【番外編】 「ある日の帰り道」 by 二ノ宮透

文字数 4,691文字

※作者注:
・第2部「Chapter 6 季節の終わり、そして始まり」の途中のエピソード。
・仕事の帰り、桜田橋のバス停で待ち合わせて、夕飯のお買い物。
・穂花ちゃんからのメールによると「今日の晩ごはんは、コック・オーヴァン」だそうです(「何だ、それ?」←透の心の声)

   *****


 桜田橋のバス停に立って、穂花ちゃんが乗ったバスが着くのを待った。
 夕方の心地よい風に吹かれながら、何台かのバスを見送り、県庁方面をぼんやり眺めていると、後ろから「先生だよね」とささやき合う声が聞こえてきた。
──僕のこと?
 横目で見ると、女子生徒が二人、二メートルほど離れたところから、ちらちらとこっちを見ている。堀川高校の制服を着ているが、顔に見覚えがないから、透が教科を受け持っている生徒でないのは確かだ。もしかしたら一年生かもしれない。
「こんにちは」とあいさつをされて、軽く会釈を返した。そのまま黙ってバスを待つ。知っている生徒ではないし、わざわざ話すネタもない。
 二人は、しばらく遠巻きにこちらをうかがっていたが、恐る恐るといった様子で近づいて来て、透に声をかけた。
「バス、待ってるんですか?」
「うん」
 バス停で、バスを待つ以外のことをする人がいるんだろうか。そう思いながら、短く返事をする。
「国語の先生ですよね?」
「二年生の担任ですよね??」
 一度話しかけたら抵抗がなくなったのか、それとも、怖い先生ではなさそうだと思ったのか、二人が同時に質問を口にした。
「そうですよ」
 両方の質問にまとめて答えると、髪の長い方の子が「二年生、いいなあ」と言った。
「わたしたちも先生がよかったです」
──は?
 透の授業を受けたこともないはずなのに、どうしてそんな言葉が出てくるのか分からない。
 どう返事をしたらいいのか困っていると、自分たちの担当教師の授業は面白くないだとか、口うるさくて嫌いだとか、そんなことを口々に主張し始めた。本人たちに悪気はないのだろうが、言われる側の教師としてはつらい言葉だ。一年生の国語科担当が気の毒になった。
「先生、背が高いですよね。百八十二、三センチくらい?」
 見上げながら尋ねられて「それくらいかな」と適当に返事をする。
「いいかげんに言ってるー!」
「本当は何センチなんですかー?」
 だんだん面倒くさくなってきた。
 実は、女の子にこんな風に話しかけられるのは、そう珍しいことじゃない。生徒からだけじゃなくて、大学にいた頃もずっとそうだったし、就職してからも、研修会だとか、飲み会だとか、何かの機会に誰かと一緒になるたびに、同じような対応を受けてきた。
 透は別に話し上手なわけじゃない。なのに、ろくに知りもしない相手に対して、なんでこんなにテンションが高くなれるのか不思議でたまらない。
 いつもと同じように「あー、はいはい」で済ませようとして、ふいに気がついた。
──もしかして、こういうのが、いけなかったのかな。
 青島の泣き顔が頭に浮かんだ。あの子と初めて会った頃、どんな会話をしていただろう。よく覚えていないが、多分、こんな感じだったんじゃないか──?
 “早く特定の方をつくられた方がいいと思いますよ”
 黒木先生の言葉を思い出した。
「家は、どこなんですか?」
「先生は、何番のバスに乗るんですか?」
 次の質問が飛んできて、我に返った。透は少し考え、今度は相手の顔を見てきっぱりと答えた。
「乗らないよ。待ち合わせだから」
 生徒たちが「えー!」と声を上げる。
「待ち合わせって、もしかして?」
「カノジョとですかー?」
 予想どおりの質問が返ってきたので、予定どおりの返事をした。
「うん、カノジョと」
 考えうるかぎり最高のタイミングで、目の前にバスが停まった。
 窓越しに穂花ちゃんの姿を見つけて手を振ると、ぱっと目を見開き、笑顔を見せてくれる。隣に生徒がいることも忘れて、見とれてしまった。
 彼女は、何人かの乗客の一番最後に、運転席の横のステップに姿を見せた。軽やかな足取りで、ぴょんと歩道に降りる。ゆるくお団子にした髪。紺色のワンピースに夏用のジャケット。そして、裾からのぞくすんなりした足。今朝一緒に家を出た時にも思ったが、やっぱりかわいい。
「ごめんなさい、待ちました?」
「ほんのちょっとだけ」
 待つのも楽しいから大丈夫。思わず言うと、穂花ちゃんが嬉しそうに、えへっと笑った。
「スーパーでいい?」
 尋ねると、穂花ちゃんがわずかに首をかしげた。
「ワインが要るんですけど、売ってましたっけ?」
「あったと思うよ」
「じゃあ、スーパーでいいです」
 話しながら彼女の手を取り、歩き出そうと振り向いた先に、生徒たちの顔があった。驚いた表情で、透の顔と、つないだ手を交互に見ている。パフォーマンスでも何でもなく、すっかり忘れていた。
 穂花ちゃんが、生徒たちの視線に気がついて、透に小声で「生徒さんですか?」と尋ねた。透がうなずくと「ごめんなさい」と赤くなり、あわてて手を放そうとしたので、ぐっと握りしめた。
──生徒の前で手をつなぐのって、まずいのかな。
 一瞬だけ考えたが、まずい理由は思い浮かばない。教育上、見られては困る行動をしているわけでも何でもないし、はっきりアピールするという意味では、むしろ、このくらいやってもいいかもしれない。
 そう結論づけて、生徒たちに、にこやかに声をかけた。
「ごめんね。先に行くけど、君たちも気をつけて帰ってね」
 彼女たちは、驚いた顔のまま、ただこくこくとうなずいた。
 そのあとに立ち寄ったスーパーでは、男子生徒の群れに遭遇した。
 カゴを提げて、穂花ちゃんと一緒に店内を歩き回っていると、冷蔵ケースの前に見覚えのある制服の一団を見つけた。見なかったことにしようと背中を向けたが、間に合わなかったらしい。あっという間に、興味津々の体で取り囲まれた。
 こんなところで、つるんで何をやっているのかと思ったら、カラオケの帰りにアイスを買いに寄ったらしい。マックでもコンビニでもなく、スーパーという財布に優しい場所にわざわざ寄るところが微笑ましくはあるが、集団で寄ってこられると実にうっとうしい。
「カノジョ目撃」だの何だのと囃し立てられたので、面倒くさくなって「うん、僕の大事な人。うらやましくても、あげないよ。まあ、君たちもがんばって」と言ったら、「上から目線が許せない」とさらに騒がれた。
──そんなの、知るもんか。
 高校生にもなって、まったく男というのは子どもっぽすぎる。うんざりしながらスーパーを出たところで、穂花ちゃんが呆れ顔をしているのに気づいた。
「どうかした?」と聞いたら「透さん、子どもっぽすぎます」と言われてがっくりきた。不本意なことに、穂花ちゃんからみれば、透も、高校生男子ご一行様も、たいして違いはないらしい。
 その日のとどめは数学の佐古田先生だった。
 片手に買い物袋を提げ、空いた手を穂花ちゃんとつないで、バス通り沿いの歩道をマンションまで戻ってきたところで、反対側から歩いてきた佐古田先生とばったり会った。
 佐古田先生は「偶然ですね」と笑った透に向かって、「お疲れさまです」ともごもご言った。
 それから、透の隣りに目を遣った。驚いた顔で、穂花ちゃんを上から下まで眺める。
 ぶしつけな様子に少しむっとして、しっしっと追い払ってやろうかと思ったが、一応同僚だ。黒木先生が「神経質なくせに無神経」と言ったことを思い出し、こういう人なのだろうと理解して、ぐっとがまんする。
「あの──」
 穂花ちゃんが、とまどった様子で言いながら、透の手を握りしめ、不安な面持ちですり寄ってきた。気持ちは分かる。
 透は「同じ学校の数学の先生だよ」と言いながら、一歩前に出て、彼女を半分背中に隠した。あんまり見られたら、大事な穂花ちゃんが減ってしまいそうで嫌だ。
 佐古田先生の視線が、手の辺りでぴたっと止まった。手をつないでいることに、ようやく気がついたらしい。度の強そうなメガネの奥の目が大きくなっている。どうやら、びっくりしているようだ。
──もしかして、本気で青島と僕が付き合ってると思ってた──っていうか、今も思ってたりして──?
 ようやく「この方は?」と口にした佐古田先生に向かって、透は「お付き合いしている方です」と紹介した。
 穂花ちゃんが、ぺこりと頭を下げる。佐古田先生が、口をぱくぱくさせた。何だか面倒くさそうな人だ。こういう人とは深くかかわらないに限る。とはいえ、誤解はきっちり解いておきたい。
 戸惑う穂花ちゃんの肩を抱いて親密さをアピールしつつ、その場に佐古田先生を置き去りにして、さっさとエントランスに入った。

   ***

 鶏肉、たまねぎ、ローリエ、黒胡椒、赤ワイン。それから、ソーセージ、玉子、ヨーグルト──。
 スーパーの袋から買ったものを取り出し、調理台の上に置く。ローリエを買ったところを見ると、コック・オーヴァンというのは、煮込み料理らしい。
「学校が始まった途端に、この遭遇率って何なのかな」
 朝食用だと思われる食材を冷蔵庫にしまいながらつぶやくと、エプロンのひもを結ぼうとしていた穂花ちゃんが不安そうに目を上げた。
「わたし、一緒にいたの、まずかったですか?」
「いや、単に驚いてるだけ。こんなに次々に学校関係者に会ったのって初めてだったから」しまった、と思いながら、安心させるように笑ってみせた。「全然まずくないよ」
 というより、考えてみれば、むしろいいタイミングだった。
 女子生徒、男子生徒、教師──。完璧な取り合わせに、ほくそ笑む。これで、決まった相手がいるという噂が、いい具合に流れるに違いない。そうすれば、きっと落ち着いた生活が送れる。もうトラブルはこりごりだ。
「学校でおこられたりしない?」
 穂花ちゃんは、まだ気にしている。
「しないよ。人に見せられないような、ものすごいことをしてたわけでもあるまいし」
 わざと際どい言い方をすると、「もう」と困ったように言って口をとがらせた。
 その顔をのぞき込み、軽くキスをする。背中に手を回すとエプロンのひもが指に触れた。もっと困らせてみたくなって指先で引っ張ったら、するっとほどけた。
 エプロンとか、キッチンとか、そういうベタなシチュエーションも楽しい。煩悩だらけの自分には呆れるけれど、身を委ねてみるのも悪くない。
「ちょっと──」
 あわてる穂花ちゃんに、顔を寄せた。下からのぞき込むようにして、今度は長めのキスをする。エプロンと服の間に手をすべらせて、腰の細さを楽しんでいたら「何してるんですか」と抗議された。
「減ってないかどうか、確かめてる」
「は?」
「佐古田が──」
 思わず呼び捨てにしてしまった。密告電話があった時の職員室の冷ややかな空気にもまいったが、それ以上に、今日の態度が腹立たしい。人の大事な彼女に対して、ぶしつけにもほどがある。
「じろじろ見るから、大事な穂花ちゃんが減っちゃったんじゃないかと心配で──」
「減るわけないじゃないですか」
 彼女が呆れたように言う。
「そう? 確かめていい?」
「ダメ」
「ちょっとだけ」
「ダメです。今から、ごはんです」
 きっぱり言われてしょぼんとしたら、穂花ちゃんが「仕方ないですね」と言って、ちょっと恥ずかしそうに「あとでね」とささやいた。
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