでも?」

「そんな! とんでもない誤解ですわ!」

「嘘はもう結構。貴女という人は、どこまで(ごう)が深いのでしょうね」

 吐き捨てるように言う。

「どういう意味ですの?」

 咲良は物腰の柔らかい紳士で、こんな失礼な物言いをする方ではないはずなのに……真唯子は悲しくなってくる。

「そのような戯言(たわごと)を聞かせて、一体どうしろとおっしゃるのです? 貴女は悪くない、とでも言って欲しいのですか? 僕との別れは悲恋だったと、あくまで

秋郎に嫁ぐのだと、周囲にもご自身にも言い訳したいだけではありませんか」

 容赦(ようしゃ)のない言葉が矢継(やつ)(ばや)にかけられた。

「悲劇のヒロイン気取りに酔うのは勝手ですが、死にゆく僕を巻き込むのはやめていただきたい」

 真唯子の目から一筋の涙が(こぼ)れ出た。

「わたくしのことはどれほど悪しざまに(ののし)られてもかまいません。ですが、死にゆくなど……不吉なことは、どうかおっしゃらないで」

 咲良は唇を噛み、真唯子から顔を(そむ)けた。

「わたくしは咲良さんの妻になることを、今も(あきら)められないのです。父から秋郎さんに嫁ぐよう言われましたが、お断りしたいと思っております」

「……断れるわけないでしょう」

 ひどく低い声であった。

「安い同情などいりません。僕の望みは、貴女と秋郎が結婚して月岡の家を守っていってくれること。それだけです」

 再び窓のほうを向いてしまった咲良は、それきり黙ってしまった。

「それでも、わたくしは咲良さんと……」

 真唯子は感情が高ぶったせいか、言葉が喉が(つかえ)たようになって、ただ静かに涙を流し続けることしか出来なかった。



 月岡二郎は咲良に廃嫡(はいちゃく)同然の仕打ちをしただけでなく、許婚者まで異母兄に譲らせた。

 いくら何でも(むご)いと、妻が食を()ってまで撤回を訴えたが、二郎は揺るがなかった。
 実のところ、彼は愛息の余生が不自由ないよう厚く手配しているつもりなのである。死病に(かか)ってしまったからには後継者の椅子も血筋の良い嫁も負担であろう、というのが彼なりの親心であった。
 しかし二郎は自らの考え方を家族に話すような人物ではなく、その親心は妻子に全く伝わっていない。
 秋郎は二十八歳という年齢であったので、真唯子との婚約が調えばすぐにでも(めと)らせるつもりで話を進めていた。澤井子爵も同意の上である。

 そこに当の本人である秋郎や真唯子の意志が入る余地はない。破談にしたいと言っても通るはずがないことは、真唯子もよくわかっていた。




「真唯子さん」

 どれほど時間が経ってからか、真唯子は咲良の声で我に返った。

 顔を上げると、彼はベッドに腰かけてこちらを見ていた。

「そんなに僕を慕っているというのなら、証拠を見せてくださいますか?」

 紅い唇が誘うように少しひらいた様は、咲き初めた花のようでひどく美しく、その誘惑に逆らえるものなどおらぬのではないかと思えた。

 真唯子は未だ、その花に触れたことがない。

「咲良さん……」

 吸い寄せられるようにベッドの咲良に近づいていく。
 
 婚約してすぐ仏蘭西へ渡ってしまった咲良とは、手紙のやり取りだけが交際の全てで、彼のことは礼儀正しく丁寧に(つづ)られた文字でしか知らない。気持ちの通じ合う仲とは言えなかったが、一度だけでも構わないから、生身の人としての咲良に触れるのだと真唯子は覚悟を決めて、今日ここに来たのである。

 彼女の手を取り、咲良は上目使いの濡れた瞳を向けた。

「暖房がいささか強いようですね。暑くはありませんか?」

 握られた手から伝わる燃えるような熱さが、真唯子の肌を赤く染めていく。

「ええ、少し暑いようですわ」

 彼女は自らの意志でブラウスのボタンをはずした。

 全身くまなく熱を帯びた咲良と肌を重ね、芯まで焼き尽くされそうな熱さにあえぎながら、真唯子は深い安堵(あんど)に包まれ、愛する人との永遠を夢みていた。

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