良くない兆候

文字数 2,190文字

 「レイは本当にグレーが好きだね」
灰色のランドセルを背負って喜ぶ姉と、そんな姉の姿を見て喜ぶ父。二人の様子を、ナオはソファに座りながら眺めていた。「しかもよく似合う」と付け加えた父の表情は、いつになく穏やかで温かいものだった。良い兆候だ、と言うべき感覚をナオは幼いながらに抱いていた。いつも怒ってばかりの姉。一秒前まで機嫌が良かったと思えば突然カッとなる。兄や母はナオのせいだと口を揃えて言うが、ナオ自身には全くもって心当たりが無い。とにかく、話しかける度にその怒りを買って、時には突き飛ばされたり蹴られたりする毎日を過ごしていた。それが長女レイと末っ子ナオの関係だった。しかし今、目の前には幸せなそうな笑顔を浮かべる姉の姿。それは真新しく、貴重で、ナオが望んでいた姉の姿だった。きっとこのランドセルを背負っている間は、つまりレイが小学生であるうちは、陽気で優しい状態がずっと続いていくんだろう等と考えていた。
 すると突然、レイが金魚の水槽に張り付いた。ガラスに両手と額をくっつけたまま動かない。レイの後頭部と背中のランドセルが邪魔をして、その視線の先に何があるのかは見て取れない。ただ、嫌な予感がした。ナオはランドセル付きの背中に向けて声を掛ける。
「どうしたの?」
細々とした声だった。若干震えていたと思う。怯えるナオとは裏腹に、レイは満面の笑みで振り返った。
「見てよ!綺麗な灰色!ランドセルみたい!」
稀に見る完璧な笑顔だった。自分に向けられたのは、もしかしたらこの時が初めてかもしれない。しかしこれは、“良い兆候”ではなかった。
 すぐさま父のため息が聞こえてきた。予感していた通りだ。思わず両足をソファの上に上げ、膝を抱え込んで小さく丸まった。父の姿も姉の姿も視界に入れようとはしなかった。しかし隣のシュウは顔色一つ変えず、ただだらりとソファに身を持たれたままの姿勢でそこにいた。
「おいで、玲奈」
その言葉でレイ自身も自分が何を仕出かしたか気付いたようだった。どさりとランドセルが床に落ちる鈍い音。それから二人分の足音がリビング横の階段を登り、扉の閉まる音が最後に降ってきた。
 さっきまで幸せな空間が広がっていたリビングには、灰色のランドセルが虚しく転がっていた。ナオはランドセルからシュウへと視線を移した。シュウはチラリとナオを見てから、
「また始まっちゃったな」
と眠そうに言った。ナオは何も言えなかった。二階の書斎へ続く階段を見つめ、それから満を持して金魚の水槽に視線を移した。そこにはやはり立派な金魚がいて、大きな灰色の尾鰭を靡かせていた。確かに、レイのランドセルとそっくりの色だ。
 いつも不思議でならなかった。どうして姉は口に出してしまうのか、黙っていれば父に怒られることもないのに、と。そしてもし、レイの見ている世界が実はナオにも見えていると知れたら、父は何と言うだろう。図らずとも、レイの主張を後押しすることになってしまう。「姉ちゃんの言っていることは嘘じゃない」と示してしまうことになる。それが怖かった。他の人には見えていない色を見てしまうということは、父に怒られること、つまりやってはいけないこと、ダメなことだ。自分まで姉と共犯になってはいけない。そんな思いが幼い頃からナオを支配していた。
 四歳児の葛藤など気にも留めず、優雅に泳ぐ灰色の金魚とテレビを点け出したシュウ。少しためらいながらも、ナオはシュウに投げかけた。
「兄ちゃん?あの金魚、何色?」
シュウならこのような質問をしたところで、さして深読みすることもなく受け流してくれそうだ。聞かれると眠そうだった目を少しだけ丸くして、きょとん顔でナオを見た。それから金魚に目をやり、首を傾げながら目を凝らした。
「赤と、オレンジの間…」
「…やっぱり」
ナオはなんとかそう言うと、抱え込んでいた両膝に顔を突っ伏して目を閉じた。
 心の中で「元に戻れ」と何度も繰り返した。同時に“赤とオレンジの間”の色を思い描く。やがて頭の中が、よく知る金魚本来の色で埋め尽くされる。今度は「この色に戻れ」と繰り返す。首の後ろからすっと何かが抜けたような感覚と同時に、頭の中の金魚色もふっと消える。そして次の瞬間には、ただの暗い瞼の裏だけが何事もなかったかのように広がる。
 そっと目を開いて顔を上げた。リビングの水槽には、鮮やかな朱色の金魚が美しく泳いでいた。ナオは小さく長く息を吐くと、両足をソファの下に伸ばし、上体をソファの背もたれに預けた。
 シュウはリモコンをテレビに向けている。日曜日の午後。見たい番組が定まらないのか、次々と画面が切り替わっていく。ワイドショーで専門家が真剣に解説する声や、バラエティ番組のスタジオから溢れる笑い声、CMの陽気な音楽。どれもこれもほとんど無音として、ナオの耳から耳へと通り抜けていった。嫌でも入ってきて頭に留まる音といえば、二階から微かに響く父と姉の会話。
 一段と良くない兆候がナオを襲った。それは書斎の中で、レイの目が父の目を捉えた瞬間のことだった。父の白目が真っ青に変色した、あの一瞬の出来事だ。
 突然勢いよく扉が押し開けられた。全身にびりっと電気が走ったような感覚。咄嗟に再び両膝を抱える。シュウでさえもすぐに顔の向きを変え、階段に目をやった。レイの体が二階から転げ落ちてきたのはそのすぐ後だった。
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