第2話 夏

文字数 3,719文字

 結局あの後、砂凪の熱が下がりきったのが連休が明けてからだったということもあり、あの時の埋め合わせもできないままずるずると時間だけが過ぎていった。
 それでも自分が鐘塔に登っていて鍵が開いているであろう時間帯は渚紗に教えてもらっていたので、ふたりで会って話をする機会は、幸いなことにあったりもした。

 一学期末、終業式もクラスのホームルームも終えた砂凪は、足を向けた鐘塔の扉に手をかけその鍵が閉まっていることに小さく肩を落とした。もっとも、ここ最近の渚紗が何やら忙しくしていたことも、だからなのかこの場所にもあまり来ていなかったことも知っている。
「やっぱいないか……」
 鐘塔の壁に背中を預け、はぁ……と深く息をつきながら見上げた空はまだ青くくっきりと輝いていて、砂凪はその眩しさに目を細めた。
「休み前に会えればと思ったんだけどな……」
 つぶやき、ふぅ……と細く息を吐くついでに目を閉じた直後、「誰に?」とたずねる声に驚き目を開いた。
「砂凪さんは誰に会いたかったのかしら?」
 視線の先でふふ……と笑う渚紗に、そのまま目を瞬く。
「渚紗……先輩?」
「校舎や寮ですれ違うことはあっても、ここで会うのも、こうやってちゃんと話をするのも何だか久しぶりな気がするわね。時間、もし大丈夫ならば少しどう?」
 言いながら指先にちゃりと鐘塔の鍵をぶら下げると、渚紗は砂凪が返事をするより先に鐘塔の鍵を開けた。ちらと砂凪を振り返り、小さく微笑む。そのまま何も言わず階段を登っていく後ろを慌ててついて上がると、渚紗はすでに首元から解いたリボンタイを手にはためかせていた。
 階段から顔をのぞかせた砂凪に気付き、渚紗が小さく笑う。
「言いそびれていたけれど、夏服、良く似合っているわ」
「ありがとうございます。先輩は……ちょっと疲れてますか……?」
 少し照れくさそうに答える砂凪の、その後に続いた言葉に「え?」と目を丸くし、それから渚紗は困ったように苦笑した。
「そうね……夏季休暇に入る前にやっておかなければならないことがあって……少し、疲れているかもしれないわね」
 言って鐘塔の縁に腰を下ろす渚紗に歩み寄りながら、砂凪がたずねる。
「やらなきゃいけないことは終わったんですか?」
「ええ、何とか。だからこそこうして羽を伸ばしに来たのよ」
 どこか疲れたように小さく笑う渚紗の背後に膝を付いた砂凪は、その肩にそっと手をかけ口を開いた。
「渚紗先輩」
「砂凪さん? どうかした?」
 肩越しに振り返り聞いてくる渚紗に、肩にかけた手にくっと力を込めながら続ける。
「……ちょっと、休んだらいいです。ここには先輩と私しかいないから、誰の目も気にしないでしたいようにしていてください」
 ゆっくりと引き倒された身体が砂凪の膝の上に頭を乗せ、その場に横たわる。驚いたように目を瞬かせた渚紗は、けれどそれから小さく微笑み、そっと瞼を閉じた。
「膝枕なんて、誰かにしてもらうのはどれくらいぶりかしら……」
「膝枕を誰かにするなんて、私は初めてですよ」
「あら? じゃあ砂凪さんの大事な初めてを、私が奪ってしまったことになるわね」
 ふふ……と目を閉じたまま笑う渚紗に、そのワイシャツの第一ボタンを外しながら砂凪も笑みを返した。
「渚紗先輩にもらってもらえるなら、こんな光栄なことありませんよ」
 その言葉にふっと目を開き、渚紗はその膝の上から砂凪の顔を見上げた。
「……私をあまり、過大評価しない方がいいわ」
「どういう意味です?」
 自分の首元に置かれた砂凪の手を取り、それを軽く持ち上げ目の前に掲げながら続ける。
「言葉通りの意味よ。私自身はそんなに、大層な人間じゃない」
「違います。もしかしたら違わないのかもしれないけど、でもそれを決めるのは先輩じゃなくて周りの人間です」
 砂凪に言われ、目を瞬く。それから目を細めると、渚紗は降参するように小さく笑った。
「あなたはたまに、とても大人びたことを言うのね」
「たまに、っていうのが私らしいですね。でも実際、私はここでのんびりしてる先輩の姿も見てますけど、それでも渚紗先輩は私にとって大好きで憧れる、素敵な先輩です」
 笑顔で断言する砂凪を視線の先に見上げ、「ありがとう」と渚紗が口の中でつぶやいた言葉はたぶん、砂凪の耳には届かなかったのだろう。
「ああ、そうだ」と思い出したように話題を変える砂凪に、渚紗はちらと首をかしげた。
「夏休みの一日、私にくれませんか?」
「え?」
「遅くなっちゃったけど、前回の埋め合わせさしてください。今度こそ先輩のしたかったことしましょう」
「……そうね」
「で、何です?」
「え?」
「だから、先輩のしたいこと。前の時、聞きそびれちゃったから」
「ああ……」とその後に続いた渚紗の言葉に、砂凪は何度か目を瞬かせてから自信満々にうなずき、笑った。

       *

 夏休みに入って間もなくのその日、浜辺に広げたシートに座り、渚紗と砂凪は夏の陽射しを反射して眩しく輝く海を眺めていた。
 夏の只中とはいえ海水浴に適した場所というわけでもなく人影もまばらな海を見ながら、砂凪は手にしたプラスチックカップから伸びたストローに口をつけた。ファーストフードで買ったハンバーガーにかぶりつく渚紗を横目にちらと盗み見てから、まさか……と視線を空へと持ち上げた。
 ──海に行きたいの。海というか……ファーストフードでハンバーガーとドリンクを買って、浜辺に座って海を見ながら食べたいの。本当のことを言うと、実はこっちが本命。
 そんなこと……と思うけれど、それに対する感じ方は人それぞれだとも思う。むしろこういう他愛のないことを今までしてきてこなかったことの方が驚きではあった。
「……あの日の埋め合わせはできましたか?」
 たずねる砂凪に、渚紗は口元の汚れを指先で拭いながら、「ええ」と笑った。
「こんなことに付き合わせてしまってごめんなさいね。タイミングがなかなかなくて……もっとも、気軽に誘えるような友人もいないのだけれど」
 ほんの少しばつが悪そうに渚紗が苦笑する。
「んー……それは私もですか?」
 後ろ手を付き空を見上げていた視線をこちらに戻してきながら聞いてくる砂凪に、「どうかしら……?」と渚紗は小さく首をひねった。
「私は、あなたにならもうどんな私も見せられるような気がしているけれど、でもそれはもしかしたら、あなたにとってみればいい迷惑かもしれないわね? そもそもの始まりは脅しのようなものだったわけだし……」
「脅された側にその自覚がなければ、それは脅しとしては成立しませんよ。だから私は、たまたま渚紗先輩と直接的に知り合うことのできた、ただただラッキーな新入生です」
「そう? そう思ってもらえているのならば嬉しいけれど」
「先輩はどうです?」
「え?」
「今私と、こうして過ごしていることをラッキーと思いますか?」
 砂凪の言葉にゆっくりと目を瞬き、それから渚紗はふわりと笑った。
「ええ……勿論」
 言って立ち上がるとその場にサンダルを脱ぎ、砂凪の前にくるりと回り込んだ。淡いミントグリーンのシフォンスカートを海風になびかせながら、その顔の前に手を差し出す。
「海、入らない? 折角遊びに来たのだから」
「え? でも……」
「勿論、足だけよ」
 戸惑いを察したように先回りして言ってくる渚紗に、何を当たり前のことを……と恥ずかしくなる。差し出された渚紗の手を支えに立ち上がると、砂凪もサンダルを脱ぎ、クロップドパンツの裾を更に少し折り返した。
 渚紗に手を引かれるように波打ち際を歩きながら、砂凪はいまだつながれたままの手元に視線を送った。自分から解きたいとか離したいとかそういった思いは一切ないけれど、果たしてこのままでいいのだろうか……? という迷いもある。
「砂凪さんは……」と唐突にかけられた声に我に返り、顔を上げた。肩越しにこちらを振り返ってきながら、渚紗が小さく首をかしげる。
「明日から実家に帰るのだったかしら?」
「ああ、えっと、今日この後に帰ろうと思ってます。荷物があるから一旦寮に戻ってからですけど」
「あら、そうなの? ならばあまり遅くなってもいけないわね。私のやりたかったことは砂凪さんのおかげですべてできたし、そろそろ寮に帰りましょうか」
 波打ち際を離れ、シートへと足を向け戻りながら言う渚紗にたずねる。
「先輩は帰らないんですか?」
 聞いたところで、その顔がほんの一瞬だけ寂しそうに微笑んだ気がした。
「先輩……?」
 聞いてはいけないことを聞いてしまっただろうか? そういえば……と記憶を辿る。前の大型連休もそうだったなと、今更思い出し砂凪は口をつぐんだ。
「あと半年もしたら、学園を卒業すると同時に家に帰ることになるのだから、今くらいは自由にさせてもらってもいいでしょう……」
 自由……? その言葉の意味を聞き返そうとして、けれどいつの間にシートに戻ってきていたのか、それより先につながれていた手が解け、そちらに意識が奪われてしまった。
 あっ……と、たぶんそれは口には出さずに済んだだろう。
「さぁ、帰りましょう」
 サンダルを履き直しふわと笑う渚紗の顔が、なぜか少し諦観を帯びてみえた。
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