第11話 新しき生命

文字数 880文字

“みや子へ

私は、これからグラウンドで出会ったかけがえのない人を守るために、野球賭博の元締めに話をつけに行きます。

もし、私の身に何か起きましたら、大地の事はくれぐれも宜しく、このことは決して言わないように。

昭和○年○月○日 中川大輔 “

みや子は、堀から預かった手紙を居間でしみじみと見ていた。

亡夫の筆跡が懐かしい。

人の気配を背中に感じた。きくが背後に立って、何か怒っているように見える。

「何て書いてあるんだい?」、
みや子は、咄嗟に後ろ手で手紙を隠したが、突然の嘔吐が突き上げ台所に走った。

みや子は、流し台で激しく嘔吐した。

「刑事さんが、夏みかんなんて言うからおかしいと思ったんだ。みや子、明日産婦人科に行くよ!」
、きくの目は、つり上がっていた。

「な、何の為に?」
みや子が、手で口元を拭い振り向いた。

「決まってるだろ、子供を降ろすんだ!」
きくは、戦前の昔気質の女であった。


「い、いやよ。私、産むわ」、ミヤコが抗すると、きくは、反射的にみや子の頰を激しく平手打ちした。

「産めるわけないだろ、警察が追ってるお尋ねモンの子なんか、馬鹿言ってるんじゃないよ」、きくが口角に泡を飛ばした。

「大地には、父親が必要なのよ。それはお母さんも知ってるはずよ」、ミヤコの双眸から涙が流れた。

きくは、中川家の女につくづく男運がないと思った、「私が、おまえをお腹に宿した時、お父さんは兵隊で満州にとられて戦死した。それから塗炭の苦しみを味わって、この豆腐店を女手一つで支えてお前を育てた。おまえが成人したときは、そりゃ嬉しかった。野球選手が婿入りしてくれた時は、引退後に店を手伝ってくれるというから過分の幸せとも思ったけど、結局お前まで寡婦になった。それで、今度はお尋ね者かい」
きくは、それきり沈黙した。

深夜の居間で、母と娘は同じ境遇を繰り返し反芻していた。

「私、人生をやり直す。あのひとと」
、みや子が呟いた。

「できやしないよ」、きくはそれだけ言うと、みや子を恨めしい目で見た。

掛け時計は、すでに丑三つ刻を優に回っていた。





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