【番外編】 「ある日の職員室」 by くろきん

文字数 6,707文字

注:「くろきん」は、こんな人
 ・本名は「黒木瑤子(くろきようこ)」
 ・堀川高校第2学年の学年主任
 ・びしばしと厳しい英語教師
 ・黒縁メガネがトレードマーク
 ・百瀬とは「くろきん」「モモ」と呼び合う仲・・・らしい

   *****


 九月一日というのは、空気の色が違う。
 夏休みの補習授業の気怠さが一掃され、ざわざわした活気が学校全体を覆っている。その中に潜む、青みがかった緊張感──。新しい学期が始まった日の、このぴんと張りつめた空気が好きだ。
 黒木瑤子は、職員室の右奥にある自席で、パソコンの画面から目を上げ背筋を伸ばした。
 始業式が終わり放課後になっても、職員室には生徒たちがひっきりなしに出入りして、教科について質問したり、部活の顧問と打ち合わせをしたりしている。
 二学期に入って三年生はいよいよ本格的な受験態勢に入るし、二年生は部活の主役を引き継ぐことになる。どちらの表情もさすがに引き締まって見える。でも、何にでも例外というものはある。
「だって、分かんないんだもん──」
 拗ねるような甘い声が聞こえて、瑤子は向かいの席に目を遣った。そこでは、三年の小南麻帆が、国語科の二ノ宮先生の上にかがみこむようにして、持参した問題集を広げていた。
 実は、瑤子は、青島の件で職員室に密告電話をかけてきたのは、この小南じゃないかと疑っているのだが、証拠はない。
 小南の長い髪が、二ノ宮先生の手元に落ちている。そして、なぜか制服のリボンが外されている。座っている二ノ宮先生の目の高さを意識してのことに違いない。学習に対する意欲よりも、もっと別の動機があるのがありありで、ため息が出そうになった。
 若さというのか何なのか、こんなあからさまな迫り方ができるのは、ある意味すごい。そして、二ノ宮先生が、まったく状況に動じずに、淡々と動詞の下二段活用について解説しているのが、さらにすごい。
 二ノ宮先生は、もともとほわんとしたところがあるし、もしかすると気づいていないだけかもしれない。もしくは、意外にドライなところもあるようだから、気づいていて知らん顔をしている可能性もある。
 どっちにしても、ここまで完全にスルーできるのは、さすがとしか言いようがない。比べること自体かわいそうな気もするが、例えば、これが佐古田だったら、とてもこうはいかないだろう。
──まあ、佐古田もアレだからね。
 瑤子は、心の中でつぶやいて、パソコンの画面に視線を戻した。そのまま、英熟語の教材の作成に戻る。授業の初めに行う予定の三分間テストだ。全部で二十問。そのうちの十問は、テキストの中からあらかじめ予告したものを並べるだけだが、残りの十問は、フリーで出題することにしている。
 瑤子は、佐古田の顔を思い浮かべながら、熟語を追加した。
<get on one’s nerves (神経を逆なでする)>
 二年生にはハイレベルすぎるだろうか。まあ、英訳じゃなくて日本語訳のテストだから、いいか。
「ほかに質問は?」
 二ノ宮先生の穏やかな声が聞こえた。
「えっとー」
 小南が、ちょっと戸惑った様子で言いながら、可愛らしく首をかしげてみせた。
 もともと質問に来たんじゃなくて、二ノ宮先生に会いに(迫りに?)来たんだろうから、こんなふうに正面から「質問は」と聞かれても困るだろう。分かって尋ねているんだとしたら、二ノ宮先生も意地悪だ。
「特にない? じゃあ、また質問があったら来てください」
 二ノ宮先生は、めずらしくはっきり言って、さっさと話を切り上げた。それから、いかにも「仕事がある」という体で資料を広げ始める。
 やはり、分かった上でやっているらしい。小南が「一体どうしちゃったの?」という顔できょとんとしている。
──最初から、そうしておけばよかったのに。
 瑤子は心の中でつぶやいた。
 大体、二ノ宮先生は女子生徒に振り回されすぎだ。面倒なことになるのはイヤだと思っているのがありありで、無難にやり過ごそうと適当に相手をしてしまった結果、余計に面倒なことになるという悪いパターンの典型だ。
 小南は、二ノ宮先生の背後で、不満そうに唇をとがらせた。でも、肝心の相手は、すでに次の作業に取り掛かっていて振り返る気配すらない。
小南があきらめた様子で戸口に向かって歩き出したところで、さっきから瑤子の頭をちらちらとかすめていた人物が登場した。
──出た。
 佐古田だ。瑤子は眉をひそめた。
 佐古田は、小南がまだ近くにいるのにも気づかない様子で、一直線に二ノ宮先生に向かってきた。小南が、机の間の狭いスペースで佐古田とすれ違い、何事だろうという顔で立ち止まる。
「ちょっといいですか」
 すぐ横からいきなり声をかけられて、二ノ宮先生が目を上げた。椅子に座ったまま、体を少しよじるようにして佐古田を見上げる。
「──はい? 何か?」
 怪訝そうな表情を隠そうともしない。
 そりゃそうだろう、と瑤子は思った。何と言っても、青島の一件がある。
 佐古田が職員室で大騒ぎをし、電話の内容を誰かれ構わずべらべらしゃべったせいで、二ノ宮先生は、教師仲間から余計な注目を浴びるはめになった。疑いが晴れた後も、しばらくは居心地が悪かったはずだ。佐古田は、ちゃんと二ノ宮先生に謝ったんだろうか。
──この様子じゃ、謝ってないよねえ、きっと。それどころか、迷惑をかけたことにすら、気づいていないかもしれない。──だって、佐古田だもの。
 瑤子は、ひらめいた表現を小テストに追加した。
<lack of thought (思慮のなさ)>
<cause trouble for (迷惑をかける)>
 佐古田が二ノ宮先生の顔をじっと見ている。二ノ宮先生の眉間にしわが寄った。互いに見つめ合う──というより、もはや睨み合っている。
 佐古田はともかく、人当たりがよくて事なかれ主義の二ノ宮先生までもが珍しい。もしかして、職員室での騒ぎ以外にも、この二人の間で何かあったんだろうか。
 瑤子の指が勝手にキーボードを叩いた。
<break out ? (勃発?)>
──しまった、テスト問題にクエスチョンマークはいらないんだった。
 あわてて、ぽちぽちと削除する。
 沈黙する二人──。職員室の隅で起きている事態に周囲の注目が集まり始めた。教師に加えて小南もじっと見ている中で、佐古田がぽつりと言った。
「──先生の彼女、かわいいですね」
 周囲がざわっとした。
──二ノ宮先生に彼女!
 着任以来三年間、女子生徒による男性教師の人気投票で不動の一位(モモからの情報)を誇る二ノ宮先生、少しほわんとしたところも「かわいい」と評されてしまう二ノ宮先生に、彼女が──!?
 そんな心の叫びが聞こえてきそうだ。
 瑤子に関しては、前に本人の口から「意中の人がいる」という話を聞かされていたし、二ノ宮先生がそうそう振られるとも思えないから、付き合い始めたと聞いても別に驚きはしない。でも、小南を含め、この場にいる他の女性にとっては晴天の霹靂かもしれない。
 今や、佐古田と二ノ宮先生の会話に職員室中が聞き耳を立てている。漂う緊迫感に全く気づかない様子で、二ノ宮先生は言い放った。
「ええ、かわいいですよ。それが、何か?」
 瑤子の隣から「ちっ」と舌打ちが聞こえた。思わず振り向くと、清楚でお花のようにかわいらしい家庭科の先生とばっちり目が合った。互いに気まずい思いで目を逸らす。
「──僕のですからね」
 二ノ宮先生の冗談めいた口調に本気がにじんでいた。
 話の流れからすると、佐古田と二ノ宮先生の彼女はどこかで顔を合わせたらしい。そして、二ノ宮先生は佐古田を警戒している。
 まさか、この佐古田を相手に予防線を張ろうとしているんだろうか。二ノ宮先生と佐古田とじゃ、そもそも勝負にすらならないだろうに、自覚のないイケメンって怖い。少しだけ佐古田がかわいそうになった。
<losing game (勝ち目のない戦い)>
 またもや指が勝手にキーボードをたたく。
 佐古田は黙ってうつむいていたが、青白い顔をきっと上げて二ノ宮先生をにらんだ。
 よく見ると握りしめたこぶしが身体の脇で震えている。その尋常でない様子に、二ノ宮先生の隣であっけに取られて見ていた新沼先生の喉が「ごっくん」と動いた。小南が戸口に向かって一歩後ずさる。
 瑤子の心臓がどきんと跳ねた。
──もしかしてこれは、やばい? 
 佐古田の横恋慕だか何だか知らないが、よもや乱闘に発展──。
──それは、まずい。
 瑤子は学年主任としての自分の立場を思い出した。職員室で乱闘だなんて、とんでもない。何とかして収めなければ。
「ちょっと──」
 椅子から腰を浮かし、二人の会話に割って入ろうとした時、佐古田がうめくように言った。
「どうやって、つかまえたんですか──?」
 瑤子も含めて、周囲にいる全員が動きを止めた。二ノ宮先生の戸惑い切った声が響いた。
「──はい?」
 佐古田が、ばっと顔を上げる。その目が血走っていて、かなり怖い。
「見た目ですか? 顔ですか、身長ですか? 全部ですか? やっぱり、二ノ宮先生みたいだとモテるんですか?」
「いや、別にモテては──」
 戸惑う二ノ宮先生に、佐古田がぐいぐいと迫っていく。
「モテてない? 嘘だ、モテてるじゃないですか! 生徒にも彼女にも。何ですか、あの彼女。どうやってつかまえたんですか。見た目じゃないなら、何ですか。テクニックですか」
 迫力に押されて、二ノ宮先生が椅子ごと後ずさっていく。
「いや、あの、テクニックって、何──」
「僕が知りたいですよ。何かあるなら教えてくださいよぅ!」
 後ろの壁に、どん、と背もたれが当たり、二ノ宮先生の椅子がとまった。
「ええと──」
 壁際に椅子ごと追い詰められて、二ノ宮先生が戸惑っている。
 小南がつぶやいた。「何、このときめくシチュエーション」
──小南! あんた、意外と分かってるじゃない。
 瑤子は思わず叫びそうになって、あぶないところで飲み込んだ。これまで小南の素行の派手さばかりが目についていたが、意外に面白いやつなのかもしれない。
「髪──」
 佐古田が、二ノ宮先生の頭を凝視している。
「髪? 僕の?」
 二ノ宮先生が、おそるおそる聞き返した。佐古田がうなずく。
「どこで切ってるんですか」
「ええと、別に普通の店ですが」
 いつになく強気な佐古田を見つめたまま、二ノ宮先生が返事をする。どうやら、相手の妙な迫力に押されて、目がそらせないらしい。
「どこですか!」
「自宅の近くで──」
「店の名前は!」
「あー、何だったっけ。えーと」
 二ノ宮先生が視線をさまよわせた。もともとこだわりがないものだから、そもそも覚えていないのだろう。困り果てている。
 瑤子は、ふうっと息を吐きだし、椅子に腰を下ろした。乱闘の危機は去った──というか、もはや、ものすごくどうでもいい会話になっている。
「すみません、覚えてません」
 瑤子は、キーボードをポチポチとたたいた。
<at a loss (途方に暮れる)>
 佐古田が「今度、見てきてください」と言い、二ノ宮先生が「はい」と答える。
「じゃあ、服は? どこで買ってるんですか?」
「服? 普通に、そこらで」
「そこらって、どこですか」
「街なかで、通りすがりに。ああ、あと、たまにショッピングモールとか?」
「嘘だ」
 二ノ宮先生が、さすがにむっとした声を出した。
「嘘なんかつきませんよ」
「本当はブランド物ですよね。でなきゃ、そんなに恰好よくなるはずがない。隠すんですか。他人に教えたくないんだ!」
 服ではなく中身の問題だと思うが、佐古田は分かっていないらしい。
 瑤子の隣から、小さな声が聞こえた。
「二ノ宮先生の行きつけのショップ──」
 見ると、家庭科の先生がメモ用紙を前に鉛筆を握りしめている。反射的に小南を確認すると、そっちはそっちで、スマホを手に二ノ宮先生の答えを待ち構えていた。
 二人の目がきらきらしている。獲物を狙うハンターの目だ。
──さっき、彼女いるって、はっきり聞いたじゃん。
 肉食系女子って、こんなやつらを言うんだろうか。佐古田だけでもうっとうしいのに、二ノ宮先生もかわいそうに。
<find it annoying (うっとうしく思う)>
「ベルトとか財布とか、いつも、よさそうなのを使っているじゃないですか」
 なおも言い募る佐古田に、二ノ宮先生がほわんとした口調で答える。
「ああ、小物と靴は大体同じ店かなあ」
「教えてください」
「別に高級ブランドとかじゃないですよ」
「いいですから」と詰め寄られて、二ノ宮先生が考え込んでいる。
「えーと」
 またもや思い出せないらしい。佐古田とは別の意味で困った人だ。
 日ごろの言動から見ても、頭がいいのは間違いない。それに、源氏だとか宇津保だとか、好きなものについてはいくらでも記憶しているくせに、この人の頭の中は一体どうなっているのか。ものすごく疑問だ。
「靴は、何だっけ、えーと、店の場所は分かるんだけど、名前は──」
<be not within one's recollection (記憶にない)>
 リターンキーを押してから気が付いた。いつの間にか問題数が五十を超えている。三分間テストなのに多すぎだ。
 目の前では、佐古田と二ノ宮先生のよく分からない会話が延々と続いている。
「じゃあ、地図をかいてくださいよ」
 佐古田が、二ノ宮先生の机から勝手にメモ用紙とボールペンを取って、相手の手に押し付けた。
「地図っていうか、県庁通りの端っこの──」
 二ノ宮先生は、さすがに面倒くさそうだ。
「僕は、方向音痴なんですよ」
 佐古田が堂々と主張する。
<the navigationally challenged (方向音痴)>
──問題数が多すぎるんだってば! 増やしてどうする、私。
「隠すんですか? ちゃんと書いてくださいよ」 
 佐古田はしつこく食い下がっている。そろそろ話を切り上げて、席に戻ってほしい。
「隠したりしませんよ」
──ああ、もう、うっとうしい!!
 ぐるぐるする会話に耐えかねて、瑤子は自席で立ち上がった。がたん、と椅子が音を立てる。佐古田と二ノ宮先生が、そろって瑤子を見た。
 瑤子は、二ノ宮先生に代わって、低い声で佐古田の質問に答えた。
「──コールハーンです」
「は?」
「コールハーン。二ノ宮先生の靴」
 二ノ宮先生が、すっきりした顔になった。
「ああ、そうでした。なんか、そんな名前。足に合っているみたいで、履きやすいんですよ。詳しいですね」
「見れば分かります」
 コールハーン、コールハーン──とつぶやきながら、佐古田がメモを取る。家庭科教師と小南も揃ってごそごそ書いている。
「じゃあ、小物は?」
「ええと、何だったっけ──」
 こいつらは、まだ続けるつもりか?
 瑤子はぴしゃりと言った。「ポール・スミスです」
「あー、そうでした。ありがとうございます」
「じゃあ、シャンプーは──」
 佐古田の言葉を聞いた瞬間に、頭の中で「ぶっちん」と音がして、堪忍袋の緒が切れた。
「佐古田先生」
 言いながら佐古田の顔を見る。鈍い佐古田にしては珍しく、不穏な気配を察したのか、一歩後ずさった。
 瑤子は、すうっと息を吸い込み、それから一息で言葉を吐き出した。
「他人は他人です。人ばかりあてにしないで、自分が使うものくらい、自分で選びなさい。情けない」
 続いて、二ノ宮先生に目を遣った。
「それから、二ノ宮先生」
「はい」
「佐古田くらい適当にかわしなさい」
──あ、呼び捨てにしてしまった。
 ちょっとだけ「しまった」と思い、すぐに「まあいいか」と開き直る。どうせ佐古田だ。
「大体、靴も財布も毎日使っているくせに、なんで覚えていないんですか。ほわんとしているにも程があります。そんなだから、なめられるんです」
「すみません──」
 瑤子は、ふん、と鼻を鳴らした。それから、この不毛なやり取りの終結を宣言した。
「分かれば、よろしい。では、これで終了です。解散!」
 パチパチパチパチ。
 職員室のあちこちから、ぱらぱらとした拍手が聞こえてきた。

   ―「ある日の職員室」・終―
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