第1話 あいりんの刑事

文字数 941文字

 
○大阪あいりん地区 、西成警察署 昭和60年12月

「あいつは、ここにはおらん。東や東に逃げたんや、間違いない」、
 捜査一課の堀一平警部補(55)は階下の労働者を見つめながら呟いた。

「また例の野球賭博絡みの案件ですか。もうどこぞで死んどるちゃいますやろか。大阪湾にでも沈められとったら見つかるもんも見つかりゃしまへんで」、若手の島陽介巡査長(28)が声を掛けた。

「あいつは生きてる。わいには分かるんや。これは長年デカをやってきたワイのカンや。西成やなかったら、東京の新宿歌舞伎町か池袋の繁華街…いや山谷ちゃうか」
 堀は、目を細めて遠く東の空を眺めた。

歳が詰まったあいりん地区に午後から降り出した小雨の雨足が強くなり、それが霙に変わった。

「霙や、島見てミィ。あのオッチャン大きな頭陀袋担いでえらいこっちゃ」、霙の降る寒い日に暖かいビルディングの中で過ごす事ができる。人間の幸せとは、こんなに小さくささやかな所にあるように思える。しかし、人間は想像する生き物だから、過分な事を求めて転落し、犯罪に走るのだと。

労働者が重たい足取りで、あいりんの労働者センターに入って行く。
ドヤの前で値段交渉しているものもいる。

「警部補、コーヒーでもいれましょか。砂糖は入れまへん、ブラックでっせ」
、島が堀の血糖値を慮ってコーヒーブレイクに誘った。

「せやな、ちぃと冷えてきたで」、堀は階下の労働者を見て目を細めた。

労働者の群に霙が容赦なく降り注いでいた。

「ワイも来年定年や、この件だけはどうも頭から離れんのや、上に言って無理を承知で上京するつもりや」、コーヒーカップを傾ける堀の目が何かを見つめていた。

「人は、みな真面目に努力してるんや。けどうまくいかなくなたら、魔がさすこともあるんや。特に金が絡むとやで」、堀はコーヒーを一口含んだ。

「せやけど、法を犯したモンを見逃すわけにはいかん。世の中がめちゃくちゃになるよってな、そこに同情の余地などないんや」堀は、コーヒーカップを片手に再び階下に目を移した、「人生は、辛い。けど前向いて生きなあかん」。

「警部補、御一緒させてください」、若い島が何かを決意した。
島は、警視総監賞を何度か受けているこの老刑事を尊敬していた。




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