逃げられない

文字数 1,117文字

 車が止まった。木彫りから目を離し顔を上げると、古い信号機が見えた。右端が黄色に点灯している。しばらく経つと左端が茶色に点灯し、シュウは車を再び走らせた。木彫りのストラップはあえて見ずにバッグへ仕舞い込んだ。今ここでもう一度視線を戻したら、きっと色を変えている。大人しく青色のまま見えてくれたりはしない。
 少しでも故郷に期待した自分が愚かだった。そんな思いがレイの中では強まっていた。空港から外に出た時、十年ぶりに現実世界へ帰ってきたような、十年ぶりに悪夢から覚めて目が開いたような、そんな感覚があった。しかしどうやらあれは一時の勘違いだったらしい。忌々しい変色の現象は、やはり一緒になって引っ越して来ていたみたいだ。
  会話は止まったっきり沈黙が続いていた。車内にはインディーズバンドのアップテンポな曲だけが小さく響いている。レイはおろか、おしゃべりなナオもマイペースなシュウも、重たい口を動かそうとはしなかった。心なしか、すれ違う車が派手なカラーリングばかりになっていった。本物か偽物かの区別はつかないから考えても仕方のないことだが。
 急にシュウが助手席側の窓を開けた。
「ナオ、酔った?」
シュウがそう言ったことで気付いたが、ナオは助手席で力強く目を瞑っていた。
「そんな感じ」
ナオはそう返し、恐る恐る片目ずつ目を開いた。レイはバッグからポーチを引っ張り出し、さらにそこから酔い止めの薬を取り出して、ナオの膝の上に放り投げた。奇抜な色合いで気持ち悪くなった時の気休め程度の備えだった。
「ありがとう」ナオが薬を手に取ると同時に、前方を指差した。「あれ、何?」
ただでさえ丸い目をより一層真ん丸く見開いていた。レイもシュウも、弟が指さす方に目をやった。
 遥か遠くの道路沿いに得体の知れない化け物がいた。米粒ほどの大きさにしか見えないが、それでも真紫と真紅と黄緑の奇抜な体が、灰色の森の中で際立っていた。
「鹿だべ」
シュウはすぐに化け物の正体を突き止めた。距離が縮まるにつれて、その全貌が明らかになる。確かに鹿だ。真紫の体に、真紅の角に、黄緑の尻。さらにオレンジの鼻とピンクの眼球も見て取れた。悪魔のようなエゾシカだった。三兄弟の目の前でこれ見よがしに道路を横切り、反対側の森の中へ姿を消した。
 ナオが酔い止めを飲み込む。鹿に道を譲り終えた車は、ナオが薬を流し込むのを待たずに再び走り出した。案の定その拍子にペットボトルの水がこぼれ、車を発進させたことに喚くナオと、車のシートが濡れなかったか確認するシュウとで、何やら盛り上がり始めた。レイはそれを聞き流しながら、膝に抱えたバッグに右手を突っ込み、動物の木彫りをコロコロと掌の中で転がしていた。
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