第2話

文字数 3,433文字

 わたしと九鬼はいわゆる幼馴染みという間柄である。いつから親しくなったのかはもう覚えていない。ものごころついたころにはすでに、そばにいるのがあたりまえの存在になっていた。
 わたしたちが生まれ育ったのは山に囲まれた田舎町で、よくいえばのどかな、悪くいえば閉塞的な土地だ。都会へ出ていく者は少なくないが、外部からやってくるもの好きはまずいない。
 わたしの母親は、そのもの好きな人間のひとりだったらしい。らしい、というのは、わたしは自分の母親を知らないからだ。母は、幼いわたしと父を残して出奔したという。父は母のことをあまり語りたがらなかったので、詳しい事情はわからないが、周囲からの情報によると、母もやはりこの町に馴染めなかったのだろう。
 母親はこの土地の人間ではない。あからさまに冷たくあしらわれることはないが、こういう閉鎖的な町では、よそ者は歓迎されない。居心地のいい場所ではなかっただろう。
 そういう事情を、わたしは幼いころに、さして親しくもないこどもから教えられた。教えられた、というのは控えめな表現だ。突き付けられた、というのが実際に近い。そのこどもは、おとなたちが噂しているのを耳にして、わたしをよそ者だと、自分より劣った相手だと判断したのだろう。こどもというのはそういう空気に敏感だ。悪意はたやすく伝染する。不穏な空気はかなり長くつづいたが、わたしはそれ以上いじめられることはなかった。
 九鬼がわたしを庇ったからだ。
 小さなころから妙に偏屈で人見知りをしたわたしとは異なり、九鬼はあれでなかなかひとあたりがよく、教師や生徒からの人望も(あつ)い。学問を()くし、武道にも()ける。成長するにしたがい、九鬼は周囲から一目置かれる存在になった。その彼がわたしを擁護(ようご)する以上、だれもわたしにあからさまな悪意を持って近付いてくることはなかった。
 その九鬼が死んだのは高校二年の夏のことだ。
 武道の遠征試合に臨んだ折り、街なかで揉めごとの仲裁に入り、逆上した暴漢に刃物で刺された。あとで聞いたところによると、暴漢たちは複数でよってたかってひとりをいたぶっていたらしい。九鬼はそういう卑怯な真似がきらいだった。だから、黙って見過ごすことができなかったのだろう。
 そして九鬼は彼岸(ひがん)のひととなった。
 その訃報(ふほう)を受けたときから、わたしはなんだか自分が生きているような心持ちがしない。まるで、ふわふわと宙を漂っているかのように、足許が覚束(おぼつか)ない。
 さらには、同じ年の冬、わたしの父親も彼岸へ渡った。飲酒運転をしていた車にはねられ即死だった。通夜の席で、親戚のだれかが「苦しまずに死ねたのは、せめてもの救いだ」とささやいたが、そんなことはなんの慰めにもならない。
 父はもう戻ってこないのだ。
 九鬼も。
 わたしは自分のゆくすえに興味を持てない。
 身の振りかたを考えないまま高校を卒業し、父が遺してくれたわずかな蓄えを食いつぶしながら、なにをするでもなく、ただ日々をやり過ごしている。今の堕落しきった暮らしぶりを知ったら、父はさぞかし悲しむことだろう。
 母のない子。
 そのことで、父はわたしに負い目を感じていたようだ。女親がいないことで至らぬところがないよう、ずいぶん手をかけて育ててくれた。「人並みに」というのが父の口癖だった。人並みに成長し、将来、人並みに幸せな家庭を築いてほしい。そうすることが、わたしにとって最良の道だと思っていたのは間違いない。
 でも、わたしは自分が人並みに生きていける気がしない。
 身近に女性がいなかったためか、それとももともとの性癖なのか、わたしは女性というものがなんだかおそろしく思えてしかたない。学生時代から、同級生の女子たちはまるで異星人のように思われた。得体の知れない生きもの。そう感じてしまうわたしは、きっと人並みとはいえない。なにかが欠落しているのだ。
 そんな不甲斐ないわたしを気にかけて、九鬼のご両親は今でもこの山のなかまで訪ねてくださる。このときばかりは、さすがにわたしも自分の至らなさにほとほと嫌気がさす。九鬼の父上は高校時代の恩師である。わたしの進路については、ずいぶん心を砕かれたようで、申し訳なさでわたしは頭をあげられない。

 昨年、九鬼とわたしの父の一周忌を終えたあと、九鬼のご両親からある申し出をいただいた。九鬼の家の養子にならないか、という話だった。九鬼はひとり息子だったし、わたしは父以外に身近な肉親がいないので、ひとつの家族として新たな生活をはじめることに、なにも差し障りはない。わたしには過分な申し出といえる。
 けれど、わたしはなにも答えることができず、言葉を濁した。返事は急がないから、ゆっくりと考えてみてほしい。その言葉に甘えて、いまだにその件については返事をできずにいる。

 その夜、わたしはなかなか寝付けずに、布団に横たわりぼんやりとしていた。風のない夜。扇風機がゆっくりと部屋の熱気を撹拌(かくはん)する。規則的な機械音。目を閉じていると、すうっと眠りに引き込まれる瞬間が訪れる。浅く、深く。その波に身をゆだねているうちに、わたしはうつらうつらとしはじめた。
 いつのまにか、目のまえに九鬼の姿があった。白いシャツの背中。少し距離を置いて、わたしはそのあとをついていく。あたりはとても暗い。
 ふいに気付く。
 ここは、わたしの家の裏に広がる森ではないか。景色は見えなくとも、こどものころから親しんできた場所だ。空気でそれとわかる。月明かりを通さない鬱蒼とした木々の下。その暗闇のなかを、迷いのない足取りで九鬼は進んでいく。
 これは夢なのだ。そう納得した。なぜなら、九鬼の姿が闇のなかにぼんやりと浮かびあがっていたからだ。夜の闇に閉じ込められた森のなかで、九鬼の白いシャツがぼんぼりのように淡く光を放つ。彼の姿を見失ってはいけない。ついていかなければ、わたしは暗闇にひとりとり残される。その一心で、わたしは懸命に九鬼のあとを追う。
 わたしの不安を感じとったかのように、九鬼は足を止めて振り返る。追いついたわたしに片手を差し延べる。戸惑いながらも、わたしはその手を掴む。冷たい手だ。ふたたび九鬼は歩きはじめる。彼に手を引かれて、わたしもあとにつづく。なにやら気恥ずかしい。まだ小さかったころは、よくこうして九鬼に手を引かれて歩いたものだ。
 ああ、ずいぶん遠いところまできてしまった。
 そんな感慨にとらわれる。
 顔も知らない母親が去り、九鬼も父も、わたしのもとを去っていく。
 わたしはもう、生きているのかどうかも定かではない、腑抜けた魂となって此岸(しがん)を漂っているだけだ。
「佐倉」
 振り返らずに九鬼がわたしを呼ぶ。
「佐倉は変わらないな。少しもおれを疑わない」
「え?」
「不思議だとは思わないか。おれがどこへ向かっているのか」
 一定の歩幅を保って進みながら彼がいう。
「いや、不思議もなにも。これは夢だろう?」
 思いがけないことをいわれて、わたしはしどろもどろに答える。九鬼が笑う気配がした。
「まあ、そうだな。夢だといえばそうだし、あるいは違うともいえる」
 わけがわからない。淡々とした口調で彼はつづける。
「佐倉に会うために、おれはこの道を通ってきた。存外、時間がかかって遅くなったが。正直、あんなところで命を落とすとは思っていなかったから、この世にはまだ未練がある。おれは、佐倉のことが気がかりで仕方ない」
「九鬼」
 わたしは彼の手を引っ張る。九鬼は歩くのをやめてわたしに向き直る。いつもの穏やかさのない、はじめて見る冷ややかな表情をして、彼はささやく。
「今、この手を離せば、佐倉はまだ戻れる。意味がわかるか」
 ゆるゆるとかぶりを振る。わたしはぼうっとしたまま、彼の手を強く握りしめた。
 深い湖の底のような目をして、九鬼は苦笑らしき表情を浮かべる。
「佐倉はぼんやりしているからな。生身で此岸(しがん)彼岸(ひがん)狭間(はざま)をさまよっているようでは、危なっかしくて放っておけん」
 淡い光を放っていた九鬼の身体が闇に紛れていく。闇が、濃くなる。
「また会いに行くよ。そのときには……」
 九鬼の声が遠ざかっていく。
 最後に、彼はゆっくりとわたしの手を離した。
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