第2話   そもそものきっかけ

文字数 3,265文字

翌朝、枕もとのスマートフォンが私の睡眠を止めた。

「もしもし、健司か。お父さんだ。起きてるか。」
「おはよう、いや、いまこの電話で起きたよ。」
「おお、それはお疲れさまでした。急ぐことはないぞ。幸一が、2週間の予約を
したと言っていた。それで間に合うのか。」
「それは親父の話次第だろう。ここで2週間はたまらないから、あとで自分で手配
するよ。しばらくぶりの日本だから、友人にも、仕事先の世話になった人にも会いたいんだ。」

「おお、それはそうだな。今日は8の日で、薬師さんだから、お参りしたら家に来いな。」
思いのほか元気そうな父親の声を、寝ぼけながら聞いていたが、最後の「8の日」で
今日が2月8日だということを再認識した。

そういえば、ハワイを出るときにはショッピングモールはバレンタインの飾りで
いっぱいだった。

私には兄がいる。

兄は私より3年早く生まれた。3年違いというのは、日本の教育システムにおいては
「重ならない」という微妙な年数を過ごすことになる。
中学校、高校は同じ学校に行ったとしても、重ならない。
けれども人の記憶には残る年数なので、たとえば兄の担任の先生が、私を新入生で見つけて声をかけてくる場面などがあった。

街の大きくはない印刷所の息子として生まれた私たちは、仲の良い兄弟だった。
それは「兄弟は争っちゃいかん。」という両親の教えによるものだ。
兄弟だからこそ、個性が違う。
3年早く生まれた兄が、弟より力が強いことは当然だ。
また弟ができないことを兄が出来るのも、兄が苦手なことを弟が出来たとしても、親にとっては普通のこと。必要以上に叱ったり褒めたりしないことが、両親の子育てポリシーだったらしい。

 だから近所でも商店街でも、私たち兄弟は、大人たちから可愛がられた。
「幸一くんは、健二ちゃんの面倒見がいいねぇ」と言われるのが兄の勲章。
「健ちゃんは、優しいお兄ちゃんがいて、いいねぇ」が私の自慢。
それでも、然るべきタイミングでおとずれた思春期には、口数も少なくなり、一緒にいる時間も激減していく。3年違いとは、そういうタイミングだ。

兄は実家を継ぐ覚悟は無い、と私は感づいていた。明確な理由はないが、兄弟の直観だ。
アルバイト先だった大手レストランチェーンに、店長推薦で入社した。印刷屋とは言え、自営業だった我が家は、誰のおかげで飯が食えるのかをよく理解していた。
すなわち「お客様のおかげ」である。
子供のころから、自然に「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」が言えた。しかも「心から」。大人たちは、そんな兄と私を、本心から感心したものだ。
そして商店街の会合では、近所の自営業の人たちは、口々に父に言った。
「あんたは幸せ者だ」と。

 父を不幸にするつもりはさらさら無かったが、結果として兄はレストランチェーンに就職後、職場結婚をして、義姉の実家に近い街に移り住んだ。
父も母も何も言わなかったのは、来る将来に「印刷所」がしりすぼみになることを予測していたのだろう。業界団体の理事をしたり、商店会の役員をしていれば、自ずとわかることだ。
そして私もサービス業に就職した。実家通いだったが、週末はほとんど帰れなかった。職場近くのビジネスホテルが定宿となった。

2月8日(金曜日) 午後4時 新井薬師 ゆうロード 居酒屋「和円」さんに集合。

世界中でコロナウイルスの影響が叫ばれて久しく、ハワイではマスクをする人もほとんどいない1月15日に、兄からLINEが送られてきた。

真っ先に思いついたのは、父か母が倒れたか、と心配した。ならば〈至急帰国せよ〉のはずだと思いつつ<なんで?何かあった?>と返答した。

<親父が印刷所を閉める。その説明会をするって。>
<なんで、その日なの>
<知らん。金曜日夕方なんて非常識だ、と言った>
<で、なんだって?>
<一生のお願いだから、2月8日から2週間、おまえに日本にいてほしいって>
<なんで直接言ってこないの>
<知らん。言いにくかったんじゃないか。9年ぶりだし。>
<そうか、そうだな。断る選択肢はあるの?>
<父親の一生のお願いを断る選択肢は無い。仕事は大丈夫か>
<うーん。まだブッキングはガラガラだから。こちらのスタッフで何とかなる>
<2週間だぞ。日本には滞在する部屋は持ってたっけ?>
<いや。もう処分した。ひとまずホテルを取ってくれるか?>
<うちのチェーンでいいか?社割が効く。大崎だけど>
<いやだ、遠い。近くにしてくれ。ラブホ以外で>
<(笑) ならば一か所しかない。わかってるな。面白くもなんともないぞ>
<なるほど。近すぎて泊ったことはないから、楽しみにしている>

父からの電話で目を覚ました後、部屋のカーテンを開けた。
南に向いた窓からは、思いのほか近くに新宿の高層ビルが見える。(また増えたか?)
9年ぶりの日本というばかりでなく、この部屋から新宿を見るのは初めてだ。
ロケーション的には、なんの驚きもない。
この地は私が40年育った場所だ。
しかし、今目にしている光景は、この施設で結婚式をする地方の参列者からすれば
「東京はビルばっかりだ。」となるのだろう。しかし夜景は思いのほか綺麗そうだ。
 サンプラザを出て、そのままサンモールのユニクロに直行した。
フリースを買うためだ。ハワイの2月の恰好では、さすがに寒すぎた。
デザインに迷うことなく、40代が着ても何ら違和感のない暖色系のフリースを買い
そのほかは出直そうと思った。それにしても、ここは日本最小の店舗ではないか。
ハワイと比べようとは思わないが、相変わらずの間口の狭さは変わらない。

 集合場所の前に、当然のごとく実家つまり生家に向かった。

まずは両親はもとより、仏壇の祖父、祖母に挨拶をしなくてはならない。
「ただいま。」
「あら健二、おやおや元気そうじゃないか。おかえりなさい。」

9年ぶりの母はもう少しで67歳になる。誕生日は2月20日だ。
高齢者にしては、背筋もまっすぐで、髪もボリュームこそなくなったが、十分な量があり
薄いグリーンを絡めたカラーリングをしていた。
「急な呼び立てですまないね。それでもコロナで帰ってこれなかったから、きっかけとしては
良かったかね。すんなり入国できたのかい。」
「ハワイのPCR検査の陰性証明だけで大丈夫だったよ。先に仏壇に挨拶してくる。」
「そうだね。おじいちゃんも、おばあちゃんも喜ぶよ。」
父は?と聞こうと思ったより先に、母は台所に戻っていった。

祖父は、実に実直で真摯な人だった。
子供の目には、優しいおじいちゃんとしか映っていなかったが、自分が大人になったとき、その表現しか見当たらなかった。
祖母も、よく出来ていた人だった。
なぜかというと、姑として嫁である母と、姉妹のように仲よくした。当時の時代背景からは逸脱していたとも思う。
これも子供の目には、よくわからなかったが、今にして思うことだ。商店街では、兄弟仲の良い、兄と私に次いで、祖母と母の仲の良さは噂になり、祖母は「うちの嫁は本当に性根が良い」と人に自慢をしていたそうだ。

仏壇のリンを、祖父に三回、祖母に三回鳴らして、合掌をした。
心の中で念じたことは「親父がへんなこと言い出したら叱ってくれ。」と祈った。

「親父は?」私は母に聞いた。
「薬師さんのご住職に挨拶してくるって、20分くらい前に出かけたきりよ」
「ふうん、じゃ俺もちょっと挨拶してくるよ。えっと兄貴は?」
「3時半ころには着くらしいよ。今日は華音も一緒だから、車らしい。」
「華音は、いくつになったんだっけ。」
「22歳。今年、美大を卒業よ。就職はしないんだって。」
華に音で「かおん」。いかにもキラキラとした名前は、義姉のこだわりのネーミングだ。
華やかな音。私の自慢の姪だ。

彼女に会うのは12年ぶり・・だと思う。記憶の中にあるのは小学生の女の子だ。
小さなころから私を慕って、私も自分の娘のように可愛がった。兄よりも責任が無いから
ただ甘やかして、玩具もお菓子も沢山プレゼントした。

そんな姪に、このあと「掌で転がされる」とは、予測できなかった。

(つづく)


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登場人物紹介

私  39歳。離婚歴あり、子供なし。 ハワイでフォトスタジオを経営している。主に海外ウエディングの撮影を請け負っている。今回、父の要請により、コロナ禍を超え9年ぶりに帰郷している。

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