第4話 ウエッジウッドとアッサムティー

文字数 8,279文字

その時、僕と有紀は椅子に座って天井を見上げていた。

「わっ…、高いね…。」

「うん…、18メートルあるんだって…。」

「シャンデリア…、なんか『ゴージャス~』って感じだね~。」

僕たちがお茶をするために訪れていたのは、シティーホテル『リーガコンチネンタルホテル』のエントランスに隣接したティーラウンジ。
外資系のハイクラス…、いわゆるラグジュアリーホテルとして有名な高級ホテルだった。

見上げる程高い天井には無数の巨大なシャンデリアが吊り下がっていた。
ヨーロッパ調のインテリアに囲まれた内装はシックで落ち着いた大人のムードだ。
ガラス張りの壁からは、ライトアップされた綺麗な庭園が臨める。
広々とした空間は隣のテーブルとの距離も十分にあり、他のゲストの会話も邪魔にならない。
夕刻のムードに合わせ、静かに流れるBGM。
グランドピアノが奏でるジャズナンバー『テイク · ファイブ』のメロディーが心地良い。

僕たちは真っ白なテーブルクロスの掛けられた席で、注文したミルクティーが到着するのを手持ち無沙汰に待っていた。

僕のようなしがないサラリーマンでは気軽に普段使いする事など出来ない高級ホテルのティーラウンジ…。
僕は不慣れな場所に若干の居心地の悪さを覚え内心ソワソワしていたが、それとは悟られないように場馴れしている素振りを演じていた。

「スッゴいフワッフワ…!豪華な椅子だよね~。」

彼女は深々と座ったその椅子を指先で軽くポンポンと叩いている。

「フフッ…、なんだか可笑しな感じ。
いつも映画の後は『スタバ』か『ドトール』だもんね。
智クンは…、ここ来たことあるの?」

「うん、ちょっと前にね…。」

「へぇ~凄いね…、こんなとこ来ることあるんだぁ。」

これは半分本当で半分嘘だ。

遡ること数日前…、
僕はあらかじめネットで調べてチェックしていたこのティーラウンジを1人で訪れていた。
目的は今日のための下調べ…、と言ったところだ。
たかがお茶をするためだけに「下調べ」だなんて大袈裟ではあると自分でも思う。
しかし、何せ不慣れな高級ホテルのティーラウンジだ。
オタオタしているみっともない姿を彼女の前では晒したくないし、できれば少しでも場馴れしたスマートなエスコートをしたい。
そんな気持があったのは確かだ。
しかし、その日わざわざここに訪れたのには、別の目的があった。
どうしても前以て確認しておきたい『ある事』…があったからだ。
それを確認するために、僕は注文をとりに来てくれたスタッフに恐る恐る声をかけた。
『恐る恐る』…というのは…。
元来、僕は知らない人に声をかける事にひどく緊張する質(たち)だからだ。
例えば、スーパーのレジで「袋ください」の一言が言えずに、仕方なく買った商品を両手に抱えて持ち帰ったことが度々ある…。
それぐらい他人に声をかけることが苦手なのだ。
しかし、流石は最高のホスピタリティーと言われたホテルのスタッフだった。
対応してくれたのはスラリとした細身で30代半ばのスタッフ…落ち着いた雰囲気の男性だった。
左胸のネームプレートに彼の名字であろう「中野」の文字が記されていた。
明らかに不慣れな様子であったろう僕の緊張をほぐすような笑顔と穏やかな言葉遣い。
何点かの質問をしてその説明を聞いているうちに、僕はそのスマートな接客と話術についつい心を許してしまい、その日このホテルを訪れたワケを打ち明けた。

自分がこのような場所を使い慣れておらず、
また、このホテルを訪れるのも初めてであること。
近々自分のお付き合いしている女性を連れて訪れたいこと。
彼女の前でちょっと格好つけたくて、あらかじめ下見に来たこと。
そしてその時に彼女を喜ばせるちょっとしたサプライズを内緒で企画していること等…。

その男性…中野氏は、忙しい中とても丁寧に対応してくれ、ティーラウンジの利用可能な時間やオススメのメニュー等はもちろん、紅茶の正しい飲み方や茶葉のタイプ等、デートで役立つちょっとした豆知識まで教えてくれた。
勿論僕があらかじめ確認しておきたかった「その事」も…。


やがて僕たちの注文した紅茶が到着。
なにやら恭(うやうや)しく立派なワゴンに乗せられて運ばれてきた。
ワゴンを押して来てくれたのはあの時の男性スタッフ…中野氏だった。
僕たちの案内された席はワンフロアのロビーからは離れた少し奥の方…、美しい庭園が見渡せて、やや離れた位置からピアノの生演奏の様子も伺え、そして豪華なフロアが一望できる、謂わば特等席の様な場所だ。
この席に案内してくれたのも彼だった。
先ほど僕たちがこのホテルを訪れた時、ロビーの正面を横切ってティーラウンジへと向かう僕たちに逸早く気付き、素早くラウンジの入り口まで来て出迎えてくれたのだ。
ホテルのサービスマンは記憶力がないと務まらないとは聞いていたが、なるほど大したものだ。
あんな多くの人たちが出入りしているホテルのロビーで、数日前にたった一度訪れただけの僕に咄嗟に気が付くのだから。
更に、今日の来店は前回訪れた時に予め予約をしておいたのだが、これが彼女には内密なサプライズであることを承知していた彼は、敢えて素知らぬ顔で僕たちを案内してくれたのだった。
実にスマートだ。
僕もそれぐらいスマートに機転を効かせてふるまえれば、デートでも少しはムードのある演出ができるのだろうか?

「ミルクは先にお入れしてもよろしいですか?」
中野氏はこのお茶会の主催者でホスト役であるの僕に尋ねた。

「あ、はい。お願いします。」

僅かな会話ではあるが、先日『下見』で訪れた時と同じやりとりだ。
その安心感に僕の緊張は幾分ほぐれた。
ミルクティーのミルクは先にカップに注いでおくのが本格的な英国の紅茶の作法らしい。
その昔、まだ今ほどヨーロッパで陶磁器の製造技術が完成されていなかった頃、冷えたカップに熱々の紅茶を注いでカップが割れるのを防ぐため、その様な習慣が出来たのだとか…。
無論、現代の陶磁器·ウエッジウッドにはそんな配慮は無用ではあるが、作法なんて物はそんなものだろう。
砂時計が落ちてその時を示す頃合い、彼はカップに適量のミルクを注ぎ、ティーポットを手にした。
堂に入った…、流れる様な所作。
目の前でカップに注がれて、ほのかに漂う上品な紅茶の薫り。
茶葉は僕のセレクトで『アッサムCTC』。
僕は注がれる紅茶を眺めながら、ふとその数分前の事を思い出す。
実は紅茶を注文する際、茶葉の選択に迷っている有紀に、僕はちょっとした蘊蓄を語っていた…。

      ~数分前~

「ミルクティーには、ミルクのコクに負けないように、風味豊かでコクのある茶葉…アッサムとかがいいよ。」

僕は有紀の手元のメニューを指さしてみせた。

「ふーん…、アッサムCTC…?ねえ、このCTCってなんだろ?」

メニューには『アッサムCTC』と記されてはいるが、それ以上の説明は無い。

「えっと、それは…。確か…、Cはクラッシュで潰す。Tは テアー で引き裂くで、もうひとつのCは…、あれ…、なんだったかな?
あ、そうそう! カール…?で丸める!
収穫した潰した茶葉を丸める様に加工するんだって。
味を濃くするためらしいよ。たしか…。」

「ふーん…。」

いかにも『にわか知識』っぽい説明であるが、実際にそうなので致し方ない。
そんな曖昧で頼りない答えを聞きながらメニューを眺めていた有紀は、顔を上げて中野氏に改めて尋ねた。

「…そうなんですか?」

「随分お詳しいですね…。
仰る通りです。
茶葉を潰して丸める事で表面積が広がりますし、潰した時の葉の汁が表面に残るため、コクのある濃厚な味に仕上がります。
正にミルクティーの為の紅茶ですね。」

お詳しいも何も…、この知識は前回来店した際に中野氏から教えてもらったまんまの受け売りである。まさかその事を、記憶力に長けているホテルマンの彼が忘れているとは考え難い。
教えてくれた当の本人を目の前に、茶葉の蘊蓄話を語る何ともマヌケな僕。
そして、そんな僕の面子を立てるために一芝居を打つ彼。
これこそ正に「茶番劇」である。
落語のオチじゃあるまいに…。

「へえ~、そうなんだ…。
紅茶の葉って、だだ干してるだけじゃないんだね。
じゃあ…、あたしはミルクティーにしたいからそれにしようかな!」

あまりにも普通に振る舞う彼が何だか可笑しくて、僕は思わず笑いそうになるのをこらえながら、2人分のアッサムのミルクティーを
注文した。


…そして今、そのミルクティーを注いでもらっていると言うわけである。
紅茶を注ぎ終えた中野氏は、彼女には気づかれぬように、一瞬僕に目配せをした後…

「では、ごゆっくり…、失礼いたします。」

あの穏やかな笑顔で挨拶をすると、敢えて何の説明もせずに素知らぬふりをして立ち去った。

有紀は目の前のティーセット一式に目を奪われていた。

「凄い…、ウエッジウッドで揃えてるの?
しかも全部『フロレンティーン 』だ…。」

運ばれてきたティーカップやポットは全て英国製の高級陶器ブランド…、ウエッジウッドの物だった。

「秋の期間限定でさ…。
ここのホテルとウエッジウッドとのコラボ企画でね…、このティーラウンジのテーブルウェアにウエッジウッドを使ってるんだって。」

「へぇ~、そうなんだぁ…。」

「有紀ちゃん…、好きだったろ?ウエッジウッド。」

「うん!大好き~。
あ…、それでここに?」

「うん、ネットでこのコラボ企画やってるの見つけて…。」

「そうなんだ…、嬉しい!ありがとう。
でも、良くそんなこと覚えてたね。」

彼女は。何気に周囲のテーブルを見渡す。

「あ…、ホント、他のテーブルもみんなウエッジウッドだぁ…。
あっ、でも見て…、隣のテーブルは『ワイルド · ストロベリー』で、…その隣は『オズボーン』だ。』

僕は隣のゲストの手元を盗み見でもするようにチラリと見てみる。
ちょっと派手な化粧と高そうなアクセサリーを身に着けた年配のマダムたち。
彼女たちがが手にしているカップは鮮やかな色合いで草花と野苺『ワイド · ストロベリー』のデザインが描かれていた。
その隣のテーブルは、ティーカップのデザイン等にはさして興味もなさそうな中年のビジネスマン風の男性が三人。
商談中なのだろうか、テーブルに広げられた書類の傍らには、ちょっと控え目の花柄のティーカップとソーサー。
『オズボーン』だった。

「今回は全部で4種類らしいよ。」

「そうなんだ。じゃあ後の1種類はやっぱり…、『ジャスパー』?」

「だね。」

『ジャスパー』は英国の陶磁器には珍しい素焼仕上げ。
淡いブルーに白でギリシャ神話をモチーフとしたレリーフが施された、ウエッジウッドの代名詞的デザインだ。

暫し手元の美しい食器たちに見要っていた有紀は、ようやく紅茶の注がれたカップとソーサーを手にした。

「ジャスパーも素敵だけど、やっぱりあたしは断トツでコレ!
フロレンティーンが一番綺麗で好きだなぁ。しかもその中でもあたしの一番の推しの色、ターコイズ…。」

手に取ったカップをまじまじと眺める有紀…。


有紀が好きなこのターコイズブルーのティーカップ…。
これには僕もちょっとした思い入れがあった。

それは今から数ヶ月前…。

あれはまだ僕らが付きあい始める少し前で、僕が仲良くなった彼女に密かに異性としての好意を持ち始めた頃…。

会社帰りの飲み会がてら、彼女が友人の結婚祝いの品を探しに行くのに付いて行った最寄の百貨店。
彼女が羨望の眼差しで眺めていたウエッジウッドのショーウィンドウに陳列されていたのが、この『フロレンティーン · ターコイズ』だった。

「いいよね~。
あたしこれが好きなの…、この『フロレンティーン』ってやつの青い方。
こんなの一式揃えてティータイム楽しめたらさ、なんだかセレブ~って感じ?
素敵だよね~。」

あの時有紀はそう言いながら、ずらりと並べられた陶磁器をうっとりと見つめていた。
きっとこの豪華なテーブルウェアで優雅なアフタヌーンティーを楽しむシーンでも想像していたのだろう。

真っ白な地肌に鮮やかなターコイズブルー。
幾何学模様と、伝説上の怪物グリフォンの絵柄の組合せ。
描かれたそのラインの立体感から、1つ1つ手筆で丁寧に描かれているのが見て取れる。
学生時代、少しだけ趣味で陶芸を嗜んでいた僕は、初めて見るその洗練されたデザインに心奪われ、一目見て好きになった。
ならばそれをプレゼントして彼女の気を引こう…などと考えた僕は、こっそり値札を見て驚いたものだった。
それは最も安価なデザインでもペアのカップ&ソーサーにティーポット、シュガーポット、ミルクピッチャーの7点セットで軽く6~7万円。
有紀が眺めていたこの『フロレンティーン』や『ジャスパー』といった、ワンランク上のシリーズなら倍の13~14万円はした。
残念ながら、安月給の僕の手持ちの小遣いでは到底手が届く品ではなかった。

それ以来、ウエッジウッドのデザインに魅了された僕は、インターネットであれこれとこのブランドについて調べたり、百貨店の売り場を度々覗いたりしていた。
お陰でウエッジウッドならちょっと見るだけで、ある程度の品名は分かるようになっていた。
周囲のゲストの手元のカップの品名を一瞥して分かったのもそのおかげだった。
とは言え、実物は1客たりとも所有はしていない。
いかにもオタクらしい習性だ。
そしてそんなオタクの僕は、まだ付き合ってもいない彼女と二人きりで過ごす自宅でのアフタヌーンティーを妄想していたものだ。
妄想の中では、有紀は既に僕の恋人という設定だった。
勿論、テーブルウェアは全てウエッジウッドの最高級品で揃えている。(何せ妄想するのはタダなのだから…。)


それから半年ほどたった先日…。
彼女の昇格祝いのプレゼントにちょっと奮発してティーカップの1客でも…と思い、インターネットでウエッジウッドの情報を検索していてた時に、この期間限定コラボ企画を発見したというわけである。


そして今、念願叶って僕は彼女をウエッジウッドのお茶会に招待できた。
しかもそれは、1DKの生活感溢れた僕の自宅なんかではなく、洗練された大人の空間…、高級ホテルのティーラウンジ。
普段から段取り下手な僕としては、まずまず上出来なセッティングではなかろうか?
僕はちょっとドキドキしながら有紀の反応を伺っていた。
彼女はといえば、お気に入りのティーセットに囲まれてのお茶会にご満悦なご様子だ。
うっとりと目を閉じて手にした紅茶の薫りを暫し楽しんだのち、そっとカップに唇をつけた。

「美味しい…!」

先ほどまでのウットリ恍惚とした表情から、今度はパッと明るい満面の笑顔を見せてくれる有紀。   
元々目鼻立ちがはっきりして整った顔立ちの彼女ではあるが、その容姿を何十倍も魅力的に見せるのがこの明るい笑顔だ。
僕はその彼女の眩しい微笑みが見たくて今日のデートの計画を練ったのだ。

『やった!今日ここに連れて来て大正解だった!』

僕は大満足で彼女の可愛らしい笑顔に見とれていた。

「んん~っ!しあわせ~っ!」

彼女もご機嫌で目を細めながら、改めて手に取ったカップの絵付を鑑賞している。

「フフッ、大袈裟だなぁ…。
でも、そんなに喜んで貰えるなんて…、連れてきた甲斐があったよ。」

この時はきっと僕も嬉しくて笑顔になっていただろう。

「だって、こんな風にウエッジウッドで揃えたティータイムって、ずっと夢だったんだもん!
しかも偶然にも…、なんとあたしの一番好きな『フロレンティーン · ターコイズ』だなんてさ。超ラッキーだよね!」

偶然にも…。

実はこれは偶然なわけではない。
僕があらかじめ確認しておきたかった事…。

それはこのウエッジウッドで揃えられたティーセットの一式。
そのデザインを好みで選ぶことは可能なのかということだった。
せっかくの機会なのだから、出来ることならば彼女の一番のお気に入り…『フロレンティーン · ターコイズ』て揃えたかったからだ。
答えはYES。
あらかじめ予約をする事で、好きなデザインを選ぶことも可能だった。
つまり、この日のそれ…は偶然でも何でも無く、事前に予約してお願いしていたことを、その時相談にのってくれた中野氏が彼女に気付かれぬようにさりげなく演出してくれた…というわけだ。
やはりあの時、ネット予約などではなく、直接下見に来て対面で相談したのが良かった。
結果、僕の計画はひとまず成功と言って良いのだろう。
『よし!なんだかいい流れだぞ…!』
僕は心の中で密かにガッツポーズをとる。
昼間のデートの自己採点が低かった分、なんだか名誉挽回をしたような心持ちだった。
この流れでこの後の計画が進めそうな気がした。
有紀はそんな僕の気持ちを知ってか知らずか、テーブル越しに少し身を乗り出して僕と目を合わせる。

「これって…、びっくり嬉しいサプライズ~!
なんだかこの後行くお店もすっごく楽しみになってきちゃった。
どんなお店だろ?何食べるの?」

いきなりのプレッシャーだ。
しかし、今回の成功で僕は少しだけ自信を持っていた。

「ん~、それはまだ秘密だけど…、じゃあちょっとだけヒントね…。
有紀ちゃんが好きなジャンルの料理で~、和食でも洋食でもない料理で~。それは~。」

「ちょっとストップ、スト~ップ~!」

彼女は笑いながら僕のセリフを途中でさえぎった。

「それっ…!もうほとんど答え言ってるって~!
あたしが好きな料理で和食でも洋食でもないって言ったら、中華料…!」

そこまで言いかけて口をつぐむと、うつむいてクスクスと笑ってから、上目遣いに僕に視線をよこす。

「ん~!何でもないっ!
何でもないよ~。
フフッ…!サプライズだもんね。
サ · プ · ラ · イ · ズ!」

ちょっとヒントが過ぎたようだ。
彼女のリアクションに、僕も思わず笑ってしまった。

「そうそう。サプライズだからまだ秘密。」

「え~?なんだろ~う。
あ、でもニンニクとか、臭い大丈夫かな?…って、明日お休み出し大丈夫だね!」

彼女はわざとらしわからないという体(てい)で会話を繋げながら、チラリと手首の時計を確認した。
「で、そのお店は何時に予約入れてるの?
今7時15分ぐらいだけど…。」

僕も自分の腕時計の針を見ながら答えた。

「ちょっと遅めで、8時で予約いれてるから…、まだゆっくりできるよ。」

「やった!フフフッ…せっかくのゴージャスなティータイムだもんね~。」

有紀は紅茶を飲み干して空になったカップを愛でるように眺めていた。

「紅茶、ポットにまだ残ってるしね。」

僕はテーブルの上に鎮座するターコイズブルーのポットに手を添え、辺りを見渡した。

正式なアフタヌーンティーならば、紅茶のおかわりは自分で注がずスタッフに任せるのがマナーなのだそうだが、今日は略式なティータイム。
自分で注いでも問題はないだろう。
というか、自分でやってみたかったのだ。


僕はそっと周囲を見渡して、スタッフの人がこちらを見ていないことを確認する。
彼女のティーカップを受け取り、見様見真似で紅茶を注いだ。

ポットの蓋には手は添えず…。
カップはテーブルの上ではなくて手に持って…。
ソーサーはテーブルの上…。
カップの取っ手には指は入れず挟んで摘まむ様に持ち…。

全ては先日教わったばかりの付け焼き刃なので、どことなくぎこちなくはあるが、まあいいだろう。

僕は外国映画のワンシーンを演じている気分に浸ってみる。
英国風の洒落たテーブルで、ホスト役の英国紳士(もちろん僕のことだ)と、可愛らしくて素敵な女性…。
2人だけのアフタヌーンティー。
手慣れた手つきでティーカップの取手をつまみ、ちょっと高い位置に掲げたポットを傾ける。
紅茶は放物線を描きカップに吸い込まれるように注がれていく…。
実に優雅な身のこなし。
そう言えば、先ほどの中野氏の注ぎ方は正にそれだった。

現実の僕はと言えば、紅茶を溢さぬ様にするのに精一杯で、優雅どころでは無かったかも知れない。
たかが紅茶を注ぐだけなのに、真面目に取り組んでみたら、これが中々奥深い。
彼女の手元のソーサーにそっとティーカップを置くと、今度は自分のカップにも同じように紅茶を注いだ。

『さてと…、この後はゆったりと寛ぎながら、さっき観た映画の感想でも語り合おうか…。』
ちょっと濃くなっていた紅茶をすすりながら、僕は何だか長く楽しい夜になりそうな予感を感じて胸踊らせていた…。

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