第3話

文字数 967文字

(かえで)ちゃん!」
 激しく身体(からだ)を揺さぶられてわたしは目を開く。眩しい。だれかが顔を叩いている。その痛みで、だんだん意識がはっきりしてくる。
「楓ちゃん、聞こえる? 目を覚まして、お願い」
 聞き覚えのある声。わたしを覗き込んでいる気配。
 九鬼の母上だ。
 わたしは自室の布団に横たわっていた。天井の照明が(とも)されて、煌々(こうこう)とあたりを照らしている。窓の外はまだ暗い。庭に面した硝子戸が開け放たれ、わたしの(かたわ)らには九鬼の母上が座っている。少し離れた場所に、九鬼の父上の姿もあった。
 驚いて起きあがったわたしを母上が抱きしめる。ひどく感情が(たかぶ)っているようすだ。
「よかった。まにあって」

 深夜、彼らのもとに九鬼が訪ねてきたという。
 ひさしぶりの再会を果たした息子は、逆縁の親不孝を詫びると、どこか思い詰めたようにいったそうだ。
 佐倉をつれていこうと思う、と。
 それだけいい残して九鬼は消えた。まさか、と不安に駆られた彼らは、すぐにこの家に向かった。すると、無用心にも窓は開いたままで、わたしが眠っていた。呼んでも反応がない。座敷にあがってようすを窺うと、わたしは息をしていなかったという。
「あの子はなんということを」
 わたしを抱きしめたまま、母上が泣いている。
 違う。九鬼は悪くない。
 そう説明したかったが、抱きしめられている感触に身体が強張って声が出ない。
 わたしが男ならよかった。
 異性ならば、たとえ母親に抱きしめられたことがなくても、女性に憧れや幻想を抱いて生きていける気がする。
 でも、わたしは女だ。
 わたしは自分自身が得体の知れない存在に思えておそろしい。成長するにともなって訪れる、身体や心の変化にひたすら怯えてきた。わたしはたぶん、どこかおかしいのだ。それなのに、このやさしいひとたちのもとで暮らしていけるはずがない。そんなことは許されない。

 掴まれた冷たい感触は手に残っている。九鬼はわたしを迎えにきたのだ。それをこわいとは思わない。
「また会いに行くよ。そのときは……」
 彼の言葉が蘇る。
 そのときには、九鬼、わたしはその手を拒むのだろうか。それとも……。
 夏の夜の底で、わたしは此岸と彼岸の狭間をさまようばかりだった。



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