Chapter 3 かすかな風

文字数 9,684文字

──二ノ宮先生、二ノ宮先生、理科準備室までお越しください。繰り返します。二ノ宮先生、至急、理科準備室まで──。
 透は、職員室の天井を見上げて、ため息をついた。
──だから、なんで放送なのかなあ。
 今日は、県庁の担当者との初顔合わせだ。忘れていたわけでも何でもない。約束の時間まで、まだあと二十分もある。わざわざ来てもらうわけだし、ちゃんと時間どおりに顔を出すつもりでいた。
──もしかして、もう来ちゃったとか?
 相手が早く着いてしまったのだとしたら、待たせるわけにはいかない。
 透は、机に手をついて立ち上がった。例によって教頭先生と目が合う。教頭先生は、いつもと同じように、職員室の一番奥で灰色の頭を深々と下げた。
──どうか、よろしく。引き続き、うまいことよろしく──。
 隣の席から「がんばってねー」という新沼先生の声が飛んでくる。その声を聞きながら、職員室を後にした。
 青島璃子の待ち伏せが怖いので、最初から、遠回りして理科準備室に向かう。前回は、二階の渡り廊下を使ったが、そっちもばれている気がする。だから今日は、本館の端から一旦中庭に出て、新館の裏に回り、非常口から建物の中に入った。
 幸い、青島璃子とは、横断歩道でばったり会った時を最後に、まともに顔を合わせていない。
 透は二年一組の担任だ。あの子が二年生じゃなくてよかった、と心から思う。
 三年生の廊下には授業以外では近づかないし、それ以外の場所でも、それらしい姿がないかどうか常に気を付けている。そして、用がない時は職員室から出ない。帰宅時は、周囲は一切見ずに校門を抜け、そこから先は毎日ルートを変える──。
 高校生の女の子相手にここまでするのは酷だという見方もあるかもしれないが、その気もないのに、相手をすることなんてできない。向こうが思い詰めているのだとしたら、なおさらだ。
 人の気配がないことにほっとしながら、新館の廊下を歩き、階段を上がって、どうにか無事に理科準備室にたどり着いた。
 がらっと引き戸を開けると、水木以下六名がテーブルを囲んで待っていた。県庁の担当者の姿は、まだない。
「えっと、県庁の方は──?」
「まだですよ」水木が、当たり前でしょうという顔をする。「約束は四時半ですから」
「でも、今、放送で呼ばれて──」
「先生は若干ほわんとしたところがおありですからね」水木が、この間と同じセリフを繰り返した。「早めにお呼びしておいた方が親切かなと思いまして」
──“至急”という言葉を真に受けて、あわててやってきた僕って、一体──。
 ため息が出そうになったが、ぐっと飲み込んだ。
 椅子が二つ空いていたので、入り口に近い方に腰を下ろす。体格のいい男が多すぎるせいか、余計なプレッシャーばかりかけられているせいか、何だか息が詰まる。
 四時半まで、まだ充分に時間はある。この機会に、前から思っていたことを口にしてみた。
「あのさ、放送で呼び出すんじゃなくて、せめて携帯にかけるとかしてもらえると、ありがたいんだけど」
 水木が「先生は校則をご存じないんですか?」と冷たい口調で言った。
「携帯、スマホは校内持ち込み禁止です。まさか、校則に違反して持ってきているとでも?」
 白々しくて、涙が出そうだ。顧問に就任したその日に、透の携帯番号とアドレスを確認したくせに。
 どう返そうかと思案していると、部屋の中のどこかで振動音がした。まぎれもなく着信だ。ちなみに、透のスマホは、胸ポケットの中で沈黙している。
「あ、ごめーん。あたし、あたし」
 百瀬結衣があっけらかんと言い、学校指定のサブバッグに手を入れた。真っ赤なラバーの耳が付いたスマホを取り出す。指で画面をスワイプしてから、耳に当てた。
「さっきはありがとー。いつもごめんね」女子高生は元気だ。「うん、うん、先生来たから、追加放送はしなくていいよ。次もよろしくねー」
 あっけに取られて見ている透の前で、百瀬は通話を終えた。ハンカチを出して、画面を軽く拭く。
 放送室は職員室の近くにある。わざわざ放送を頼みに行くくらいなら、直接呼びに来てくれたらいいのに。そう思っていたが、謎が解けた。それにしても、電話一本でOKって、ピザの宅配か?
 そして、スマホ。やっぱり持ってるじゃないか。
「水木、あれ」
 視線で、バッグにスマホをしまおうとしている百瀬を示す。水木は、そっちをちらっと見て、しれっと言った。
「ああ、多分、おもちゃじゃないですか? 赤い水玉柄の耳なんて、本物に付いてるはずないですから」
「いや、今、話してたよね。放送部の誰かと」
「多分、独り言でしょう」水木が真顔で言う。「彼女、昔から独り言が多いので。よくおもちゃの電話で、アンパンマンと話してましたし」
 さすが、幼馴染。でも、一体、何年前の話だ? 十年どころじゃないだろう。
「いや、さっきのは、どう見てもスマホ──」
「まさか、女性の持ち物を間近で確認しろとでも? いきなり持ち物を見せてくれだなんて、非常識でしょう」
──だめだ、勝てる気がしない。
 その時、廊下側から軽いノックが聞こえた。
 引き戸の上部に引かれたカーテンに、輪郭が映っている。背が高い。まさかとは思うが、あれは──。
 水木が、はい、と返事をして席を立ち、引き戸を開けた。案内されて入ってきた顔を見て、驚きながらも「やっぱり」と思う。
 大学時代に比べると、少し大人っぽくなったかもしれない。
 森──。
 一体、何年ぶりだろう。そのうちまた飲もうと言いながら、そのままになっていた。
「ご足労をおかけしてすみません」水木が丁寧に言い、全員に向かって「県庁の環境部の森さんです」と紹介した。
「はじめまして」森は、軽く頭を下げた。「環境保全を担当している森です。よろしくお願いします」
「やだ、イケメン」百瀬がぼそっとつぶやいた。「二ノ宮先生と並べたい──」
 透は、眉間にしわを寄せた。今、何か妙な言葉が聞こえたような気がする。横目でちらっと見ると、百瀬はひたすら森を凝視している。
 森が頭を上げ、室内に目を走らせた。視線が透の上をいったん通り過ぎ、次の瞬間、すごい勢いで戻ってきた。
「二ノ宮──?」
 ありえないものを見た、という顔をしている。透は、にっこり笑ってみせた。
「やあ、久しぶり」
 水木に「もしかして、お知り合いですか?」と尋ねられ、「高校と大学が一緒」だと答える。
 黙ってやりとりを眺めていた百瀬の目が、きらっとした。
 さっと立ち上がり、透の隣に座っていた二年生を別の席にうながす。それから、森に向かって「どうぞ、お友達の隣に」とにこやかに声をかけた。
 森が腰を下ろすと、百瀬は自分の席に戻り、再び、赤い耳付きの疑惑の物体をバッグから取り出した。膝の上で何やら操作をしている。
「お前、何でここにいるの?」
 森が嬉しそうに、でも若干不思議そうに言った。
「顧問。生物研究部の」
 何で僕なのかは、いまだによく分からないけど。そう思いながら答えると、森は「その淡泊な物言い、変わんねえな」と笑った。
「先生、森さん、くっついてください」
 百瀬の声に振り向くと、こっちに向かってスマホを構えている。
「え? 何?」
「記念撮影です、再会の。あとで送ってあげますから」
 そんなものいらないと言う間もなく、森の大きな手が伸びてきて、肩を抱かれた。
 忘れていたが、森は、テンションが上がると、たまにこんな過剰サービスをすることがある。普段は、他人に対して横柄なくせに。
「すっごい、最高です」
 フラッシュが光った。その向こうで、百瀬が大はしゃぎしている。
「勝手に人の写真──」
「大丈夫、売ったりしませんから」
 苦情を言おうとしたら、途中で百瀬に遮られた。「すぐ送りますね」と言いながら、画面に指を走らせる。ものすごい早さだ。デジタルネイティヴというのは、こういう世代をいうのに違いない。
 十秒もしないうちに、透のスマホが振動した。
──やっぱり、それ、スマホじゃないか。
 がっくりと肩が落ちる。当たり前のことを、もう一度主張しようかとも思ったが、もう、どうでもいいやという気になってきた。
 二年生が資料を配っている間、森と言葉を交わす。
「プレスリリースを見た時、あれ?って思ったんだけど、まさか本当に森だとは思わなかった」
「俺は、何の前振りもなしだったから、すごいびっくりした。ありえねえよな」
 ていうか、あのリリースで、何で俺かもって思うわけ? そう言って、森が苦笑いをする。
 テーブルの向こうで、百瀬が水木をつつくのが見えた。
 この二人の関係が何なのかは、よく分からない。幼馴染で、今もつるんでいるくらいだから、きっと仲はいいんだろう。しょっちゅう一緒にいるし、普通に考えれば、付き合っていると思うのが自然だろうが、この二人と男女交際という概念が素直に結びつかない。
 腕を組んで椅子の背にもたれる水木に、百瀬が顔を寄せた。
「先生と森さん、タイを張るよね」と百瀬。
「かもね」と水木。
「目の保養。こう、BL的な? さっきの写真、後でくろきんにも送っちゃおっと」
 百瀬が嬉しそうにささやいたところで、透は、会話の内容が不穏であることに気づき、あわてて割り込んだ。
「びーえるって何? くろきんって誰? 何だか知らないけど、さっきの写真、人に送るのはやめてね」
 百瀬が「ケチ」と小さくつぶやいた。
 資料が行き渡ったのを確認し、水木が手をたたいて、注目を喚起する。
「じゃあ、今年の調査研究活動に関する打ち合わせを始めます」

   ***

 水木は、本当に高校生なんだろうかと、たまに本気で思う。
 手慣れた進行と簡潔な説明で、議論がぶれない。森の発言の明確さもあって、打ち合わせは一時間弱で終了した。
 まずは、県と学校との間で簡単な覚書を交わすこと、来月を目途に、カメの生息エリアと固体数の把握から着手することが確認された。覚書については、森が原案を作成し、透と一緒に詳細を詰めて、それぞれの組織で決裁を受けることになる。
 打ち合わせのあと、このまま直帰するという森に誘われて、飲みに行くことになった。
「これから時々出入りさせてもらうし、あいさつをしておきたい」と森が言い、二人で理科準備室を出て、職員室に向かう。
 前方で待っている人影に気が付いたのは、渡り廊下に足を踏み入れた直後だった。新館と本館をつなぐ屋根の端っこで、こっちを見ている。
 長い髪。ほっそりした足を強調するかのように、短くしたスカート。青島璃子──。
──しまった。
 さっき、放送で呼ばれたから、透が理科準備室にいると分かっていたのだろう。あんなに気を付けていたのに、森が一緒で注意が散漫になっていた。
 連れがいるからか、近づいては来ない。でも、彼女の前を通る時、軽く頭を下げたら、小さな声で「先生──」とつぶやいた。
「気を付けて帰りなさい」
 諭すように言って、そのまま通り過ぎる。本館の廊下に足を踏み入れると、外が明るかったせいか、一瞬、ひどく暗く感じた。
「何、さっきの」
 森の声に、怪訝そうな響きがこもっている。
「何でもないよ」
「まさか、生徒に手を出してねえよな?」
「出すわけない」
「だよなあ、お前が」
 それから、森は「きれいな子じゃん。その気がないなら、気を付けろよ」と真顔で言った。「青少年健全育成条例。教師と公務員は、しゃれにならねえからな」

   ***

「カメの調査でお世話になります。これから、よろしくお願いします」
 そう丁寧にあいさつした森に向かって、校長先生も教頭先生も、深々と頭を下げた。それから「ご迷惑をおかけしたら申し訳ありません」と何度も繰り返した。
 今回の経緯は、一応、事前に報告してある。「何も起きないように目を配ってほしい」と、ひたすらそれだけを頼まれている。
 一通りのあいさつを交わしたところで、あまりの丁重さに戸惑い気味の森をうながして、職員室を出た。
 板張りの廊下を歩き、石造りの階段を数段降りる。その先の昇降口から外に出た。
 さっきから、すれ違う生徒たちが、ちらちらとこっちを見ている。きっと、知らない顔が校内を歩いているからだろう。そう思うが、森だけではなく、透のことも見られている気がして、落ち着かない気分になる。
 校門を出ると、何だかとてもほっとした。
「俺の行きつけでいい?」
 森に聞かれて、うなずいた。森は、昔から酒好きだ。任せておけば、美味い店に連れて行ってくれるに違いない。
 二人で、ぶらぶらと城内を歩いて抜け、桜田橋のバス停からバスに乗った。バスの表示は「県庁行き」。別に、終点まで乗るわけじゃないけれど、穂花ちゃんのところへ走っていくバスだと思うと、それだけで気持ちがなごむ。
 街なかの一番にぎやかな界隈で下車した。森と一緒に、商業ビルが並ぶ表通りを歩いていく。コンビニのある角で左に折れると、見覚えのある小さな通りに出た。風情のある落ち着いた店が数軒並んでいる。
 いつかの夜、この通りで、穂花ちゃんにばったり会った。
 森は、あの夜、穂花ちゃんが立っていた場所のすぐそばで立ち止まった。「ここ」と店の入り口を透に示し、「席、空いてるかな」と言いながら、先に立って中に入っていく。
──あの夜、穂花ちゃんは、一人だったのかな。
 ふと、そんな考えが浮かんだ。
 あの時は思いがけず会えたことが嬉しくて頭が回らなかったが、今思えば、あんな時間に、女の子が一人でこんな場所に立っているのは変だ。もしかすると、どこかに連れがいたのかもしれない。職場の仲間か、友達だろうか。
 何にしても、彼女と飲むのは楽しそうだ。そのうち、誘わなくては──。
 能天気にそんなことを考えながら、森の後に続いて、店の中に足を踏み入れた。入り口の床に飾られた、大きな生花のアレンジ。そのさらに奥にある引き戸をくぐる。
 そう広くはない。左手にカウンター席、右手には、小上がりの半個室が四、五部屋ほど並んでいる。
「いつもありがとうございます」というスタッフの言葉からすると、本当に行きつけなのだろう。森のリクエストに応じて、左手の一番奥の席に案内された。
 一枚板のカウンター。いかにも上質なのに、気取らない雰囲気でくつろげそうだ。
「よさげな店だね。よく来るの?」
 森は「まあな」と答えた。「一人でぶらっと。誰かと一緒に来たのは、お前が二人目」
「そうなんだ」
 言いながら、差し出されたメニューをのぞき込む。開かれているページを見て、笑ってしまった。まぎれもなく、森だ。
「最初から日本酒? 相変わらずだね」
「だって、飲むだろ?」
「うん」
 それぞれ、新潟と山形の酒をオーダーする。申し訳程度に料理を頼み、酒が届くと、早速乾杯した。
「さっきは、本当に驚いた」と森は言った。「部屋に入ったら、お前がいるんだもんな。顧問が立ち会うっていうから、どうせジジイだろ、面倒くせえなと思ってたら」
 本気で言っているわけじゃないとは思うが、相変わらず、口が減らない。
「森こそ、いつの間にこっちに戻ってたの?」
「あー? 二年前? 会社のために働くより、こっちの方が面白そうだと思って」森は、楽しそうにグラスを口に運んだ。「美味いな、〆張鶴」
 森とは、高校に入学した時に初めて会った。西学附設。私立の男子校だ。二人とも寮生だったから、付き合いは結構深かった。大学に入ってからも、学部は違ったが、たまに一緒に飲みに行っていた。
連絡が途絶えたのは、森が商社に就職し、関西に転勤になってからだ。まさか地元で県庁勤めをしているとは思わなかった。
「で? さっき、ちゃんと聞けなかったけど、何で高校教師やってんの? 大学講師ならともかく」
 森が言いたいことは分かる。
 透は、学部を卒業後、修士課程、博士課程へと進んだ。無事に学位を取得した後、周囲には、ポストドクターとして大学に残るものだと思われていた。なのに、まったく別の道を選んだ。今思えば、いわゆる「魔が差した」というやつだったかもしれない。
「大学で十年近くも文献と取っ組み合ってて。こんな隔絶された場所で、好きなことに没頭してていいのかなって、ふと思ったんだよね」
 透の専門は国文学だ。それも、古典文学。理系の学問や、文系でも教育学や経済学なんかならともかく、劇的に世の中に役立つ何かを生み出せるわけじゃない。
「ちゃんと誰かの役に立つことをしたいなって思って。──甘かったけど」
 本当に甘かった。学問を教えるのが教師だと勝手に理解していたが、そうじゃなかった。人を育てる仕事は、自分には荷が重すぎる。
 森は、あはは、と屈託なく笑った。「二ノ宮、お前、バカだな」
「やっぱりそうかな」
「でもまあ、ちゃんと教師をやってるじゃん」
「そう?」
 透は、驚いて目を上げた。
「そう思うよ」と森が言った。グラスの中身をぐいっとあける。「霞を食べて生きてるようなやつだと思ってたけど。部活の顧問を務め、生徒と恋愛関係になり──」
「なってない」そこだけは否定しておかなければ。
「──でも、お前の本領がそこで発揮できるかっていうと、どうかとも思うけどな」
 森が言いたいことを察して、透は言い訳をするようにつぶやいた。
「K大には、ちょくちょく出入りさせてもらってるよ」
「迷うことがあるなら、早めにそっちに戻れよ。ブランクが長くならないうちに」
 さすが森の行きつけだけあって、この店には、いい酒がそろっている。有名な酒どころから始めて、石川、福井、佐賀、高知──と全国の酒を、森と二人で行脚した。
 森は、はっきり言ってザルだし、透も弱くはない。でも、三杯、四杯と重ねるうちに、少しずつ酔いが回ってくる。
「だいたいさあ、二ノ宮、お前、国語教えてんのに、何で生物研究部の顧問やってんの?」
 森が、グラスをつまむように持って、カウンターに肘をついた。鋭い──というか、ある意味当然の質問を投げてくる。透が、去年おきた騒動のことも含めて、これまでの経緯を説明したら、大爆笑された。
「ああ、だから、校長と教頭が変だったんだ。俺にもお前にも頭を下げまくりで。こんな若造に」
 それから、エイヒレをぽいっと口に入れた。うま、という言葉につられて、透も一片かじってみる。うん、美味い。そして、酒に合う。
 森が目を細めた。
「生物研究部、強烈だよな。いきなり県庁に電話かけてきて、対等に交渉する高校生って、まずいねえよ。でも、俺、あいつら好き。特に、水木サイコー。うちの課にほしいくらい」
「今すぐ持って行ってもらっていいんだけど」
 そう言うと、森がまた笑った。笑いながら「でもさ」と透を見る。「今回の申し出は、こっちとしてもマジでありがたかった。自分でカメをすくうのは、もうイヤだし、絶対やらねえ。ガテン系文化部、大歓迎。というわけで、先生、よろしく」
 小さくグラスを上げる。透が自分のグラスを合わせると、かちん、といい音がした。

   ***

 楽しい酒だった。
 少しふわふわした足取りで店を出た。「また飲もう」と声をかけ合い、互いの連絡先を交換する。スマホを元通りポケットにしまい、一緒に歩き出そうとして顔を上げた時、穂花ちゃんが立っていた場所が目に入った。
「ああ、そういえば」
 透は、森に聞いてみようと思っていたことがあったのを思い出した。
「県政相談室の──」下の名前でばかり呼んでいるせいで、名字がとっさに出てこない。「ええと、あの、そうだ、小日向さん。小日向さんって知ってる?」
 大通りに向けて歩き出そうとしていた森の背中がぴたりと止まった。振り向いた森は、微妙な顔をしていた。一瞬の間を置いて、答えが返ってくる。
「ああ、同期だけど」
 頭の中で赤いランプが点灯した。平板な森の声。もしかすると、この話題は避けた方がよかったんだろうか。
「二ノ宮、もしかして、知り合い?」
「──少し前に知り合って。そのあと、ここで、ばったり会ったんだよね」
 森の視線が揺れた。それから、あの夜、穂花ちゃんが立っていた場所に目を向けた。
「──あれ、お前だったのか」小さなつぶやきが、耳に届いた。
 透は、ああ、なるほど、と思った。
穂花ちゃんの話題を持ち出したのは、単純に、二人とも県庁勤めだから知り合いかもしれないと思っただけだ。別に、何かを知りたかったわけじゃない。
 なのに、分かってしまった。
 森が、普段一人でしか行かない店に、最初に連れて行ったのが誰だったのか。そして、あの夜、穂花ちゃんが誰と一緒だったのか──。
 二人が一緒にいたことに深い意味があるとは限らない。透は、自分に言い聞かせた。仲がいい友達となら、男女に関係なく、飲みに行くことだってあるだろう。
「穂花とは──」森は言いかけて、「小日向さんとは」と言い直した。「入庁年度が一緒で、仕事でも時々やり取りしてる」
 後半は、ろくに耳に入らなかった。
 穂花。“小日向さん”でも、“小日向”でも、“穂花ちゃん”でもなく、ただストレートに、“穂花”。
 決して嬉しくはない予感が、胸の中に広がっていく。
「行こうか」と森が口にし、二人で歩き出した。

   ***

 森と別れてから、タクシーに乗った。
 自宅の場所を告げ、後部座席に身体を沈める。酔っているはずなのに、頭だけは妙に醒めていた。
 暗い車内に、道路照明灯の黄色味を帯びた光が射し込んでは通り過ぎていく。
 透は、ぼんやりと窓の外を眺めた。
 日本庭園で食事をした後、二回ほど穂花ちゃんと会った。あの翌週に美術館に行き、そのまた翌週には映画を観た。
 まだ、何も、言葉で確かめ合ってはいない。手をつなぐ以上に触れ合ってもいない。
でも、毎日のようにメールを交わし、時には電話で話もして、少しずつ共通の時間を積み重ねている。少なくとも、透は、そう思っていたし、今もそう思っている。
──僕の気持ちははっきりしている。
 でも、君はどうなんだろう。きっと同じ気持ちだと、のんきに構えていたけれど、本当にそうなんだろうか。僕は、いろんなことを勝手に自分の都合がいいように解釈して、大事なことを見ずにきてしまったんじゃないか?
 胸ポケットに振動を感じた。小さく二回震えて止まる。
 透は、緩慢な動作でスマホを取り出した。電源ボタンに軽く触れると、薄暗い中に、画面がぼうっと浮かび上がった。穂花ちゃんからメールが届いていた。
「小日向穂花」という文字をそっと大切になぞって、本文を表示する。
<家の近くで猫を見ました。かわいかったので、写真を送ります。>
 真面目に考え込んでいたはずなのに、添付ファイルを開けた瞬間に笑いが漏れた。
 マンホールのふたの上。どう見ても“ドラ猫”としか呼べない、人相の悪い太った茶トラの猫が、お腹を見せて転がっている。
──かわいいって、これが?
 可笑しくて、涙が出そうだ。そして、このドラ猫にそろそろと近づき、写真を撮ろうとしている彼女の姿が目に浮かぶ。かわいいのは、猫じゃなくて彼女の方だ。
 ふはは、と変な声が出てしまった。運転手さんに、怪しい客だと思われてしまったかもしれない。
 少し笑ったら、気持ちが落ち着いた。冷静さが戻ってくる。
 穂花ちゃんが何も言わないのは、きっと、知らせる必要がないからだ。だから、今は、ただこうして透と繋がろうとしてくれる彼女を大切に思っていればいい──。
 猫の写真の感想を書き「おやすみ」の言葉を添える。それから、返事を待っているだろう彼女に送信した。
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