第1話

文字数 2,742文字

 駅前広場に出ると、記憶にある風景は白一色に覆われていた。
 岩城雄一は、農協に勤めていた父が脳梗塞で倒れたため、急遽この町にもどってきた。新潟県上越地方に位置するM市は、中部地方でも有数の豪雪地帯で、町に残る若者は少ない。
 父は寝た切りとなり、母はその介護に追われた。この町は男手がなければ、家屋はひと冬で潰れる。都会の夢を捨て、雪との闘いが始まった。
 毎日ハローワークに出かけ、求人検索のキーを叩く。どの職種も、東京並みの給料が取れる求人は皆無だった。その中でも、看護師と二級建築士が一番高かった。
 ワンランク落としてキーを叩く。ばらばらと出てくる建設労働者の求人に混じり、「双葉ビルメン」の求人が目に留まった。ビル設備管理の仕事だ。
 ビルの内装会社に勤めていた雄一は、営業職とはいえビルの構造について少しは知っている。それが役に立つかどうかは分からないが、応募することにした。
 総合ビル管理業の看板を掲げる双葉ビルメンは、広く上越まで手を伸ばし、商業ビルや公共施設のメンテナンスを手がけていた。
 見るからに現場叩き上げの社長が、応接室でかしこまる雄一に話しかけた。
「岩城くん、履歴書を見ると何の資格もないようだが、どうしてまたビルメンの仕事などに応募したんだい?」
「はい、東京で稼いでいたお金を取るには他になかったので」
 雄一は正直に答えた。上越市の商業高校を出た雄一は、ビル内装業界では大手の会社で、上位の営業成績を上げていた。
「なるほど。確かに他と較べれば日当は高いかもしれないね。でもそれは、持っている資格にもよる。何もなくて応募してきたのは君が初めてだ。最低でも危険物取扱者の資格がなければ――」
「どんなことでもやります。決して甘くは考えておりません。東京では、徹夜で工事に立ち会うこともありましたし、海外で商談があれば夜中でも成田に直行しました。体力には自信があります。先ずはその危険物資格にすぐでも挑戦いたします」
「そうか……、とりあえずやってみるか。この業界、若者が足りなくてこまってはいる。もしダメな時は、工事部門か清掃部門にまわってもらうけど、それでもいいかな?」
「え、工事部門というと――」
 清掃の仕事は想像がつくが、工事は何をするのかが見当もつかない。何にせよ、経験のない工事の仕事は無理かもしれない……。
「まあ、そう大した工事でもない。うちは細々だが警備業もやっている。オンライン警備の物件が出れば、防犯装置の配線工事を行う。電気工事のようなものだが、感電することはない。ただ、毎日あるわけでもないから、警備員の仕事と兼務になるだろうな」
「わかりました。何とか頑張ってみます」
「それでは、明日からさっそくきてくれないか。ボイラー清掃の仕事が重なっている。清掃といっても、ボイラー整備士の資格が無ければできない熟練を要する仕事だ。手元として戦力になってくれないか」
 事務所に一人だけ、女性事務員がいた。年のころは四十代半ばか。
「サイズはMでいいですね。頑張ってくださいね」
 事務員がにこりと笑い、社名が入ったグレーの上下作業服と、ボイラー清掃などに使用するという、ブルーのつなぎ服を手渡してくれた。
 ボイラーなど見たこともない雄一は、本当はまったく自信がなかった。だが、父の治療費がかさむ中、飯を食っていかなければならない。ボイラーであれゴミ焼却炉であれ、文句を言う余裕はなかった。
 
 翌日から、東京の営業マン時代とはまるで違う世界での挑戦が始まった。
 最初の現場は、町の庁舎の地下にあるボイラーの解体整備の仕事だった。地下スペースにこのように大きな設備機械があるとは夢にも思わなかった。自分の胴体ほどもある太い配管が縦横に走り、床には、グレーチングが敷かれたピットが整然と並んでいる。その中央に、見上げるような鉄の塊が鎮座していた。
 朝、八時、作業者たちが整列した。雄一が一番若く、他の五人は全員五十歳を過ぎているように見える。
 主任と呼ばれる人がみんなの前に立った。
「今日は新人も入っているので、特に安全には気をつけてください」
 主任は、作業中は、マスク、ヘルメット、軍手を忘れないことをクドクドと注意した。なぜそのような重装備が必要かは、作業が始まってすぐに理解できた。
 主任が、まるで昔の大砲のように見えるバーナー設備の分解に着手した。見た目そのままに、ガンタイプバーナーと呼ばれるらしい。確かに、黒光りのする巨大な拳銃だ。
 その他の作業者たちは、ボイラーに取り付けられている様々な部品を取り外し始めた。部品と言っても、どれをとっても手にずしりとくる金属の塊だ。雄一の仕事は、それらをコンクリートの上に敷いたシートに整然と並べ、一つ一つの外部の汚れを取ることだった。内部は精密に仕上げられているので、素人が手を出すことはできないという。
 先輩たちが、ボイラーの上部にある最後の部品に取りかかった。天井から吊り下げられた1トン用チェーンブロックが唸りを上げる。潜水艦のハッチのような大きな円盤が、ゆっくりと上昇した。
 錆を落とし、綺麗に磨き上げると、部品は見違えるように生き返る。これまでの仕事では得られなかった、素朴な喜びを覚えた。
 すべての部品を取り外すと、大小の丸い穴から、内部が覗けるようになった。火炎で炙られる内部は真っ黒だ。
 主任が、再び全員を集めた。
「さあ、これからが本番だ。全員装備を整えてくれ。岩城君も研修を兼ね入ってください」
 全員にゴーグルが配られた。潜水にも使えそうなしっかりしたものだ。内部の黒い汚れは、ただの煤(すす)ではないという。硫酸化合物で、目に入れば失明の恐れもある。まさかボイラーの中に入るとは思ってもいなかった雄一は、焦った。
 バーナーの開口部に、太いダクトが取り付けられた。酸欠防止の送風が始まる。たくさんの、ガード付きライトで照らされた内部は意外と明るい。雄一は上部の穴から、恐る恐るアルミ梯子を降りて行った。内部は想像以上に広かった。だが、周辺は複雑に入り込み、粘りのある真っ黒な煤がこびりついている。
 様々な工具が運び込まれ、作業が始まった。煤をスクレイパーでかき落とした後、金属ブラシで鉄の地肌を出す。真っ黒だった表面が銀色に光り出す。先輩たちは、三倍の速さで作業を進めていく。
 体力のすべてを使い果たし、作業は終了した。ブルーのつなぎ服は、汗と煤で真っ黒だ。ゴーグルとマスクを外した先輩の顔は、そこだけが白い、まるでゴリラのようだ。自分も同じなのだと思うと、可笑しくなった。
 商談をまとめ、同僚と夜の新宿を飲み歩くきらびやかさはないが、仕事を体で習得し、仲間で汗水たらす充実感を覚えることができた。

 
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