第1話

文字数 2,869文字

 九鬼(くき)が訪ねてきたのは八月なかば、ちょうど盂蘭盆会(うらぼんえ)のころだった。
 夏の盛りで、午前中から気温がどんどん上昇し、それから日が暮れるまでのあいだ、息をするのもやっとというような猛暑がつづいていた。とてもじゃないが外出する気にもならない。
 わたしは日がな一日、部屋で惰眠を貪るか、汗を流しながらも現実逃避のために読書に(ふけ)って日々をやり過ごしていた。
 わたしが住まう古い家は山のなかほどに位置している。周囲には鬱蒼(うっそう)とした森が広がる。木々に遮られて日があたらないぶん、場所によってははっとするほどひんやりと涼しく感じられる部分もある。そういう場所を求めて、わたしは本を片手に猫のようにうろうろと歩きまわってはばったりと倒れ込むのだった。
 その日も、畳に寝そべって本を読むうち、うつらうつらとまどろんでいたらしい。開け放した窓から気持ちのよい風が吹き抜け、わたしの頬を撫でる。
 ふと、ひとの気配を感じた。
 夢とうつつの狭間(はざま)をゆらゆらとたゆたっている状態なので意識が判然としない。だが、だれかが近くにいる。そう感じた。
佐倉(さくら)
 名を呼ばれる。知っている声だ。わたしはゆっくりと(まぶた)を開く。意識がまだ戻ってこない。瞬きを繰り返すうちに焦点がはっきりしてくる。
 庭に目を向ける。開いたままの硝子戸(ガラスど)の向こうにだれかが立っていた。白いシャツに黒のズボン。男だ。
九鬼(くき)?」
 ぼんやりとつぶやく。姿勢のよい立ち姿。そのシルエットだけで彼だとわかる。
 鬱蒼とした木々を背に佇む九鬼は微かに笑った。
「ひさしぶりだな」
 低く、よく通る声は間違いなく九鬼のものだ。
 わたしは飛び起きた。信じられない思いで、かつての同級生を見つめる。彼はたしかにそこに存在していた。
「どうして」
 ようやく出てきたのは、そんなつまらない言葉だった。もっと気の利いたことがいえないのかと自分が情けなくなる。
 だが九鬼も、このわたしにそんな芸当は期待していないだろう。そう思い直す。そんなわたしのようすに頓着(とんちゃく)せず、あっさりと彼は答えた。
「盂蘭盆だからな。帰ってきたんだ」
 そして淡々とつづける。
「まるで幽霊にでも会ったような顔だな」
 目眩(めまい)がするような軽口を叩く。まるでもなにも。呆然としたまま二の句が継げないわたしに九鬼は苦笑いを浮かべた。
「そんなに驚かせるつもりはなかった。すまない」
 わたしはゆるゆるとかぶりを振る。
「いや。でも、ほんとうに?」
「ああ、会いにきた」
 感動的な再会の台詞(せりふ)をいったかと思うと、九鬼はいきなり吹き出した。もう我慢できないとでもいうように肩を揺らして笑いつづける。わたしは呆気にとられてこの旧友をまじまじと眺める。
 なんなのだ、いったい。
「な、なにがおかしい」
「佐倉、顔に畳のあとが付いているぞ」
「な」
 わたしはあわてて両手で顔を抑える。顔から火が出るとはまさにこのこと。
「笑いすぎだ。失礼な」
「いや、すまんすまん。相変わらずだな」
 さんざん笑ったあとで謝られても素直にうなずけはしない。ふて腐れたわたしに九鬼は謝罪を重ねる。
「悪かった。機嫌を直してくれ。せっかく戻ってきたのに、気まずいまま別れたくない」
 はっとする。そういわれては仏頂面(ぶっちょうづら)をつづけるわけにはいかない。
「もういい。怒ってはいない」
 わたしがそういうと、九鬼はけろりとした表情に不敵な笑みを見せた。
 この男。
 変わっていない。
「わざわざきてくれたんだ。あいにくなにもないが、あがってくれ」
 九鬼を外に立たせっぱなしだったことに気付いて彼を座敷へとうながす。しかし、九鬼は静かに首を振った。
「いや、気持ちはありがたいが遠慮しておこう」
「どうして」
 聞き返すわたしを、どうしたものかという表情で見つめて彼はいう。
「あまり異形(いぎょう)のものを招き入れないほうがいい」
 異形のもの。
 それが九鬼自身を指しているのだと理解するまでに時間が必要だった。頭を殴られたような衝撃を受ける。それはすぐに怒りに取って代わる。
「だれが異形だ。九鬼は九鬼だろう」
 乱暴にいい返すわたしに、九鬼は呆れたように肩を(すく)めてみせる。
「佐倉は変わらんな」
「九鬼こそ、ちっとも変わっていやしない。容易にわたしを翻弄(ほんろう)する」
「人聞きの悪いことを」
「事実だろう。だれも聞いてやしないよ。九鬼とわたし以外には」
 視線を交わしてふっと笑う。ああ、ほんとうに九鬼は帰ってきたんだ。そう思うと、胸が苦しくなった。
 結局、九鬼は家にはあがらず縁側に腰をおろした。あまり長居はできないのだという。せめてお茶でもいれてこようとすると、また呆れたように笑ってわたしを制する。
「その気遣いは無用だ。いいからここへ座れ。話をしよう」
 九鬼は背筋を伸ばして姿勢よく座っている。白い開襟(かいきん)シャツに黒のズボンという格好は、高校時代の制服のままだ。
「お父上は亡くなられたそうだな。残念なことだ。ひとりで大変だったろう」
「ああ、いや。九鬼のご両親がよくしてくださった。感謝している」
「そうか」
「九鬼、実家にはもう帰ってきたんだろう?」
 そう尋ねると、意外にも彼は首を横に振った。
「いや」
「え、どうして。うちにきている場合ではないだろう」
「いいんだ。佐倉に会いにきたのだから」
 なにもかも見透かしたような瞳がわたしを捉える。
 九鬼は腑抜けたわたしを叱咤するために、わざわざ戻ってきたのだろうか。そんな考えがちらりと脳裏を掠める。
 沈黙がおりた。
 わたしは額にむ汗を手の甲で拭う。じっとりと肌にまとわりつくような暑さだ。だが、隣に座る九鬼は汗ひとつ流さず、涼しい横顔を見せている。
 彼は庭の片隅に視線を向けた。そちらには木槿(むくげ)の低木が植えられており、今は淡い紫色の花が盛りを迎えている。わたしはこの花の風情がなんとも好きだ。強く主張するでもなく、けれども凛とした存在感がある。
 そういえば、いつのまに咲きはじめていたのだろう。意識していなかった。
 花を愛でる余裕もなかったということか。
 紫の花に、九鬼の端整な横顔が重なる。
 あの夏から。おそらく、一昨年のあの日から、わたしの時間は止まったままなのだ。
「ここは落ち着くな」
 ぽつりと九鬼がつぶやく。
「九鬼」
 なにかにせき立てられるような気分に襲われ、思わず名を呼ぶ。九鬼が振り向く。言葉が出てこない。もどかしい。
 彼が立ちあがる。
「そろそろ行くよ」
「えっ、もう」
 驚いて、わたしも地面におり立つ。深い夜の色をした瞳がわたしを見つめる。
「またくる」
「ほんとうに?」
「ああ」
 そう返事をすると、九鬼は音もなく姿を消した。
 とり残されたわたしは、呆然とその場に立ち尽くした。
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