第1話 春

文字数 13,310文字

 全寮制の女子校という閉鎖された世界の中で、その感情は生まれるべくして生まれたものだったと今なら思う。そしてその感情に触れたことを、その感情を抱いたことを、勿論後悔などするはずもない。
 それほどまでに彼女の存在は美しく際立っていて、それでいてどうしようもないほどに危うく、儚かった。
 放課後の鐘塔(しょうとう)に登り、いつかの彼女のようにそこから眼下に広がる街並みを見つめる。前髪を柔らかく揺らす向かい風に目を細めてから軽く持ち上げた自分の手に視線を落とすと、その口元に小さく笑みを浮かべた。
「             」
 つぶやくように口にしてから、その小指に蝶型に結われた赤い糸に、そっと唇を寄せた。

       *

 入学式から数週間が経ち、各人がそれぞれに自分の居場所を見つけだした頃、ひとりになりたくて登った鐘塔の鐘の下が、彼女との出会いの場所だった。
 ワイシャツの第一ボタンを外した首元に緩くリボンタイを結わい、背中の中ほどにまで伸びた綺麗な長い黒髪と、膝下指定の制服のスカートを柔らかな向かい風になびかせる彼女は、今にもその縁から向こう側へと身を躍らせてしまうのではないかと思うほどの危うさをその身にまとい、朝の淡い陽光を全身に受け止めたまま何をするでもなく、眼前の街並みを見下ろしながらただそこに立っていた。
 何て、綺麗……
 自分のことは特段好きでも嫌いでもないけれど、それでも自分ではない誰かをこんなにも儚いと、それだからこそ美しいと感じたのは初めてだった。
 階段を登った先からその横顔を見つめたまま、今この場所にある光景()を、今この場所にある静寂を壊してはならないような気がして、呼吸をすることさえ躊躇いがちに息を呑む。直後、ポケットから短く鳴り響いた小さな電子音に、無意味だとはわかりながらもスカートの上から慌ててその音源を押さえつけた。おそるおそると顔を上げた先で、彼女もまたゆっくりとこちらに目を向ける。
「スマホの持ち込みは、原則禁止されていたと思うのだけれど?」
「あっ……の、これは……その……」
 しどろもどろと口を開いたところで変わった風向きが彼女の追い風となり、風に煽られ翻るスカートの裾と乱れる髪とに、彼女が本当に向こう側へと誘われていってしまいそうに思えて、勢いその身体を抱きとめた。
「わっ……えっと、どうかした?」
 驚きたずねてくる彼女の腰にしがみついたまま、口を開く。
「あ……っと、ごめんなさい。何か、風に攫われていっちゃいそうにみえて……」
 その言葉に何度か目を瞬かせてから、彼女はふふ……と小さく笑った。
「そんなヘマはしないわ。だってここは、私の秘密基地だもの」
「秘密基地……?」
 聞き返す腕の中からするりと抜け出し、彼女が言葉を重ねる。
「あなた、一年生?」
 ブレザーの襟元に入った萌葱(もえぎ)色のラインを指さしながら聞かれ、うなずく。
「あ、はい。桐嶋(きりしま)砂凪(さなぎ)っていいます」
 答えながら視線をやった彼女の襟元に入っているラインの色は臙脂(えんじ)。臙脂色は確か……
「そう。私は秦来(はたらい)渚紗(なぎさ)。三年よ」
「秦来……先輩?」
「渚紗でいいわ」
「え? いや、でもそれは……」
「砂凪さん」
「はい?」
「私があなたのことをそう呼ぶのだから、あなたも私のことは名前で呼ぶべきじゃない?」
 渚紗に言われ、うっ……と言葉に詰まる。今目の前にいるこの美しく、儚い、まるで人の生命(いのち)そのもののようにすら思えてしまう先輩のことを名前で呼ぶなど畏れ多いと思うのに、その雰囲気になぜか逆らえず砂凪はそっと口を開いた。
「……渚紗、先輩」
 小さくその名を口にすると、渚紗はふっとその顔に柔らかく笑みを浮かべた。
「そう。いい子ね」
 言いながら踏み出された一歩に瞬く間に互いの距離を縮められ、その鼻先をふわりと甘い香りがかすめた。
 甘い……けれど甘ったるくなくて、嫌味のない香り。これは……何の香りだろう? そんなことを考えるうちにすっと差し出された渚紗の腕が何かを探るように自分のスカートに伸びてきて、砂凪は小さく息を呑んだ。ごそごそとまさぐるように動いていた手がぴたと止まったと思うと、すぐに大きく一歩、渚紗が足を引いた。
「これは普段から消音設定にしておくことをお勧めするわ」
 砂凪のポケットから抜き取ったスマホに目を向けながら笑う渚紗に、けれど砂凪はバクバクと脈打つ自分の心臓の音に気を取られ、何の言葉も返すことができなかった。
「……砂凪さん?」
 ちらと首をかしげながら顔をのぞき込まれ、我に返る。
「あっ、えっと、すみません」
「構わないけれど……どうぞ?」
 差し出されたスマホに手を伸ばし、砂凪は不安げに首をかしげた。
「没収したり……学園に報告したりはしないんですか……?」
 その言葉に目を瞬かせた渚紗は、小さく苦笑してから自分のブレザーの内ポケットに手を差し入れた。
「今時スマホの持ち込み禁止なんて、時代遅れもいいところだとは思わない? 実際、気付いても目をつむってくれている先生も多いのよ。それに……」
 懐から取り出したスマホを口元に引き寄せ、いたずらに続ける。
「そんなことをしたら、私も怒られてしまうもの」
 言いながら笑う顔が初めて年相応にみえて、そんなことですら頬に熱が集まる。スカートを乱暴にはためかせ、ただでさえ猫っ毛でまとまりの悪い髪を乱す、どこかまだ肌冷たさを残す風が今はとても心地良い……そんなことを思いながら赤みを帯びた頬を両手で覆い隠すように包み込んだところで、リンゴーン……と構内に響く予鈴に、砂凪は慌てたようにぱっと顔を上げた。
「いけない。今日、日直……っ」
 早口につぶやき、ぺこりと渚紗に頭を下げて踵を返す。その手首をぱしと取られ、つんのめるようになりながら砂凪はその場に足を止めた。
「わっ……えと、渚紗先輩……?」
 振り返った先で渚紗が小さく微笑み、その口元にそっと人差し指を立てた。
「この場所のことも、ここで私に会ったことも、他の人には言ってはダメよ?」
「え……?」
「そうしないと、もうここには入れてあげないから」
 どういうことだろう……? 軽く首をひねりながら、それでもここで食い下がる必要も特にない気がして、「わかりました」と砂凪は素直にうなずいた。

 放課後、日誌の提出に教員室へ向かう途中、窓向こうの渡り廊下に渚紗の姿を見つけ足を止めた。
「桐嶋さん? どうかした?」
 一緒に教員室へ向かっていたクラスメイトが首をかしげ、砂凪の視線の先をたどる。
「ああ……秦来先輩? 綺麗な人だよね。あの容姿と立ち振る舞いで誰でも分け隔てなくってなれば、そりゃ全生徒の憧れにもなるっていうか」
「え? 知ってるの?」
「知ってるも何も……生徒会長でしょ? 入学式に挨拶もしてたじゃない」
 言われ、あー……と薄く目を閉じる。あまり……どころか、まったく記憶にない。というか……
「あれ?」とつぶやき、首をひねる。
「どうしたの?」
 短く聞かれ、砂凪は「ううん」と首を横に振った。
「何でもない」
「そう? ならいいけど」と怪訝そうにしながらも先に歩きだす後ろについて歩きながら、砂凪はうーん……と眉をひそめた。
 日誌を届け、教員室を出たところでクラスメイトとは別れ、砂凪はひとり廊下を歩きながら腕を組んだ。思い出せば思い出すほどに……
「私、入学式出てなくない?」
 廊下の真ん中でぴたと足を止め、誰にともなく言ったところで、ふふ……と後ろから笑う声にびくりと肩を跳ねさせた。そろりと肩越しに振り向き、つぶやくように口を開く。
「渚紗先輩……」
「まさか入学式に出ていなかったなんて、さすがの私も思わなかったわ」
「いや、あの……それは、ですね……」
 あたふたと言い訳を探し彷徨う視線が渚紗の首元に留まり、砂凪はあれ? と小さく首をかしげた。お手本のようにきっちりと留められたボタンに、しっかりと結われたリボンタイ。けれど今朝は確か……その視線をたどり、渚紗は気付いたようにすいと砂凪との距離を詰めた。
「何か気付いちゃったかしら?」
 砂凪の耳元でいじわるくささやくように言ってから距離を取り直し、自分の口元に人差し指を立てる。それから話を戻すように小さく微笑んだ。
「別に責めているわけではないから心配しないで。でもそうね、これでようやく納得がいったわ」
「納得?」
「あ、いた。会長」
 砂凪が短く聞き返したところで廊下の奥から声がかかり、渚紗はそちらに目をやった。
「今行くわ」
 言って、そっと肩を落とす。改めて砂凪に視線を戻すと、ちらと首をかしげ、たずねた。
「今日はこの後、生徒会の方に顔を出さなくてはいけないのだけれど……夕食の後、談話室で少し話せないかしら?」
「え……大丈夫です、けど……」
「よかった。じゃあまた、後でね」
 ひらりと手を振り廊下を去っていく渚紗の背中を見送りながら、砂凪は小さく首をかしげた。わざわざ約束を取り付けてまで話とは、一体なんだろう? それに納得とは、何に対するものだったのか……?
 廊下を渚紗とは反対方向へ歩きながら、うーん……と首をひねる。何か粗相を……まぁ、していないとは言い難いけれど……いかんせん思い当たることが多すぎる。
 砂凪は考えることを放棄するように窓の向こうへ目を向けると、黄昏の空に沈む鐘塔の先端を、何とはなしにじっと見つめた。

 放課後の約束通り、夕食を終えた砂凪と渚紗は談話室に置かれた小さなソファに並んで腰を下ろしていた。互いにすでに制服は脱ぎ、長い髪をクリップでひとつにまとめた渚紗はミモレ丈のニットワンピースに薄手のシャツを羽織り、砂凪はTシャツの上にコーデュロイサロペットを合わせ、耳の後ろで緩くひとつに結わった茶色味の強い猫っ毛が、申し訳程度に肩の前に垂れている。
 誰もが見慣れた制服とは違う服に身を包みわいわいと賑わう談話室で、どうにもいたたまれない沈黙に先に音を上げたのは砂凪だった。
「あの……」とちらと横目に渚紗の様子をうかがうと、すぐにこちらに顔を向けた渚紗と目が合い、そのまま軽く首をかしげることで先を促された気がして、砂凪は口を開いた。
「生徒会長……だったんですね」
「そうよ。まさか知らないで私のことを見ていたとは思わなかったから、余計な脅しをかけてしまったわ」
 可笑しそうに笑う渚紗に、首をかしげる。
「脅し……?」
「そう」と短くうなずき、渚紗が続ける。
「私のこと、他の人には言ってはダメよ?」
「あっ」
 あれはそういうことだったのか……
「私の不用意で一般の生徒をあの場所に入れてしまった上に、あんなふうに制服を着崩しているところを見られてしまったのだから、どうにか隠匿しておかなくては、と思ったのだけれど……杞憂というか、あなたがそこまで深くを考えるタイプではなかったみたいで助かったわ」
「あの程度、着崩してるとは言わなくないですか……?」
 言ってから、先ほどの渚紗の言い回しに、おや? と微かに首をひねった。
「というかさっきの言葉、褒めてません……よね?」
「そんなことないわ。絶大の信頼をすら持っているわよ」
 隙のない微笑みとともに言われ、ふぅ……と小さく息をつくついでに肩を落とした。
「からかってますよね?」
「あら、そんなつもりもないのだけれど……気分を害してしまったのなら謝るわ。ごめんなさいね」
「いいですよ、別に」
 ソファに身を沈めながら言う砂凪を横目に見てから、「ああ、そうだ」と渚紗は何かを思い出したように、ワンピースのポケットからスマホを取り出した。
「砂凪さん、よかったら連絡先を交換しない?」
「うぇっ……?」と思わず変な声が出た。
「あっ、の……え? 私とでいいんですか?」
 砂凪の言葉に目を瞬かせ、渚紗は困ったように苦笑した。
「私から言いだしたことなのだから、よくないわけがないでしょう?」
 確かに。
「えっと、じゃあ……よろしくお願いします」
 自分もポケットから取り出したスマホでメッセージIDを交換したところで、その連絡先を見下ろしたままふふ……と渚紗が小さく笑った。
「渚紗先輩? どうかしました?」
「あ、ううん。何でもないの。ごめんなさい。それから……」
 言って、ふっと砂凪にいたずらな笑みを向けた。
「立ち入り禁止の鐘塔で制服を着崩していた私と、入学式をサボったあなた。互いの秘密を知ってしまった者同士、これからもよろしくね。砂凪さん」
「っ……こちらこそ、よろしくお願いしますっ」
「改めて脅したつもりだったのだけれど、まるでお見合いでもしたみたいね」
 がばと大きく頭を下げる砂凪に、渚紗は何度か目を瞬いてから可笑しそうにくすくすと笑った。

       *

 連休も近付くその日の放課後、久しぶりに鐘塔へと足を向けた砂凪はその入り口となる扉のドアノブに手をかけ、足を止めた。止めたというよりは鍵のかかった扉に、足を止めざるを得なかったといったほうが正しくはあるけれど。
 ちらと辺りを確認してから、スカートのポケットからこっそりとスマホを取り出す。画面を開くとそこには確かに、〝放課後にあの場所で〟と渚紗からのメッセージがあり、どうしたもんか? と首をかしげた。〝あの場所〟がここじゃなかったらどうしようか……? そんなことを考えながらスマホをポケットに押し込み、念の為にと他の場所にも考えを巡らせたところで、後ろから近付いてくる足音に砂凪はぴゃっと跳ね上がった。ドキドキと心臓を脈打たせたままゆっくりと振り返った先で、渚紗が申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめんなさい、待たせてしまったかしら? って、どうかした?」
 鐘塔の壁と一体化するようにそこに張りつく砂凪に、目を瞬かせる。
「渚紗先輩……いえ、全然……あの、これはその、ちょっとびっくりしちゃって……あ、でもここ、鍵閉まってるみたいですよ?」
「それは……そうでしょうね?」
 砂凪の言葉に、それを当然のこととして小さくうなずく。
「……え?」
「だって鍵、ここにあるもの」
 ブレザーのポケットから骨董品のような小さな鍵を取り出しながら不思議そうに首をかしげる渚紗に、砂凪はわけがわからず目を瞬いた。その視線を受けたまま慣れた手つきで鐘塔の鍵を開けると、渚紗はちらと顔を上げ微笑むことで砂凪を中へと促した。
 階段を登り鐘の下に出ると、暖かな風がふわと優しく頬をかすめた。思わず目を細め狭まった視界の奥で、渚紗が首元のリボンタイを解きながら外壁の向こうに足を下ろす形でその縁に腰かける。視線の先で、風になびく髪を耳にかけながら渚紗が口を開いた。
「言ったでしょう? ここは私の秘密基地だって」
「……はい」
 初めて渚紗とこの場所で会った時、その言葉の意味をあまり深く考えはしなかったけれど、確かに彼女はそう言っていた。
「この鐘塔、校舎からも見えるしみんなここの存在は知っていると思うのだけれど、あまりここまで来ようとする人はいないのよ? 単純に構内の外れにあるから少し来にくいというのもあるでしょうし、そもそも鐘塔が構内にあるということを知らない人もいるかもしれないわね。まぁ実際、ここの鐘が鳴るのは年に数回しかないから、あまり気にも留められていないのでしょうけれど」
 渚紗の言葉を聞きながら、はあ……と曖昧にうなずく。何が言いたいのだろう……?
「何が言いたいのだろう? と思った?」
 一言一句違わず思考を見透かされ、砂凪は慌てたようにわたわたと胸の前で両手を振った。
「いやっ……え? あの、そういうわけでは……」
 その様子にふっ……と薄く笑ってから、渚紗は続けた。
「もとよりそれほど人が寄り付く場所ではないけれど、それはそうとしても、こんなところに一般の生徒がおいそれと入れるわけがないでしょう?」
 言われてみれば確かに、と納得もいく。
「じゃあ……」
 何故? と言いかけた言葉を呑み込み、思い付いたように砂凪は口を開いた。
「生徒会長の特権……ですか?」
 その言葉にふふ……と笑み、渚紗は答えた。
「特権ではあるけれど、生徒会長の……というわけではないわね」
 ならば他に何があるというのだろう……? 首をひねったところで渚紗がそれ以上を伝える気はなさそうに思えたので、砂凪もこれ以上は聞かないことにした。

 それからしばらくの沈黙を置いてから、「そういえば……」とつぶやくように渚紗が言った。眼下の街並みに落としていた視線を砂凪に向け、困ったように微笑する。
「いつまでそこに立っているの? こっちに来て座ったらどう? ここから見える景色はとても綺麗よ」
「渚紗先輩もすごく綺麗です」
「え?」と目を瞬かせる渚紗に、若干の時間差を持って、かぁ……と頬が赤くなる。
「あっ……えっと、今のは……」
 思わず口をついて出てしまった言葉に頭から湯気が昇りそうだ。
「ありがとう。そう言ってもらえるなんて、嬉しいわ」
 それでもふわりと笑い返してくる渚紗に、ああ、花のように笑うってこういうことなんだろうな……と砂凪はその笑みにすら見惚れるように息を呑んだ。
「高所恐怖症でなければ、どうぞ」
 そのまま一連の流れのように目線で控えめに促され、そろと渚紗の隣に腰を下ろす。その横顔をちらと盗み見てから、柔らかく吹く風に乗せるように、静かに渚紗が口を開いた。
「陽が長くなってきたわね……海がまだ、青く見えるもの」
 眼下に広がる街並みを抜け、更にその奥に見える海を指さしながら微笑む。その指先をたどり何か言葉を返そうとしたはずなのにそれは声にならず、それはそこに浮かんだ笑みに向く憧憬を含む小さな吐息となって口から零れ落ちた。
「もうすぐ大型の連休に入るでしょう?」
 何の前触れもなく突然聞かれ、瞬時に思考が追い付かない。連休……? としばらく考えてからようやく、ああ……と砂凪は思い出した。
「そうですね。この学園に来てから、もうそんなに経つんだ……」
 後半はひとり言のようにつぶやく。
「大半の人たちは休み中実家に帰るようなのだけれど、あなたもそうするのかしら?」
 渚紗に聞かれ、あー……と砂凪は言葉を濁した。
「いえ、私は寮に残るつもりです」
「あら、そうなの?」
 意外そうに軽く眉を跳ね上げさせる渚紗に、「はい」とうなずく。
「家に帰っても弟たちが煩くてゆっくり休めないだろうし、それならここに残ろうかなって」
 外壁の向こうでゆらゆら足を揺らし、ちょいと首をかしげながら言う砂凪の横顔を眺めてから、「それならば」と渚紗が提案するように胸の前でぽんと小さく手を打った。
「私と一緒に出かけない?」
「……はい?」
「私も実家に帰る予定はないのだけれど、寮に閉じこもっているのも窮屈でしょう? 丸一日とまでは望まないから、砂凪さんさえよければ少しだけ付き合ってもらえないかしら?」
「えっ……」と言葉に詰まってから、砂凪は大きく首をうなずかせた。
「勿論です。少しだけといわず、丸一日でも」
「ありがとう」
 意気込む砂凪に目を丸くし、それから渚紗はふふ……と小さく笑った。

       *

 連休初日には帰省する人たちの大部分が実家へと帰っていき、三日目ともなれば普段は賑わう寮の談話室も、時計の秒針が時を刻む音すら聞こえるほどにしんと静まり返っていた。
 支度を終えた砂凪が何をするでもなくぼんやりとソファに身を沈めていると、渚紗が談話室へと入ってきながら静かに口を開いた。
「人がいなくなると、この寮も随分静かになるわね」
 その声ですら、今のこの空間にはよく通る。
「ごめんなさい、今日も待たせてしまったかしら? 誰かと一緒に出かけることなんてあまりないから……」
 言いながらデニム地の上着に合わせたマキシ丈のスカートを軽く持ち上げ、照れくさそうに続ける。
「何を着たらいいのか悩んでしまって……少しカジュアルすぎたかしら……?」
 心配そうに肩をすぼめる渚紗に、ぶんぶんと大きく首を横に振りながら、砂凪は勢いよくソファから立ち上がった。
「全然っ。良く似合ってます」
 前のめり気味に言ってくる砂凪に驚いたように目を瞬かせ、それから渚紗ははにかんだような笑みをその顔に浮かべた。
「どうもありがとう。砂凪さんも、普段はゆったりとしたシルエットのものが多いけれど、細身のパンツも良く似合っているわ」
 思いがけず入った渚紗からのカウンターに、うっ……と言葉に詰まる。
「私の為に、少しお洒落をしてきてくれたのかしら?」
 言って、ふふ……といたずらっぽく笑うと、渚紗はくるりとその場で踵を返し、続けた。
「というのは冗談。でも、良く似合っているというのは本当よ」
 肩越しに振り返ってきながら微笑む渚紗に、嬉しいのか恥ずかしいのか……砂凪はニットチュニックの裾を軽く握りしめたまま、何も言い返せなくなってしまった。
「じゃあ早速、行きましょうか」
 鈍く思考の空回る砂凪を促すように言って、渚紗が談話室を後にする。外へと出る廊下でようやく追い付いた渚紗の隣を並ぶように歩きながら、その横顔を盗み見るようにして砂凪はたずねた。
「そういえば渚紗先輩、今日はどこか行きたいところがあるんですか?」
「ええ、実は私……」
 躊躇いがちに言いながら玄関をくぐり、足を止めて後ろを振り返った視線の先で、砂凪の身体が足元の段差を踏み外しがくんと崩れた。
「わっ……」
「危ないっ」
 伸ばした腕で、慌ててその身体を支える。腕の中に倒れ込んできた砂凪から感じる体温に、あれ? と渚紗は小さく眉をひそめた。
「あ……すみません、ありがとうございます。ちょっと躓いちゃって……」
 あはは……と苦笑いしながら離れていこうとする砂凪の身体を更に抱き寄せ、口を開く。
「砂凪さん……ちょっといいかしら?」
「えっ? あの……」
 驚いたように目を丸くする砂凪に自分の顔を寄せ、互いの額と額とをこつんと軽く触れ合わせさせる。
「やっぱり……」とつぶやき、渚紗は砂凪の目を至近距離からのぞき込んだ。
「熱があるでしょう?」
 言われ、誤魔化すようにゆるゆると視線を泳がせる。
「顔も赤いし……」
 優しく頬に触れてきた渚紗の手の冷たさが心地良くて、ほぅ……と肩の力が抜けた。
「目も潤んでる」
「……気のせいじゃないですか?」
 それでも頑なに目を合わせようとしない砂凪に、渚紗は呆れたようにはぁ……と大きく息をついた。
「どうしてそんな無茶をするの? 体調が悪いのならちゃんと言ってちょうだい。ほら」
 言って砂凪の手を取ると、そのままつないだ手を引くように寮へと足を戻した。
「今日は大人しく休んでいなさい」
 足をもたつかせつつその後を追いながら、砂凪は渚紗の背中に向けて口を開いた。
「でも……」
「でも、じゃないでしょう? このまま出かけてもし悪化でもしたらどうするつもり? そんな状態のあなたを連れ回した私に、責任と罪悪感を負わせたいの?」
「そういうわけじゃないですけど……」
「言いたいことがあるのならば後で聞くわ。だから今は着替えて、温かくして横になっていなさい」
 談話室を抜け、手を引いたまま砂凪を部屋へと送り届ける。自室へ戻り、ちらとこちらに目をやってから諦めたようにのろのろと服を脱ぎ始めた砂凪の背中に、渚紗は念を押すように声をかけた。
「お水をもらってくるわ。着替えたらちゃんと寝ているのよ。いい?」
「さすがにこの状況になってまで無駄な抵抗はしませんよ……」
「それならばいいけれど」
 薄く笑って言い置き、砂凪の部屋を後にする。後ろ手に扉を閉めると、まったく……とでもいうように渚紗は小さく肩を落とした。
 自分も簡単に着替えを済ませてから食堂で水をもらい、砂凪の部屋へと戻る。軽くノックをしてから扉を開くと、脱いだ服を椅子の背にかけたまま、砂凪は布団の中に潜り込んでいた。枕元に寄り、その額にそっと手のひらを当てる。
「熱い……」
 つぶやいたところで閉じられていた砂凪の目が薄く開き、渚紗は静かに続けた。
「ごめんなさい、起こしてしまったかしら?」
「いえ……起きてはいました」
「そう。具合はどう?」
「……熱があるって認めたら、怠くなってきました」
「それはよかったわ」
「よかったんですかね……?」
「諦めて休む気になるでしょう?」
 それは確かに……
「お水をもらってきたわ。薬も。食後でなくても大丈夫なものだから飲んでおくといいわ」
「ありがとうございます……」
 起き上がり差し出された錠剤とグラスを受け取ろうとして、けれど身体がその動かし方を忘れてしまったようにまったく動かず、あれ? と顔をしかめた。
「砂凪さん? 大丈夫?」
 すぐに心配そうに渚紗に顔をのぞき込まれ、これ以上迷惑をかけないようにと、砂凪は小さく口を開いた。
「あの……大丈夫です。ちょっと身体を、上手く動かせないだけで……」
「正直ね。けれどそれを大丈夫とは言わないと思うのだけれど?」
 呆れたようにちらと首をかしげる渚紗に、慌てて言い加える。
「少し寝たら治ると思うので、先輩はもう戻ってください。いつまでもここにいたら風邪移っちゃうんで」
 布団の中でもそもそと言われた言葉に、渚紗はふぅ……と小さく息をついた。
「あなたが私の心配をしようだなんて、百年早いわ」
 言って、薬を自分の口に含むと、続けて手にしたグラスに口をつける。口の中に水も含むと、渚紗は顔の横に落ちてくる髪を耳にかけながら砂凪の上にゆっくりと上体を屈めた。
 渚紗の顔が間近に迫ってきているというのに、熱のせいか上手く頭が回らない。あの……と開きかけた口がそのまま渚紗の唇に塞がれたと思うと、冷たい水が薬とともに押し込まれるように口の中に流れ込んできた。わけもわからないまま反射的にそれを飲み込む。こくっ……と小さく喉の鳴る音に、渚紗はそっと砂凪の唇から自分の唇を離した。
「いい子ね」
 ささやくようにそう言う吐息が、いまだ唇に直に触れる。
「……何ですか、今の」
「風邪を引いた時こそ、水分補給と薬は大事よ」
「そうじゃなくて……」
「じゃあ、何かしら?」
 小さく首をかしげながら不思議そうに聞き返され、言葉に詰まる。あれ? ああでも、風邪の時ってこういうものだったかな……? 思考が、完全に正常な判断を下せなくなっている。何か言わなきゃ……えっと、何だっけ……ああ、そうだ。
「風邪……移っちゃいますよ……?」
 小さく発せられた砂凪の言葉に、渚紗はふっ……と笑みを返した。
「構わないわよ。私に移して治るというのなら、移してしまいなさい」
 そういうわけにもいかないだろうと理性の部分ではわかっているはずなのに、その言葉に甘えたくなる。
 側にいて欲しい……そう口にしたのかどうかも曖昧なうちに思考は微睡みの中に溶け、その奥に揺蕩う暗闇と同化していった。

 どれくらいの時間を眠っていたのか、薄く開いた視界はほんのりと薄暗い。けれど陽が落ちてきているのとは少し違う。これは……カーテンが閉まっている? 朝、開けたと思ったけれど……そんなことを思いながら寝返りを打ち、ベッド脇に見えた誰かの姿にそっと視線を持ち上げた。
 薄暗がりの中、閉まったカーテンの隙間から潜り込んでくる陽射しが細く光の帯を作っている。彼女はその中に唯一の影を落としながら浅く椅子に腰掛け、光と影との両方をその身にまとったまま、俯くように静かに自分の手元に目を落としていた。
「……綺麗」
 つぶやき、目を細める。
「あら、目が覚めた?」
 砂凪の言葉に反応するように、渚紗が本に落としていた視線を上げた。
「気分はどう?」
「今、一気に浄化された気分です」
「えーっと……」と何度か目を瞬いてから小さく笑う。
「よくわからないけれど、良くなっているのなら何よりだわ」
 言いながらその場に立ち上がると椅子の上に本を置き、砂凪の額にそっと手を当てた。
「薬が効いたかしらね」
「あの……」
 短く聞いてくる砂凪に、何? とたずねる代わりに小さく首をかしげる。
「もしかして、ずっといたんですか?」
「ずっと……ではないわ? 食堂にお水をもらいに行ったり、本を取りに部屋に戻ったりもしたし」
 ふふ……といたずらっぽく笑う渚紗に、砂凪は布団の中でそっと肩をすくめた。
「それはもう、誤差です」
 言ったところでただにこりと微笑を返され、何も言えなくなってしまう。諦めたように寝返りを打ち直し黙ったまま天井を見上げ、それから砂凪は気付いたように「そういえば……」と口を開いた。言葉の選択がなかなか難しい。
「どうしてここに……えーっと、いてくれたんですか?」
 砂凪に聞かれ、渚紗はちらと首をかしげながらふっと目を細めた。
「あなたからのお願いだったから」
「私の?」
「ええ。側にいて欲しい、って」
「えっ……」と思わず言葉に詰まる。うとうととした意識の中、確かにそんなことを思った記憶はあるけれど、まさか口に出していたとは……
「何か……重ね重ねすみません……」
「何故謝るの? 体調が悪い時には、誰だって心細くなるものでしょう?」
 本を取り上げ、椅子に座り直しながら渚紗が続ける。
「私もひとつ聞きたいのだけれど……」
「何ですか?」
 視線だけを渚紗に向け、たずねる。
「何故体調が悪いのを隠そうとしたの?」
「それは……」
 不思議そうにこちらを見てくる視線に、砂凪は布団を鼻の上まで持ち上げてきながら言いにくそうに口を開いた。
「……行きたかったんです。折角先輩が誘ってくれたんだから、一緒に出かけたかった」
「そんなことで?」
 驚いたように目を丸くされ、砂凪は抗議するように小さく頬を膨らませた。
「先輩にとってはそんなことでも、私にとってはそんなことじゃないんです……嬉しかったんです。すごく。だから……」
 もそもそと言ってくる砂凪に、渚紗はふぅ……と呆れたように肩を落とした。
「休みは今日だけではないし、連休が明けてしまったとしても休みがないわけではないのだから」
「そうですけど……他の人たちが実家に帰っていて、でも寮に残っていた渚紗先輩に誘われて一緒に出かけるっていうのが、何かこう、いいなって……」
「何かいいな、ね……」
 つぶやくように繰り返され、漠然としたその理由に叱られてしまうかな……? とちらと盗み見た渚紗の顔に楽しそうな笑みが浮かんでいて、あれ? と砂凪は目を瞬いた。
「もうひとつ聞きたいことがあるのだけれど、いいかしら?」
「はい……?」
「もし具合が悪かったり、悪くなったりしたら、ちゃんと言ってちょうだいね?」
「わかりました」
 うなずく砂凪に何かを言いかけ口を開いた渚紗が、「……ごめんなさい」と言葉を修正した気がして首をひねる。
「ひとつではないかもしれないわ」
「別に、いいですよ」
 そんなことを気にするのかと、少し可笑しくなってしまい小さく笑った。
「責めたいわけではないから、それは先に言っておくわね?」
「はあ……」
「入学式に出なかったのはどうして?」
 聞かれ、あー……と一瞬言葉を濁す。
「出なかったというか、出られなかったというか……」
「出られなかった?」
「えーっと……式の前に構内を探検しようと思って、そしたら時間に戻れなくなっちゃったんです。だって、こんなに広いと思わなかったんですよ……そろそろ戻らないとと思ったらここどこ? ってなるし、時間もないしで……」
「つまり構内で迷子になっていた……と?」
「つまり……そういうことですね」
 思ってもみなかった返答に、思わずくつくつと小さく笑みを零した。
「ああ、でも……」と続く砂凪の言葉に、渚紗はちらと顔を上げた。
「その時にあの鐘塔も見つけたんで、渚紗先輩と話すきっかけをもらったと思えば、今となっては安いもんですよね」
 あはは……と少し照れたように笑う砂凪にふわと笑みを返すと、渚紗は静かに椅子から腰を浮かせ、口を開いた。
「そうね。それについては私も同意見だわ。おかげであなたという可愛い後輩と仲良くなる機会をもらえたのだもの」
 言いながら近付いてくる渚紗の顔に、え……? と思考が追い付かないまま、それでも反射的にぎゅっと目をつむる。直後、こつんと額同士が軽くぶつかり合う音に、砂凪は薄く目を開いた。
「顔が赤いし、熱もまだ下がりきっていないわね」
 至近距離から見上げる渚紗の端正な顔立ちに、余計に頬が熱くなる。
「体調が万全ではないのに長居してしまってごめんなさい。私がいても休まらないだろうし、部屋に戻るわね。食堂には砂凪さんのことは伝えておくから、何か食べられそうなら声をかけるといいわ。それじゃあ、お大事に」
 ベッド脇に引き寄せてきていた椅子をテーブルの前に戻し、部屋を出ていこうとする渚紗を、「あのっ……」と砂凪は呼び止めた。後ろを振り返り首をかしげてくる渚紗に、続ける。
「今日はすみませんでした。何か、こんなことになっちゃって……」
 言ったところで、「本当に……」と小さく息をつかれ、軽く布団を握りしめた。
「そう思うのなら早く元気になってちょうだい。でないと埋め合わせのしてもらいようもないわ」
 言ってくすりと笑う渚紗の、そのちょっといじわるな笑みにさえも頬が赤くなるのを感じた。
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