Chapter 5 水色の空

文字数 8,679文字

 どうやら、また夢を見ているらしい。
 水辺に、誰かがたたずんでいる。白いシャツを着た背中。男の人だということは分かる。あれは誰だっけ、と思う。
 彼が、半分だけ振り返った。顔は見えない。ゆっくりと片手を上げ、穂花に向かって、ここにおいで、というように優しく手招きをする。
 その手の動きに誘われるようにふわふわと歩いて、彼の隣に立った。
「また会ったね」
 穏やかな声が心地いい。どこかで聞いたことがある気がするけれど、思い出せない。
「ほら、あそこ──」
 彼が指さした先に、白い蓮の花が咲いている。
「きれいですね」
 言いながら、隣に立つ人を見上げた。
 !!!
 その瞬間に、いろんなことを思い出した。
 サラサラの髪の女子高生。腕にからむ細い手。またね、と言いながら、彼女を追って去っていく後ろ姿。
──最低最悪のカメ男!!!
 怒りが湧き上がってくる。同時に、なぜか悲しくなってきた。でも、今日は泣かない。絶対に泣かない。
 穂花は、きっと顔を上げて宣言した。
「もう、夢に出てくるのはやめてください。迷惑です」

   ***

 自分で自分の口調の強さにびっくりして目が覚めた。
 部屋の中は、まだ薄暗い。一瞬、どこにいるのか分からなくて、あせる。それから、ちゃんと自分の部屋で寝ていることに気がついて、ほっとしたような淋しいような、よく分からない気持ちになった。
 昨日の夜、あの暗がりで、森さんは、ただ穂花を優しく抱いていた。嗚咽が収まると、そっと顔をのぞき込み「ひでえ顔」と言いながら、ハンカチで涙をぬぐってくれた。
 ひどい顔になったのは、あなたのせいなんですけど──。
 そう思ったけれど、何かしゃべったらまた涙が止まらなくなってしまいそうで、何も言えなかった。
 森さんに手を引かれて、バス通りまで歩いた。そこで彼はタクシーを拾い、穂花を乗せて、この部屋の前まで送ってくれた。
 正直、昨日は、自分でも何が何だか分からなくなっていて、もうほとんど「わたし、流されかけてまーす」と言っていい状態だった。
 あそこまで来てしまったら、つけこもうと思えば、いくらでもつけ込めただろう。森さんが部屋に上がろうと思えば上げてしまっただろうし、森さんの足が向かった先がホテルか彼の部屋だったなら、今ごろ隣で森さんが眠っていたかもしれない。
 何をふらふらしてるんだろう、わたし。昨日の体たらくを思い出すと、情けなくなる。
「友達だ」と言いながら、隙を見せて、迫られて流されそうになって、最後は泣いて終わり。ついでに、今朝の夢は、なぜだかカメ男。
 困った女だと思う。そして、森さんが傷つかなかったはずがない。でも──。
 自分に言い訳をしてみる。
 あの森さんにあんな目に合わされたら、あんな状況に陥ってしまうのは、穂花だけじゃないはずだ。
森さんが本気でいろいろと上手らしいということも、知りたかったわけでも何でもないのに、身をもって知ってしまった。次に同じようなことがあったら、多分、「目が覚めたら隣に彼が」のコースをまっしぐらだ。
 そんなことには、なりたくない。とにかく、これ以上、近寄らないようにしなければ。わたしのためにも、森さんのためにも──。

   ***

 外は晴れていた。頭上に、きれいな水色の空が広がっている。
 雨は嫌いなくせに、今日みたいにジメジメした気分の日に晴れていたらいたで、なんだか裏切られたような気になる。我ながら、かなり勝手だ。
 いつものようにバス停まで歩き、いつものバスに乗った。いつものつり革に落ち着いて、何気なくバスの中を見渡すと、例の女子高生が乗っていた。サラサラの髪が、今日もきれいだ。
 彼女を見た瞬間に、二度と思い出したくないと思っていた顔を思い出してしまった。桜田橋の上で、この子を待っていた彼。この子に手を取られて歩き出す後ろ姿。
──今日も、待ち合わせをしてるのかな。二人で手をつないで歩いたりするのかな──。
 なぜだか、ものすごく嫌な気分になった。心の中に、黒い雲がもくもくと広がっていく。
 つり革にぶら下がりながら考える。
彼が誰と付き合っていようと、ついでに、何人彼女がいようと、穂花には何の関係もない。なのに、こんな気分になってしまうのは、出会った時のシチュエーションが普通と少し違っていたからだ、きっと。
 霧のような雨。水の上に頭をもたげた、たくさんの花──。あの朝、現実離れした風景の中で「またね」なんて言われて、何か特別なことが起きたような気になってしまっていた。要は、いい気になっていたに違いない。
 いい年をして、誰にでも言っているだろう言葉を真に受けるなんて、ばかみたいだ。
穂花は、彼女の姿を横目でうかがった。
 紺色のブレザーとチェックのスカート。間違いなく、お堀の向こうの高校の制服だ。堀川高等学校。実に覚えやすい名前だ。結構な進学校で、自由な校風で有名だが、こんなメイクもOKなんだとしたら、すごい。
──この子は、浮気されてること、知ってるのかな。
 昨日顔を合わせた、細い腕の女の子を思い出す。夜の街で当たり前みたいに彼にくっついていた。あの堂々とした様子は、もしかすると浮気じゃなくて、あっちが本命なのかもしれない。
 それどころか、穂花にも気軽に声をかけてきたところをみると、三人目、四人目がいたっておかしくないし、誰とでも平気で遊ぶのかもしれない。そんな男だと知らずに付き合っているんだとしたら、この子がかわいそうだ。
 気が強い子なんだろうというのは見て取れるし、個人的に好感を抱けるタイプじゃないけれど、それとこれとは別だ。こんなに若い子をもてあそんでいるんだとしたら、あのカメ男、ひどすぎる。
 もっともらしく腹を立てながら、胸の奥が、なぜかちくんと痛んだ。

   ***

「おはようございまーす」
 声だけは元気に、朝の事務室に足を踏み入れた。
 頓田係長が、自分の席に座ったまま目を上げて、何となく怯えた表情で「お、おはよう」と返事をした。
 そう言えば、いろいろあってすっかり忘れていたけれど、昨日は、我ながらいろいろとテンションが変で、係長に冷たくしてしまったんだった。係長、ごめんなさい。
 始業まで少し時間がある。まずはお茶でも飲もうと、事務室の隅の給湯コーナーに足を踏み入れた。職員は、ここで、それぞれ自分の好きなものを淹れることになっている。
 パンダ柄のマグカップに日本茶のティーバッグを入れていると、美保さんが隣に立った。「おはよう」と言いながら、食器棚から自分のジノリのカップを取り出し、すでにポットに入っているコーヒーを注ぐ。
 美保さんは、穂花をちらっと見て言った。
「あら、穂花ちゃん、ちゃんと着替えてきたのね。朝、ばたばただったでしょう?」
「はい?」
 何のことか分からなくて、穂花は眉根を寄せた。美保さんが「見たわよ、昨日」と思わせぶりにささやき、さわやかな朝にはおよそ似つかわしくない妖艶な微笑みを浮かべた。
 ぶわっと嫌な汗が噴き出たような気がした。見たって、何を? まさか、柱の陰で起きた、諸々のことですか──?
「あの、それは──」
 言いかけた穂花の言葉を最後まで聞かずに、美保さんが楽しそうに言った。
「手をつないで歩いてたじゃない。王子様と」
 なんだ、そっちか。もっと強烈な場面のことかと思った。
 ほっとした直後、見られたのが別の場面だったことに比べればマシだというだけで、それ単独で見れば、そうほっとできる状況でもないことに気がついた。ちゃんと否定して、誤解をといておかなければ。
「あれはですね、ちょっとしたなりゆきです。別に何でもありません」
 美保さんが「そうなの?」と不審そうに言う。
 不審に思う気持ちは分かる。でも、あれは、大人が泣いている子どもの手をひいて歩いていたようなものだ──と自分に言い聞かせる。
 美保さんは、若干疑わしそうな目で「残念」と言った。「桑田君も『これでやっと森が落ち着いてくれる』って喜んでたのに」
「桑田係長も一緒だったんですか?」と聞くと「デートの帰り」と嬉しそうに言った。
 くっきりときれいな二重の目が、穂花を見る。視線が、穂花の首のあたりでとまって動かなくなった。
「どうかしました?」
 あまりにもじっと見つめられて、居心地が悪くなって尋ねると、美保さんは小声で「今日の服だと目立つかも」とつぶやいた。
「え?」
「バンドエイドだと、いかにもすぎよね。サロンパスの方がいいかも。ロッカーにあるよ。あげようか?」
 訳も分からないまま引っ張っていかれたロッカールームで鏡を見せられた途端に、穂花は「ぎゃー」とかわいくない悲鳴を上げた。耳の下の方、肩に近いあたりに、見間違えようのない赤いアザが残っていた。
「ほんっとに、何にもなかったんです」
 すがるような目で言い募る穂花に、美保さんは、全然信じていない口調で「はいはい」と答えた。
 自分のロッカーを開け、上の方に手を伸ばしてサロンパスの箱を取り出す。頭痛薬だのバンドエイドだのはもらったことがあるけれど、こんなものまで常備しているとは知らなかった。
 箱の中から一枚取り出して、穂花に「どうぞ」と差し出す。
「ありがとうございます。美保さん、こんなのまで置いてるんですね」
「何かと便利よ。足がむくんだ時とか、あと、こんな時にも使えるじゃない? 困っている後輩にも使ってもらえるし」思わせぶりに穂花を見る。「貼ってあげよっか?」
「い、いいです、いいです」
 あわてて言って、さっと受け取った。そそくさとフィルムをはがす。とにかく、さっさとこの場を切り上げてしまおう。
 鏡を見ながら、首を傾けて貼るべき場所を確認した。うわあ、と改めて思う。誰がどう見ても、これは、あれだ。朝は、正面からしか鏡を見なかったから気がつかなかった。美保さんに教えてもらえて助かった。
「森王子、よかった?」
 ぺたっと貼って押さえていたら、横から美保さんが言った。あわわわわわ。朝から話題が過激すぎます。
「知りません。そういうこと、してませんから」
「今さら隠さなくても、誰にも言わないのに」美保さんは、意外と強情ねえ、とため息をついた。「ああいうタイプって、どんな感じなのか、興味あるなあ。今度聞かせて?」

   ***

 一般に、高齢の方は朝が早いというけれど、本当かもしれない。
 美保さんと「誤解です」「隠さなくてもいいのに」という会話を繰り返しながら事務室に戻ると、すぐに電話が鳴った。
一回目のコールで、頓田係長がさっと受話器に手を伸ばした。係長が自分で電話を取るのを見たのは初めてだ。昨日の穂花が本気で怖かったのかもしれない。明らかにびくびくしながら、「キンジロウさんから」と言って取り次いでくれる。
 二ノ宮さんの下の名前は、係長の中で「キンジロウ」に確定したらしい。まあ「レンコンおやじ」よりはましかもしれない。
──おはよう。朝から、すまないね。今、大丈夫だった?
 いつもと同じ、ほんわかした口調で言った二ノ宮さんに、穂花は「ご連絡ありがとうございます。大丈夫です」と答えた。
──カメの被害状況、どうだった? 蓮、もう、かなりやられちゃってるみたい?
 穂花は、桑田係長からの聞き取りメモを手に取った。
『カメの個体数は不明。確認済みは二十匹。本格調査は検討中』
『目視の範囲では、植物に明らかな被害はなし』
『高校前の蓮の群生が例年より少なめか? カメとの関連は不明』
 メモの内容を二ノ宮さんに伝えると「そうかあ」と心配そうな声が返ってきた。
──堀川高校の前の蓮、少ない気はしてたんだよね。天候のせいかと思ってたけど、やっぱりカメが原因なのかなあ。あの品種は、貴重なんだけどねえ。
「お堀で一番古いって聞きましたけど、本当ですか?」
 そのことを教えてくれた男のことは思い出したくもないが、この穏やかな高齢の方には関係ないことだ。
──そうそう。穂花ちゃん、よく知ってるねえ。
 ほめられて素直に嬉しくなった。二ノ宮さんと話していると、何だか沈んだ気分が上向いていくような気がする。
「高校前の蓮はねえ」と二ノ宮さんは言う。何だか得意そうだ。「実は、江戸時代以前のものかもしれないんだよ。あまり知られてないけどね」
「そうなんですか」
 びっくりした。そんなに古いとは思わなかった。あのお堀は、一体いつからあるんだろう。今まで、お堀にもお城にも注目したことがなかったことに気づく。仕事上も知っておいた方がいいかもしれない。
──それにしても心配だなあ。
 二ノ宮さんが、ため息をついた。
「そうですねえ」
 穂花も、ため息をつく。この数日で、蓮のことも、カメのことも、他人事とは思えなくなっていた。
 それから「いかんいかん」と思い、背筋を伸ばした。相手はお客様だというのに、どうも緊張感がないというか、茶飲み友達っぽくなっている気がする。
──ねえ、穂花ちゃん。
「はい?」
──カメが見つかったのって、どの辺り? 桜田橋のとこにもいるのかな。あの辺に咲いてるのは“金輪蓮”って言ってね、品種としてはそんなにめずらしくないけど、僕、大好きなんだよ。
 あの美しい風景が脳裏に浮かんだ。二ノ宮さんの気持ちが、すごくよく分かる。
 同時に、「金輪蓮」という花の名を教えてくれた人のことを思い出し、急いで頭から振り払った。何であのきれいな風景とカメ男をいちいちセットで思い出さないといけないのか。あー、やだやだ。
「カメが確認された場所、分かりますよ」と言うと、二ノ宮さんが、「どこどこ?」と電話口で勢い込んだ。
 穂花は、森さんに教えてもらった場所を一つひとつ説明していった。
「堀川高校の正門前と、そこから北に行ったところの道路沿い。あとは、桜田橋から南に行って──」
 二ノ宮さんは「喫茶店の向かいあたり?」とか、「松の木が生えてるところかな?」とか確認しながら聞いていたが、最後に言った。
──申し訳ないんだけど、よかったら、現地で教えてもらえないかなあ。
 穂花は、返事に詰まった。確かに、電話では分かりづらいかもしれないとは思うけれど、個人の興味で問い合わせをしてこられた方といきなり外で待ち合わせるというのは、どうなんだろう。
 どうしたらいいか困っていると、穂花の立場を察したのか、二ノ宮さんが優しく言った。
──今、課長はいるのかな?
「はい、おります」
 この人になら構わないだろうと判断して、正直に答えた。
──聞いてみてごらん。二ノ宮っていう年寄りが、現地で説明してほしいって言ってるけど、構わないかって。
 一瞬とまどったものの「少々お待ちください」と言って電話を保留にした。藤田課長の方を振り向く。頓田係長が、何か察したのか、心配そうな顔で見ている。
「課長、すみません」と声をかけると、課長が書類から目を上げた。「二ノ宮さんとおっしゃる方から、今、お電話をいただいていまして」
 課長は、うなずいた。
「蓮の件だね」部下が対応している案件は、ちゃんと頭に入っているらしい。「どうかしたの?」
「現地で説明してほしいとおっしゃってるんですが、行ってきてもいいでしょうか」
 頓田係長が、ますます心配そうな顔になった。意外に部下思いなのかもしれない。
 穂花の予想に反して、課長はあっさり言った。
「構わないよ」
「え?」と頓田係長が驚いた声を上げた。「いやいや、課長、いきなり一人で外に会いに行くっていうのは、職員の安全上もどうですかね? ワタシが行きましょうか?」
 そんなことを言ってくれる人だとは思っていなかったので、びっくりした。
 課長が頓田係長に向かってにっこりし、それから穂花に言った。
「大丈夫だから、行っておいで」
「課長、もしかして、二ノ宮さんとお知り合いですか?」
 穂花は、ずっと気になっていたことを口にした。課長は、その質問には答えなかったが、目の奥にいたずらっぽい笑いが浮かんでいるような気がした。
「──分かりました。行ってきます」
「ちょっとちょっと、穂花ちゃん──」
 なおも心配そうに言い募る頓田係長に「ありがとうございます。大丈夫です」と頭を下げ、穂花は、受話器を取り上げた。

   ***

 二ノ宮さんとは、桜田橋の上で三時に待ち合わせることになった。
──どんな人なんだろう。
 緊張はするけれど、少し楽しみでもある。
本人から聞いた年齢と、あの穏やかな話し方から、穂花は勝手に、白髪で眼鏡をかけた小柄な方をイメージしていた。そのイメージが当たっているかどうかは、もうじき分かる。
 出かける前に、いくつか抱えている仕事を片付けておくことにして、パソコンに向かった。
 キーボードをたたいていると、時々、肩のあたりからサロンパスがふわりと香る。そのたびに、昨夜のことが思い出されて、ジタバタしそうになる。
──森さんのバカ。
 穂花は、心の中で悪態をついた。
 この仕打ちにどう対応すればいいのか分からない。こんな印をつけられたことに対しては、当然怒っていいし、抗議すべきだと思うけれど、その一方で、森さんに申し訳ないという気持ちもあって、逆に罪悪感を覚えてしまう。
 両方を相殺してチャラ、というのが現実的な気がするけれど、甘いだろうか。
 それにしても、無理やり迫られた被害者はこっちなのに、なんで穂花が悩まなければならないのか、理不尽だ。
──とにかく、森さんにはしばらく会わない方がいい。
 穂花は、そう結論を出した。そうすれば、いずれ、お互いに平静に戻れるに違いない。「県政だより八月号」の最終校正が今日までだったので、出かける少し前に、十三階の広報室に持っていった。
 前回入れた赤字は、一つの漏れもなくきれいに修正されていた。係長が「怖くて眠れない」という妙なコメントを入れたイラストまで、ちゃんと修正してくれていたので、びっくりした。
 広報室の担当者にお礼を言って「修正なし」と朱書きした原稿を返却する。互いに「お疲れさまでした。来月もよろしくお願いします」と声をかけ合って、気分よく部屋を出た。
 足取りも軽くエレベーターホールに足を踏み入れたところで、穂花は、ぴたりと足を止めた。
森さんがいた。
 打ち合わせにでも行くところなのか、分厚いファイルとノートを抱えている。
 しまった、と思うものの、今さら引き返す訳にもいかない。「しばらく会わずにいよう」と思ったばかりなのに、いきなり会ってしまうなんて、運がないにもほどがある。
──このエレベーターホール、この間から、呪われてるんじゃないかな。
「呪いのエレベーターホール」。ホラー映画のタイトルみたいでいいかも、と思う。脳が、この場の状況について真面目に考えるのを拒否しているのかもしれない。
「──穂花」
 名前を呼ばれて、びくっとした。森さんが、まっすぐこっちを見ていた。
「何でそんなに離れてるんだよ」
 二人きりの薄暗いエレベーターホールに、森さんの声が静かに響く。
「離れてなんかいないですよ」
 我ながら白々しい。森さんと穂花の間は、どう見ても三メートル以上は離れている。
「あからさまに警戒すんな。こんなとこで何かする訳ないだろ?」
──そうですか。
 穂花は、心の中で言って、おとなしく森さんの方に近づき、一メートルほど離れたところに並んで立った。
 森さんが、穂花の首に目をとめた。
「それ──」
「何ですか?」
「──悪かったな」気まずそうに言う。森さんが、こんなに素直に謝罪を口にするのを初めて聞いた。「嫌だって言ったのに、悪かった」
 その言葉が、胸にずしんときた。森さんの淡々とした言葉がつらい。
「わたしこそ──」
「謝んな。余計みじめになる」
 エレベーターはなかなか来ない。二人で並んで階数表示を眺める。「2」という数字が点灯している。まだ低層階をうろうろしているようだ。
「でも、襟で隠れる位置につけたのに、何で今日はわざわざそんな服なんだよ」
 森さんは、眉間にしわを寄せて、穂花の襟なしのサマーセーターを眺めた。
「出勤してから気がついたんですよ」と言ったら、ため息をつかれた。
「お前、とろすぎ」
 突き放すような言葉に、まぎれもなく愛情が潜んでいた。もし、ずっとこんなにあからさまだったのだとしたら、気づかなかった穂花は、森さんが発した言葉のとおり、とろすぎる。
「──何でわたしなんかがいいんですか?」
 ずっと聞いてみたいと思っていたことを口に出したら、森さんが優しい目で穂花を見下ろし、ふっと笑った。
「俺もそう思う。ほんと、何でこんなのがいいのかなあ、俺」失礼なことをさらっと言う。「よりによって、俺のこと好きだって言わないやつに、何やってんだろう」
 けなされているような気もするけれど、怒ることもできない。困った顔で黙ってしまった穂花に、森さんが言った。
「俺のこと、きらいじゃないよな。流されてみれば?」
「──流されてみません」
「本当に、強情。かわいくねえな」
 森さんが目を細めた。次の瞬間、ぽーん、と音が鳴って、エレベーターが到着した。
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