【吉川稔】 1990年6月

文字数 3,615文字

小夏はきっと気が付いていたんだろうね、僕が宮古島で動揺していたこと。
あのエメラルドホテルで初顔合わせのときだったよね、息が止まりそうになったのを。
僕がよく知っている・・いや、よくよく知っている人を思い出したんだよ、杏奈さんを見ていて。 
正直に言うと、僕がイタリアにいたときの恋人に雰囲気がそっくりでね、目の色が茶色なのも、黒い髪も違うし、それに年もかなり違うんだけど、なんだか懐かしい気分になってドキドキしてしまったんだ。

その恋人ってどんな人かって、女優だと誰かって?
女優さんで似ていると言えば・・・
クラウディア・カルディナーレだな。
もちろん小夏は知らないよね、ずいぶん昔の人だし。
オリーブ色の肌をして眼がクリっとした可愛らしい人だよ。
名前はマリウッチア、僕より9歳年下だったから、
今生きていたら21歳かな。
そう、死んでしまったんだよ、小夏。
いや、病気とか事故じゃないんだ。
最期の面会もしていないんだ、悲しい出来事があったんだよ、彼女は自分で命を絶った・・・と聞かされたんだ、今でも信じられないでいるけど。。

初めて会った場所?
「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」っていう映画を観た帰りに映画館の出口で声をかけられたんだ。
「ジョン・ローンでしょ!」って黄色い声でね、彼女らしいおふざけだったんだ。
ジョン・ローンはその映画でチャイニーズ・マフィアを演じていてね、
日本人も中国人は彼らイタリア人にはみんな同じ顔に見えるんだって、その時そう云って笑ってたな。
マリウッチアは16歳の音大生だった、あとから知ったんだけど特別飛び級だったんだよチェロの。
ジョン・ローン って知らないか?
香港出身の役者でこの後イタリア人監督ベルトリッチの「ラスト・エンペラー」で主演して世界的なスターになったんだ。
いやいや 三船さんほど詳しくはないけどね。

その当時パパはミラノのイル・ルオゴというリストランテでシェフ代理になっていた25歳の若さでね。
いや、 パパからデートに誘うほど暇とお金はなかったよ。
でも運命ってのはあるんだろうね、お店の仲間に誘われてサイクリングツアーに行ったとき、マリウッチアにまた逢ったんだ。
そうだよパパも昔はバイクに乗ってたよ、お店に飾ってたのはその時の楽しい思い出を忘れないためだよ。

コモ湖のベラッジオという絶景ポイントだったな、湖を眺めながらお店で作ったパニーニをコック仲間と一緒に食べていた時、
「チャオ ジョン・ローン!」 て、声をかけられたんだ。
マリウッチアの別荘がその近くにあったんだ、、その別荘はその後二人でこっそり何回も泊まりに行った愛の巣になった、ホントに夢のような時間だった。
音大生だからてっきり大人だと思ってたから、恋人になるのを躊躇することはなかったんだ、マリウッチアはそのくらい魅力的で輝いていたからね。
赤ちゃんができたと聞いた時は嬉しかった、
これでパパにも家族ができる、独りぼっちの人生だったからね、その時までずっと。

みなしごハッチじゃないよ、それはアニメでしょ、小夏の大好きな。ミツバチじゃないしね、パパは。
分かってるよ、ジョークだって。

パパが生まれた年にね、小夏には想像もできないような大きな津波が地球の反対側から押し寄せてきて、パパのパパやママや親戚をさらっていったんだお家と一緒にね。
だから家族ができるって聞いて有頂天になったな、パパが27歳、マウリッチアはまだ18歳だった。
その時交わしたマリウッチアとの最後の会話は今でも覚えてるよ。
「一緒に日本に行って可愛い小さなレストランで二人の赤ちゃんを育てるの」
「ちょっとお金が足りないかも知れないよ」
「いいの、レストランを手に入れるまで私もチェロで稼げるわ、今の大学じゃもう教えてもらうことないもの」
「チェロ習う人って見つかるかな」
「あなたによく似たラスト・エンペラーに教えて差し上げるっていうのはどうかしら、お金持ちなんでしょ」
「おいおい、日本に紫禁城はないよ、だいたい100年も前の話だよ」
「わかってるって、でもあなたのためなら誰にだってチェロを教えるってことよ」

お店のオーナーから
「日本に帰れ、早く、でないとお前の命が危ない」と言われたのは、そのあとマリウッチアと連絡が取れなくなってから5日後だった。
マリウッチアはベニスに本家のある名家の一人娘、父親というのはシチリア出身、ミラノでも裏経済の元締めらしく僕のことを殺してしまえとファミリーに触れ回っていると聞かされた。
いや、逃げ出しはしなかったよ、そのくらいマリウッチアと僕は愛し合っていたんだ。
オーナーからの伝言を聞いたその日に僕はカッシーニ家の玄関にいた。
父親のルチアーノが現れていきなり殴られた、彼は泣いていた。
「うちの娘が自殺した、お前のせいだ、お前は大噓つきだ、日本で天皇にチェロを教えるだと。
マリウッチアはイタリアの宝物だったんだぞ。
お前のことは日本のファミリーに頼んで調べてもらったよ、家族もなくひとりでイタリアでコック修業したのは褒めてやるが、ここまでだ。
赤ん坊も死んだ、早くこの国から出ていけ、二度とイタリアの地を踏むな、その時は本当に俺がこの手でお前を殺す」
って言われた、すごすごと帰ったよ。
翌日のコッリエーレ・デッラ・セーラに、カッシーニ家の訃報が載っていた、二人の名前がひっそりと。

家財道具を全部打ち捨てて僕は羽田にたどり着いた、でもね、日本に戻ってもどこにも行く場所がないことに気づいたんだ。
横浜駅の改札を出た時、目の前に相鉄線への案内表示があって、フラフラと電車に乗って終点海老名にたどり着いた。
そうだよ、小夏に会ったのがその時だよ、3年前赤ちゃんだったね。
駅前の相鉄不動産で紹介されたラーメン松本に、その足で向かった。
松本さんご夫婦は奥様が重い病気になったのでお店を手放したがってたんだ、小夏もできたら一緒にってね、覚えてるだろう。
小夏だって松本さんが小夏の面倒をみれないことを知ってたよね、それが僕にもわかったので、条件通りで買い取った、ただし小夏は自分の意志でここに残ったんだよね、それも知ってるよ。

ちょっと疲れたな、あまり思い出したくないことばかり話したからね。

そうだった、肝心の杏奈さんの正体だよね。
香椎という名前からしてカッシーニの当て字かと思ったら違うんだって。お母さんの香椎さんがマリオ・フェリエ―リさんと結婚したけれど自分の苗字もそのまま使うことにしたそうだ、正式には 杏奈・フェリエ―リ・香椎と言うらしい。
そのフェリエ―リ家なんだけどマリオの母方にカッシーニから嫁いだ人がいるらしい、杏奈さんはまるで興味なしだったのでそれ以上詳しくは訊けなかったけどね。
よく似てる遠い親戚ってところかな、ありそうな話だね。

それより、杏奈さん移籍騒動も落ち着いてきて一安心だ。
どうやら小林さんを気に入っての移籍らしいな、一からトレーニングし直して世界に通用するトライアスリートに育てたいって、熱く説得されたよ。
プロ野球じゃないんだから「移籍」だなんて周りは騒ぎすぎでしょ、でもチーム・スパチオには大きな戦力になるね、コーチングノウハウも習得しているようで、これからは杏奈さんの作ったメニューでトレーニングするって、みんなも了解しているんだ。
チーム全員の戦力底上げになって、みんな揃ってハワイに出るという夢がどんどん現実に近づいてきたよね、小夏はどう思うの、杏奈さんのこと。

「それより何より、初めて聞いたパパの秘密でびっくり。変なこと訊くけど松本さんへの支払い.よくできましたね」

ミラノではお金をしっかり貯めることにしていたからね、自転車だってお店のオーナーから貰ったものだったし。いつか日本で自分流のお店を開くのが夢だったんだ、
思ったより早くなっただけさ、思ったより田舎だったのは残念だったけど、小夏に逢えたので文句なし。

「杏奈さんはこれからどうするのかしら」

渡さんと考えてるところだけど、杏奈さんにはコーチ兼任のプロアスリートになってもらって、ゆくゆくは小林さんを世界に通用する選手に育ててほしいと伝えている。
当分は小林さんちに居候だけど、杏奈さんのことは商店街で全面的にバックアップしていくよ。
「そうすると、チーム・スパチオももっともっと有名になるね」

・・・・・・・
パパと杏奈さんが親子に違いないことは、最初から私の確信になっています。だとすると、
何のために杏奈さんはパパに逢いに来たのでしょうか?
杏奈さんはもしかしてタイムトラベラーかって?
私たちのドッグワールドではそんなの当たり前のことなんです、
人間類は自分の大切なスペックを昔々に勝手に捨て去ってしまっただけのことです。
小夏だって何度もパパに逢いに戻ってくることができるのですよ、一緒にいたい、遊びたいと念じれば。

じゃあ、杏奈さんのその想いは何かしら。
パパ・ミケーレ、吉川稔さんのこれからの波瀾万丈が楽しみです。
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