第5話

文字数 3,731文字

 母と最後の夕食を終わらせ、家を出る。迷いに迷ったが、手にかけることはできなかった。
 すでに大型のサバイバルナイフは準備している。雄一は、ホームセンターに回り、青田を殺ったあと、山に入り首を吊るためのロープを買った。時計は七時を回っていた。
 料亭「椿」は繁華街から外れた総合病院の向こうにあった。
 風雪はうなりを上げて雪原を走ってくる。真横に飛ぶ雪のすだれで路面は見えない。雪の壁から時おり見える電信柱を頼りに車は進んでいく。
 一瞬、ホワイトアウトが視界を奪った。思わずブレーキを踏む。スケートリンクのような路面を車が泳ぐ。ハンドルは全く効かない。強い衝撃と共に車が止まった。フロントガラスが雪に埋まっている。折れ曲がったワイパーが呻き声だけを上げている。
 車が中央線を越え、対向車線の吹き溜まりに突っ込んでしまったのだ。雄一は焦った。むやみにエンジンを吹かしているうちに、タイヤが空回りし、車は前にも後にも動かなくなった。
 雪の壁で、運転席のドアは開かない。助手席側から車外に出た。闇から「ゴウッ」という風雪が覆いかぶさってくる。竜巻のような突風で体がくの字に曲がる。辺りに家の灯りは無い。通り過ぎる車も皆無だ。
 ワゴンの後部ハッチを開け、剣先スコップを取り出す。車が埋まった路肩の雪を崩し始めた。やっと人が入れるほどになった。車は完全に雪の上に乗っかっていた。汗でびしょ濡れになった背中に、凍えるような雪が積もる。
 雪面に両膝をつき、スコップを車の下に突き刺し始めた時だった。
「どうしました?」
 背後から、風の音に紛れ、どこかで聞いたことがあるような声が響いた。変わった服装の男が、街灯の明かりに薄っすらと浮ぶ。横殴りの風雪が顔を隠している。背格好から同年代にも見える。不思議だった。初めてなのに、時空を超えた親しみさえも感じる。
「雪の上に車のデフが乗っかっちゃって。急ぐんだけど――」
 雄一は、わらにもすがる思いで、男を見上げた。
「こんな吹雪の中、これから仕事にでも?」
「はい。どうしても八時までに現場に入らなければ――」
 雄一の脳裏には、仕事の現場ではなく、血しぶきが舞う凄惨な現場が浮んでいた。
「そうですか、これから現場に行くのですか。どんなお仕事を?」
「ああ、ビルメンテナンスの仕事です」
「ビルメンですか。私の知人にもおります。それにしても暗い吹雪の中、怖くはないですか?」
 男の言葉が、なぜか雄一の胸中を探るように響いてくる。
「それは怖いですけど、どうしても今夜じゅうに、凍結防止のバルブを締めなければならないので――」
 雄一の脳裏には、水道のバルブを締めるのではなく、返り血を浴びながら、止めに青田の首を締め上げる光景が描かれていた。
「それでは私も手伝いましょう。スコップを貸してもらえますか」
 殴りつけるような風雪が、一瞬、男の姿を隠した。
「すみません、助かります。スコップが一つしかないので、これを使ってください」
 雄一は吹き溜まりの壁にスコップを突き刺すと、素手でもできそうな道路側に回った。
 時計を見る。八時まで、あと三十分しかない。雄一は軍手をはめ、雪面に膝をついた。ジワリと冷気が這い上がってくる。車の下から、両手で鷲づかみにしなが雪をかき出す。思わず、青田の喉ぼとけに喰い込む親指を想像し、力が入る。
 奥に入るほど雪は硬くなる。「逃げるな!」と叫びながら、なおも指に力が入る。向こう側からも、硬い雪を剣先で掘り進める、ザック、ザックという音が聞こえ始める。もう少しだ。だが、手が伸びる限界にきた。ここでサバイバルナイフを出すわけにもいかない。
 地吹雪が、雪面に這いつくばる雄一の全身を襲う。吐く息は瞬時に凍り、呼吸が苦しい。向こう側からも男の荒い息遣いが聞こえてくる。男の気迫に負けまいと、車の下に頭を突っ込み、必死に雪をかき出す。不思議だ。いくらかいても貫通しない。
 ジワリと指先が熱くなった。ふと見ると、破れた軍手の指先から、生温かいものが噴出している。みるみる雪が赤黒く染まっていく。血に染まった青田の顔が目に浮かび、なおも力が入る。濡れた作業服が体温が奪っていく。まるで、氷の風呂に入っているようだ。
 体力が限界に達したことがわかる。すでに指先の痛みは感じない。向こう側の男の動きも緩慢になったようだ。ふと、弱気が脳裏をかすめる。男は、殺人の手助けとは知らず、必死に剣先を突き立てている。人を欺いてまで、青田を殺る意味はどこにあるのだろう……。
 時計を見る。八時まであと二十分だ。迷っている余裕はない。すぐにでも発進しなければ間に合わない。「殺るんだ!」という怨念の殺意だけが、雄一を奮い立たせていた。
 いつの間にか剣先スコップの音が止んでいた。もう大丈夫だ。ちょっと押してもらえば車は動くはずだ。雄一は立ち上がった。思わず車にすがりつく。貧血なのか、目が霞む。
 車伝いに一歩、また一歩、向こう側に歩を進める。車のサイドが、刷毛でなぞったように鮮血で染まっていく。運転席側を見た瞬間、雄一は目を見張った。
 雪面に剣先スコップが突き刺さったまま、男の姿が見えない。雪に埋もれてしまったようだ。寒さで凍え死んだのかもしれない。大変なことをしてしまった。急にめまいがしてきた。時計を見る。あと五分しかない。もう無理だ。全身に、凍りつきそうな震えがやってきた。すでに、青田を血祭りに上げる力も、儚い人生を恨む気力すら残っていない。
 睡魔が襲ってきた。車を背に、ずるずると崩れ落ちる。
 雪の壁から、何本もの白い手が誘うように延びてくる。みな氷のように冷たい。徐々に、異界の手の中に引き込まれていこうとする時だった。その中の一本の手がほおに触れた。不思議だ。温かかった。薄っすらと開けた目に、黒い瞳が映った。
「大丈夫ですか? ああ、こんなに出血して。すぐに手当てをしなければ。私、この先の病院の看護師です。これから勤務なので、私の車に乗ってください」
「あぁ、そうしてはいられないんだ。俺も急ぎの仕事がある」
 雄一は、朦朧とする意識の中で叫んだ。
「あなた、仕事どころじゃないのよ! このままだと死んでしまう」
 女性がハンカチで、雄一の指先を止血する。清潔な布がみるみる赤黒く染まっていく。女性は冷静だった。優しく、助手席に促した。
「すみません。車の向こう側にもう一人、手伝ってくれた人が倒れているんです」
 雄一は、路肩の方を指した。女性はすぐに、車の向こう側に回った。
「え、誰もいませんよ。吹き溜まりにスコップが突き刺さっているだけで――」
「そんなはずはない。そのスコップで車の下の雪をかき出してくれたんだ」
「何かの間違いね。車の下はしっかり雪で埋まってるわよ」
「えーっ、そんな――」
「白魔が襲いかかる夜は雪女が出るって言われているわ。きっとそれよ。あはっ、冗談よ。それにしても、何でスコップがあるのに、骨がむき出しになるまで素手で雪をかいてたのよ。やっぱ、マジに雪女にたぶらかされたのね」
「雪女? あれは男だった。いやそんなことはどうでもいい。なぜこんなことに……」
「なにぶつぶつ言ってるのよ。こんな吹雪に急ぎの仕事って何だったの。連絡先わかれば、私から電話してあげる」
「あ、いえ、そ、それは、山の中だから連絡不可能なんだ」
「そう、でもその雪女、もしかしたらあなたを助けてくれたのかもね――。この猛吹雪では山中は危険よ。うちの病院も死人と怪我人でいっぱい。明日、事情を話して謝りなよ」
 雄一の脳裏に、山中の吹雪に揺れる己の骸がよぎった。
「ああ、そ、そうするよ」
 雄一は、なぜか、涙が溢れてきた。
「なに泣いてんのよ。やっぱり雪女の虜になったんでしょ。早く忘れなよ。そいうことってあるんだよ、誰にでも」
 彼女の言うことはある意味図星だった。想像で終わった朱に染まる殺人舞台に、身震いした。
 車の中で雄一は、仕事に向う看護師の真剣な横顔を盗み見た。この吹雪の中、一皮むけば殺人鬼の男を助け、ごった返す病人や怪我人の面倒を見に行く。雄一は、自分の存在が、やたら小さく思えてきた。
 往復するワイパーの向こうに、病院の灯りが見えてきた。ライトが照らす闇の底を眺めながら、男の服装はブルーのつなぎ服だったと思い至った。見えなかった顔の輪郭が、おぼろげに浮んできた。え、まさか……。
 骨がのぞく指先の治療に、一ヵ月の入院が言い渡された。担当は違うが、助けてくれた看護師が、毎日声をかけてくれた。
 その後、間もなく、青田は、東京から美咲を追ってきたヒモとトラブルになり、大怪我をしたという噂が聞こえてきた。それがきっかけで、弁護士を語る詐欺の疑いも発覚し、二人は町から姿を消したという。
 雄一は、海辺のドライブで見た美咲の横顔を、ほろ苦く思い出した。

 それから十年が経った。
 雄一は、あのとき凍傷の治療を受けた病院のボイラー技士として働いている。
 母が作った弁当を持ち、あのときの道を、妻も働く病院に向う。白魔が襲いかかる夜は、どこからともなく「ザック、ザック」という音が、人生の迷路を戒めるように響いてくる。
                   (了)
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