金魚掬い

文字数 2,074文字

 いつの間にか兄と弟は子供時代の話に花を咲かせていた。レイがこどもマラソンで銅メダルを獲得したが悔しがってすぐに捨ててしまった話や、シュウがキャンプで行方不明になったと思ったらずっとテントで寝ていただけだった話、そしてナオが夏祭りの花火の音に怯えてずっと泣いていた話に切り替わった時、レイの口は勝手に動き出した。
「そういえば金魚掬いは毎年絶対やってたよね」
二人は「そうだった、そうだった」「あーやってたなぁ」と懐かしんだ。レイの心拍数が上がる。一つの終着点に向けてレイは会話の舵を切った。目指すは「あの変色はまだ続いている」だ。夏祭り、金魚掬い、実家の金魚、灰色になった金魚。自然な流れで終着点にたどり着けるよう、頭の中で線路を引きながら口を動かす。
「一匹、捕まえたよね」
ナオは覚えていないようで、首を傾げた。シュウは覚えていた上でそれを否定した。
「一回も取れたことなんてなかったべや」
慎重に引いた線路はあっさりと途切れた。人知れず辿り着きたい目的地を、二人が早くも見抜いてしまったような感覚さえ味わった。嘘をついたつもりはなかったが、そう言われてしまうと自信がなくなってしまうほどうろ覚えな記憶でもあった。記憶をたぐり寄せるのと同時に、レイは線路を引き直して軌道修正していく。
「でも、袋に入れて持って帰ったでしょ?」
家へ向かう車の中で、金魚を落とさないように抱えている映像は脳裏に残っていた。弟が金魚の袋を持ちたがった時も彼女は頑なに拒み、車の中で喧嘩になった。それでもしつこく迫ってくる弟に対し、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせた挙句、そのくるぶし辺りを人蹴りして泣かせたところまで覚えている。その記憶は間違いなかった。
「気のせいじゃね?」
今度はシュウも首を傾げた。
「車の中で私が金魚の袋抱えてたでしょ。ナオがそれを持ちたがって、私に蹴られて泣いてたじゃない」
それに対し反応を示したのはナオの方だった。
「あーあれ!」ぐるりを後ろを振り向いた。「結構痛かったんだよ!?しっかり青タンもできたんだから!」
「あんたがしつこいからよ」
「それ何歳ぐらいの時?」
一人置き去りにされたシュウは、なんとかその記憶の糸を手繰り寄せようとする。
「私がちょうど六歳になったばかりの時。小学校に上がる前の年の夏だったから」
それだけは断言できた。小学校に上がる前のクリスマスにあのランドセルを貰っているから、金魚がやって来たのはさらにその四ヶ月ほど前の夏のことだ。
「よく覚えてんな」
言い過ぎてしまったかな、とレイは心臓の辺りが一瞬だけ熱くなった。金魚を掬ったかどうかに関してはこんなにもうろ覚えなのに、その時期だけを確実に覚えているのは不自然だったろうか。金魚の変色のエピソードに繋げたいという魂胆が早くも露呈してしまったか。
「シュウ兄ちゃん、どうせ車の中で寝てたんじゃない?」
「あー、かもな。だからだ」自分のことを鼻で笑うとシュウは、手繰り寄せていた記憶の糸を捨て置いた。「でも金魚を掬った記憶だけは本当にないんだよなぁ」
「立ちながら寝てたんじゃない?」
「流石にないだろ」
会話の流れを慎重に見極めるレイをよそに、二人はさらさらと笑う。金魚がいつどこで手に入ったかなど大して気に留めていないようだ。
 早くもこの話題が蒸発してしまいそうで怖かった。次の話題へ流れてしまう前に、レイはなんとか金魚の話題を繋ぎ止めなければならなかった。
「あの金魚、名前なんだったっけ」
レイは早口で投げかけた。すると、シュウがわざと声を低く響かせて答える。
「ストロンボリ」
その途端にナオは、大口を開けて仰け反りながら笑い出した。
「それはシュウ兄が勝手に呼んでただけじゃない?」
声を上擦らせ呼吸を乱しながらもナオはそう言い切った。
「だってかなり立派な金魚だったろ。体もヒレもでかくて真っ赤で」
「だからって、ストロンボリって…!絶対、悪役じゃん!」
ナオは涙を滲ませた。シュウも満更ではない様子で、ニヤリと口角を上げて控えめに笑い出した。レイだけが真剣な眼差しのまま、笑うことはなかった。
 次第に二人の笑いが収束していく。それは一つの話題が終わることを示していた。その後に続く沈黙が怖く感じたレイは、思わず咄嗟に口走る。
「あの金魚が灰色に見えた日のこと、覚えてる?」
そう言い終えるや否や、二人の笑いは不気味なほど一瞬で消え去った。
 慎重に弾いていたはずの線路は大してその意味を成さなかった。沈黙したままの二人の背中が、遥か遠くに感じる。返答こそ無いが、あの出来事をこの二人は確かに覚えている。レイはそう確信した。この沈黙がそれを物語っていた。走る車のすぐ目の前を、えんじ色のカラスが挑発するように横切った。
 レイはバッグに突っ込んだままの右手で、木彫りを力の限り握りしめた。
「覚えてるんでしょ。あれからずっと私は…」
その先の言葉は出て来なかった。
「忘れるわけないよ。姉ちゃんが階段から落ちた日のことだよね?」
ナオが静かに言った。今度はレイが沈黙で返す番だった。階段から落ちた記憶など持ち合わせていない。
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