第3話 秋

文字数 3,680文字

 ひと月近くあったはずの夏季休暇も気付けば遠い過去にその終わりを迎え、校内を行き交う生徒の制服はすでに、夏服から冬服へとその装いを替えていた。最近では、数日後に迫った学園祭の準備で学園全体もどこか浮き立った雰囲気に呑まれて感じられる。
 忙しなくも賑わうその校内から逃れるように鐘塔の鐘の下に横になり、少し肌寒くも感じる風に吹かれながら渚紗は静かに目を閉じていた。勿論、空気の浮き立った感じも、賑やかな雰囲気も嫌いではない。それでも生徒会として生徒と先生の間を取り持ちながらあれやこれやと立ち回り続け、ようやく準備すべきことが一段落した今、少しだけその喧騒から遠ざかっていたかった。

 どれくらいの時間をそこで過ごしていたのかは定かではないけれど、校舎の方から聞こえてくるリンゴーン……と下校時刻を告げるチャイムの音に、渚紗はゆっくりと目を開けた。黄昏に沈む視界に、「あら……?」と眉をひそめる。
「私、寝てしまっていたみたいね……」
 言いながら身体を起こそうとして、その上からはらりと落ちた自分のものではない制服のブレザーに目を瞬いた。
「え……?」と小さなつぶやきを零しながらきょろと辺りを見渡し、そこに誰もいないことに更に首をかしげる。拾い上げたブレザーの襟元に入った萌葱色のラインカラーはそれが一年生のものであることを示しているし、そもそも自分以外でこの場所に来るのはたぶん、砂凪だけだろう。けれど……だとしたら尚更、今この場所にその姿がないというこの状況がどうにも呑み込めない。
 手にしたブレザーをしばらく見下ろしてから、渚紗は自分のブレザーの内ポケットからスマホを取り出し、砂凪に送るメッセージ文を打ち込んだ。送信ボタンを押し、その直後、すぐ近くから小さなメッセージの受信音と、続けて「あっ、やばっ……」と慌てたような声が聞こえ、呆れたように小さく息をついた。
 肩を落としながら視線を送った先で、砂凪が階段からひょこと顔をのぞかせる。
「砂凪さん……私が以前話したこと、まさか忘れてしまったのかしら?」
「やっ、違うんです。これはちょっと……」
 あせあせと言いながらスマホを消音設定にし、続ける。
「学園祭の準備で買い出しに行っていて、それで追加とかあった時に連絡あったの気付けないのも困るかなと思って設定解除してて……」
「まぁ、この期間は大目に見てくれる先生も多くなるとは思うけれど、気を大きくしてはダメよ」
「はい……気を付けます」
 しゅん……と肩を落とす砂凪に目をやり、それから渚紗はふぅ……と小さく息をついた。
「けれど、校内でメッセージを送った私にも非はあるわね。ごめんなさい」
 言って目を伏せる渚紗に、ぶんぶんと慌てて手と首を振り回す。
「そんなっ、何でそうなるんですか? 先輩は何も……全面的に悪いのは私じゃないですか……っ」
「それは……違うと思うのだけれど……」
 軽く首をひねってから、渚紗は可笑しそうにふふ……と笑った。
「どっちもどっち、かしらね」
 そう言う渚紗に目を瞬かせ、それから砂凪も、ははっと笑った。
「そうですね。どっちもどっち……ですね。ああでも、そもそも渚紗先輩が下校前に私にメッセージを送るなんて、何かあったんですか?」
 聞きながらメッセージ画面を開き、そこに表示された文面に、「あっ、そっか……」とつぶやいた。
「そうですよね、ごめんなさい」
 渚紗から差し出されたブレザーを受け取りながら、申し訳なさそうにあはは……と笑う。
「クラスの準備中に、廊下からたまたま先輩が校舎を出ていく姿が見えて、多分ここだろうなぁと思って買い出しに行く前にのぞきに来たんです。そしたら先輩寝てるみたいだったから、風邪引いちゃいけないしと思って、ないよりはマシかなってブレザーを……私、ジャージも着てたんで」
「そうだったの……どうもありがとう。おかげで風邪を引かずに済みそうだわ」
「それならよかったです」
 言いながら差し出された砂凪の手を握り返し、よいしょ……と勢いをつけてその場に立ち上がる。風になびく髪をかき上げながら、その手を取ったまま見下ろした鐘塔の奥に広がる街並みに目を細め、渚紗はそっと口を開いた。
「陽が落ちてから見るここからの景色って、人の命の流れに似ていると思わない?」
「え? 命……?」
 ちらとこちらを横目に短く聞き返してくる砂凪に、渚紗も小さく視線を返してから眼前の景色に目を戻した。
「学園の外に街が広がっていて、そこに在る明かりひとつひとつに誰かの(せい)の鼓動が灯っているの。輝いて、揺らめいて、消えていく。そして誰も彼も、いずれはその向こうの海に還っていく」
 渚紗に倣うように、足元に広がる学園の敷地からその向こうに在る街並み、更にそのずっと先に広がる海を眺める。遠くにいくほどに光を増し、けれど同時にそれを取り込むように闇もその濃さを増していく。
 この景色が人の命の流れなのだとしたら、それはなんて綺麗なのだろう……そんなことを思ったところで、ザァ……と突然の向かい風に、思わず砂凪は目を細めた。
「ここを卒業したら私たちも、あの明かりのひとつひとつになっていくのよね……」
 つぶやくように続けられた渚紗の言葉は、けれど吹く風に攫われ、砂凪にはそのすべてを聞き取ることができなかった。それでも、渚紗のまとう雰囲気には少しだけ心がざわつく。
「先輩……?」
 いつかと似ている……このまま、この鐘塔の縁からその身を躍らせてしまうのではないか……あの時以上の不安に駆られ、砂凪は渚紗の手を強く握り返した。
「大丈夫ですか?」
「え……? ああ、ごめんなさい。少しぼーっとしていたみたい」
「本当に……」
「え?」
「本当にそれだけですか?」
「ええ……どうして?」
「先輩……無理、してませんか?」
「……何故そう思うの?」
 聞かれ、どう言葉にしていいのか迷いながらも砂凪はゆっくりと口を開いた。
「全生徒の憧れで、先生からの信頼も厚くて、誰の目から見ても完璧で……先輩はちゃんと、そういう人なんだと思います。でも、誰の目もないこの場所で肩の力を抜いて、のんびりと過ごす先輩も、ちゃんと先輩なんです。だから……」
 何を言っているのか、何が言いたいのか……自分でもよくわからなくなってきた。だから……何だというのだろう? その先に続けられそうな言葉を見つけられず口を閉ざす砂凪に、けれど渚紗も視線を揺らすことなく、ただその場で静かに目を細めた。
「砂凪さんといるととても楽しいし、とても楽なの。悪い意味ではなくて……ちゃんと私が私として息をできていた感じ。勿論、私がこれまで秦来渚紗として歩いてきた時間に不満や後悔はないし、そのことに息苦しさを感じたこともないけれど、それでも本当にこのままでいいのか、本当はどうしたいのか……自分がどう生きたいのか、少しわからなくなってしまったのかもしれないわね」
「それは……」と短く言ってから、言葉を選ぶように砂凪が続ける。
「自分自身は大した人間じゃないって、今ぐらいは自由でいたいって、その言葉にも関係があるんですか?」
 砂凪に言われ、目を丸くする。それから困ったように、ふふ……と渚紗は苦笑した。
「よく覚えているわね、そんな言葉」
「何となく違和感があったから……たまたまです」
「そうね……秦来の名がなければ誰も私に興味など持たないだろうし、けれど秦来の名があるからこそ私の自由は有限なの」
「秦来って……先輩の名前、ですよね……?」
「ええ。そして秦来は、この学園の理事長の名でもあるわ」
 風が、背中の中ほどにまで伸びた渚紗の黒髪を、制服のスカートを、大きくはためかせた。
「私ね、許嫁がいるのよ。ここを卒業したら婚約して、大学を出たら結婚する」
「……え?」
「ああ、勘違いしないでちょうだい? 別に政略結婚というわけではないのよ。私も相手のことは知っているし、相手も私のことは知っている。勿論、互いに合意の上でのことよ」
「でも……」と何かを言いかけた砂凪の言葉を遮るようにして、渚紗はつないでいた手をゆるりと解いた。
「ごめんなさい。突然こんな話をされても困ってしまうわよね。さぁ、帰りましょうか。そろそろ……」
 言ったところで、まるでタイミングを図ったようにリンゴーン……リンゴーン……と最終下校時刻を告げるチャイムの音が空気を震わせた。
「ほら」と砂凪を振り返り、続ける。
「早くしないと夕食に遅れてしまうわ」
 そう言ってそっと笑う渚紗に、砂凪の脳裏を微かな疑問がかすめていった。
 つい先ほど渚紗の手を強く握りしめた自分の手を見下ろし、小さく眉をひそめる。彼女はどうなのだろう……? 彼女はどうしたかったのだろう……? たまたま仲良くなりはしたけれどまだ一年と一緒に過ごしてもいない自分の都合と感情で押し留めているだけで、彼女はもしかしたら、その選択を風に委ねているのではないだろうか……?
 そんなことを思った途端、ぞくりと身体が震えた。そんなのダメだ。自分の知らないところで彼女が自分から奪われるかもしれないなんて……
 そんなの嫌だ。
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