第2話
文字数 1,851文字
仕事と親の世話に明け暮れ、五年が経った。女性に縁がないまま、雄一は三十三歳になっていた。ただ、仕事だけは真面目にやってきたので、危険物取扱者と二級ボイラー技士を取得することができた。
波風の立たない職場に、変化が現れたのはそんな時だった。
年配の優しい事務員が、夫が転勤になったため会社を去った。間もなく、若い女性が事務員として入社してきた。
町では見たこともないドキリとする美しさを持っていた。星野美咲の素性は誰もわからない。独身者だけではなく、男たちは皆ざわめき立った。間もなく、年齢は二十四歳、東京からのUターン者だという噂が流れた。
雄一は急に、東京での七年間を懐かしく思い出した。無性に美咲と東京の話をしてみたくなった。
偶然にも、チャンスがやってきた。老人ホームのエアコンの修理で、夜遅くまでかかった雄一が事務所にもどると、美咲が一人で残業をしていた。多忙な決算時期で、美しい横顔もパソコンと一体化していた。
雄一が工具類を片づけ終わり、帰ろうとしていた時だった。
「岩城さん、お疲れさま! 紅茶、いれましょうか」
美咲が、標準語ではあるが、どこかぎこちない言葉をかけてきた。
「あ、あぁ、それはどうも」
咽が渇いていた雄一は、率直に嬉しかった。いや、美咲に声をかけられたことが嬉しかったのだ。
事務所の片隅の小さなテーブル。トレイで紅茶が運ばれてきた。小さな紙皿にクッキーがのせられている。東京のオフィスにいたころを思い出した。彼女もそういう環境にいたのだろうか……。
不思議だった。いつもは女性と気軽に話ができない雄一から、自然と言葉が出てきた。
「星野さん、東京にいたと聞きましたが、どちらに?」
美咲がびっくりしたような目で雄一を見ると、
「信じられない、もうそんな噂が流れているんですか。銀座にいたんです。住まいは品川でしたけど――」
「え、懐かしいな。俺がいた会社、北品川にあったんです」
美咲が銀座で何をしていたかは話さなかったが、広い品川のことをよく知っていた。雄一が接待でよく使った品川プリンスのレストランに、美咲も行ったことがあるという。話は自然に盛り上がった。
それがきっかけとなり、事務所で二人だけになった時は、どちらからともなく言葉を交わすようになった。汚れ仕事も苦にならなくなり、はつらつとした日々が続いた。
けれども、すらりとした美咲の美貌とは釣り合いが取れないことぐらいは、自分でもわかる。何かの勘違いだと苦笑する自分と、いや、美咲の笑顔は、自分だけに向けられているのだと信じる自分が、日々闘っていた。
その年の夏の終わり、ビルの屋上から飛び降りたつもりで、海辺のドライブに誘った。笑顔で返ってきた言葉、夢かと疑った。
帰りの車中、浜辺に人影はなかった。よせ返す波に、数羽のカモメが戯れている。
矢沢の「ラスト・シーン」が、静かに流れている。
――踊ろうよ ♪ 摩天楼の舗道で――
「こんな美しい海、東京にはなかったね……」
美咲が、キラキラと輝く水平線の彼方を眺めながらつぶやいた。
「……」
初めて接する、美咲の心のつぶやき。雄一は、返す言葉が見つからなかった。
視界の端に映る美咲の顔。美咲は静かに目を閉じている。端正な横顔に、波間を漂うような愁いを見た。
雄一は静かに、夕日に照らされたホテルへと、ハンドルを切った。
雄一は、美咲と語った結婚の話を信じ、親の面倒と仕事に精を出した。今まで辛かったことが、すべて喜びに変わった。
会社では、二人だけの秘密のサインを交わし、仕事は順調に進んでいた。
「雄一、何かいいことがあったのかい? 最近、機嫌がいいけど」
介護で腰が曲がった母が、雄一の横顔に声をかけてきた。
「ああ、その内びっくりすることがある。家も増築しなくちゃならないかもな――」
雄一は、狭い我が家を見回した。
その翌年の春、父は逝った。他県での泊まり込みの仕事で、死に目には会えなかったが、穏やかな最期だったという。
時を同じくして、青田が総務部長として入社してきた。大阪で弁護士事務所に勤めていたという青田は、社長の親類で、息子のいない社長の後継者と目されている。ゆくゆくはこの会社をベースに、弁護士事務所を開きたいと、入社の挨拶で胸を張っていた。
四十五歳になるという青田は、弁護士資格を持つインテリにしては色浅黒く、見た目は若々しかった。
どことなく美咲の様子が変わったのは、それからだったような気がする。
徐々に、付き合いも疎遠になっていった。
波風の立たない職場に、変化が現れたのはそんな時だった。
年配の優しい事務員が、夫が転勤になったため会社を去った。間もなく、若い女性が事務員として入社してきた。
町では見たこともないドキリとする美しさを持っていた。星野美咲の素性は誰もわからない。独身者だけではなく、男たちは皆ざわめき立った。間もなく、年齢は二十四歳、東京からのUターン者だという噂が流れた。
雄一は急に、東京での七年間を懐かしく思い出した。無性に美咲と東京の話をしてみたくなった。
偶然にも、チャンスがやってきた。老人ホームのエアコンの修理で、夜遅くまでかかった雄一が事務所にもどると、美咲が一人で残業をしていた。多忙な決算時期で、美しい横顔もパソコンと一体化していた。
雄一が工具類を片づけ終わり、帰ろうとしていた時だった。
「岩城さん、お疲れさま! 紅茶、いれましょうか」
美咲が、標準語ではあるが、どこかぎこちない言葉をかけてきた。
「あ、あぁ、それはどうも」
咽が渇いていた雄一は、率直に嬉しかった。いや、美咲に声をかけられたことが嬉しかったのだ。
事務所の片隅の小さなテーブル。トレイで紅茶が運ばれてきた。小さな紙皿にクッキーがのせられている。東京のオフィスにいたころを思い出した。彼女もそういう環境にいたのだろうか……。
不思議だった。いつもは女性と気軽に話ができない雄一から、自然と言葉が出てきた。
「星野さん、東京にいたと聞きましたが、どちらに?」
美咲がびっくりしたような目で雄一を見ると、
「信じられない、もうそんな噂が流れているんですか。銀座にいたんです。住まいは品川でしたけど――」
「え、懐かしいな。俺がいた会社、北品川にあったんです」
美咲が銀座で何をしていたかは話さなかったが、広い品川のことをよく知っていた。雄一が接待でよく使った品川プリンスのレストランに、美咲も行ったことがあるという。話は自然に盛り上がった。
それがきっかけとなり、事務所で二人だけになった時は、どちらからともなく言葉を交わすようになった。汚れ仕事も苦にならなくなり、はつらつとした日々が続いた。
けれども、すらりとした美咲の美貌とは釣り合いが取れないことぐらいは、自分でもわかる。何かの勘違いだと苦笑する自分と、いや、美咲の笑顔は、自分だけに向けられているのだと信じる自分が、日々闘っていた。
その年の夏の終わり、ビルの屋上から飛び降りたつもりで、海辺のドライブに誘った。笑顔で返ってきた言葉、夢かと疑った。
帰りの車中、浜辺に人影はなかった。よせ返す波に、数羽のカモメが戯れている。
矢沢の「ラスト・シーン」が、静かに流れている。
――踊ろうよ ♪ 摩天楼の舗道で――
「こんな美しい海、東京にはなかったね……」
美咲が、キラキラと輝く水平線の彼方を眺めながらつぶやいた。
「……」
初めて接する、美咲の心のつぶやき。雄一は、返す言葉が見つからなかった。
視界の端に映る美咲の顔。美咲は静かに目を閉じている。端正な横顔に、波間を漂うような愁いを見た。
雄一は静かに、夕日に照らされたホテルへと、ハンドルを切った。
雄一は、美咲と語った結婚の話を信じ、親の面倒と仕事に精を出した。今まで辛かったことが、すべて喜びに変わった。
会社では、二人だけの秘密のサインを交わし、仕事は順調に進んでいた。
「雄一、何かいいことがあったのかい? 最近、機嫌がいいけど」
介護で腰が曲がった母が、雄一の横顔に声をかけてきた。
「ああ、その内びっくりすることがある。家も増築しなくちゃならないかもな――」
雄一は、狭い我が家を見回した。
その翌年の春、父は逝った。他県での泊まり込みの仕事で、死に目には会えなかったが、穏やかな最期だったという。
時を同じくして、青田が総務部長として入社してきた。大阪で弁護士事務所に勤めていたという青田は、社長の親類で、息子のいない社長の後継者と目されている。ゆくゆくはこの会社をベースに、弁護士事務所を開きたいと、入社の挨拶で胸を張っていた。
四十五歳になるという青田は、弁護士資格を持つインテリにしては色浅黒く、見た目は若々しかった。
どことなく美咲の様子が変わったのは、それからだったような気がする。
徐々に、付き合いも疎遠になっていった。