第1話 プロフィール。

文字数 3,645文字

「故郷は東京。」

 寒い。
わかってはいたが、東京の名前を冠につけた千葉の空港は寒かった。
2月の夜半。それは寒いに決まっている。しかも私は、9年ぶりにハワイからの直行便で戻ってきたのだ。ひさかたぶりの帰国、帰郷である。
 コロナ禍を一通り超えた空港職員は、ぴりぴりしながらも手際よく、入国審査を済ませた。
私は久しぶりの感覚を持ちながらも、空港内を迷うことなく進み、小さなスーツケースをピックアップしてタクシー乗り場に急いだ。あらかじめ調べたおいた天気予報によれば、明日は雨か小雪らしい。
 いくらハワイから来たといっても長袖を着ているが、明日フリースくらいは買わないと寒くて外出もできないだろう。宿泊先のホテルから2分でショッピングモールにつける。しばらく泊まることになるホテルは、これから向かう故郷、実家から5分もかからない場所にあり、兄が2週間ほど予約してくれている。
 日本でも広まってきたタクシー専用車両の後部座席から、行き先をドライバーに伝えた。
十分に年齢を重ねたドライバーは「最近始めたばかりなので」と断りを入れながら、カーナビに行き先を入力した。乗る前にナンバープレートを確認して、まったく道筋が判らないこともないだろうと信じたが、もちろんプレートにも、ダッシュボード上の身分証明にも、経験履歴までは書いていない。
「たぶん3時間はかからないでつくと思うんですが。」
私は、途中コンビニに寄ってほしいとリクエストして、軽く目を瞑った。

*    *    *    *    *    *    *

 仕事を変えたのは35歳のときだ。
転職というよりも、業種そのものを変えた。
私は、その頃では、まだ多くない男性のウエディングプランナーだった。
 足掛け5年をかけた大学生活の卒業時、リクルートスーツは着てみたが、自分のやりたいことなどわかるわけもなく、友人も少なかったので、自己流の就職活動(みたいなこと)をして、4年の10月になっても内定のひとつも無かった。

就職相談室の掲示板を見ては「営業職なんて絶対やらない。」と世間知らずも甚だしい若者は、わけもわからず「ウエディングプランナー」という職種に興味を覚えた。
学生時代はアルバイトで飲食店の経験もあったし、接客も好きだった。
「営業職で頭をさげるなんて、まっぴらだ。」とうそぶいていた割には、人と話をすることは好きだった。
 当時付き合っていた彼女は、CAになるための就職活動に命がけで、僕たちの関係は自然消滅に近かった。だから誰にも相談できずに就職先を決めた。

 ベンチャー企業が経営する結婚式場は「ゲストハウス」と呼ばれていた。白亜の豪邸かヨーロッパのお城かと見間違うほどの豪華な建物。いままでの日本には無かった佇まいは瞬く間に人気施設となった。実際の教会、特にヨーロッパは葬儀も行うので、教会の下に数えきれない死人が埋められていたりするそうだが、このゲストハウスは「土地持ち」が、税金対策や投資目的で大手不動産企業や銀行と結託して、高さと広さを競い合った。庭も宴会場も、そこは日本であってはならず、しかしアメリカでもイギリスでもなく、ましてはハワイではない「海外のどこか」だった。 私は数回の面接をこなし、すぐに内定の連絡があり、その段階で就職活動を止めた。
実家は自営業だったので、兄が継がなければ、自分にその役目が来るのではないかというぼんやりとした物語も見えていた。

 学生時代の恋愛の記憶を封印し、仕事で知り合った、けれども同じ職場ではない女性と恋をした。妻になった人は、広告代理店の結婚式専門誌の担当だった。
 東京でいう六大学を卒業し、広告業界では上場会社として日本中が知るところの企業だった。礼儀正しく、聡明。身なりとアクセサリーはいつも上品で、汚い言葉を聞いたことも無かった。仕事として会っているわけだから、当然だ。男兄弟の悪いところは、すべての女性を「神格化」するところだ。

それでも付き合うようになって、幾度か喧嘩もした。何度か泣かせたり、半月ほど連絡が途絶えたこともあった。けれど、また会った時には、何事もなかったかのような態度で接してくる人だった。


「僕のどこが好きなの。」
まるで絵にかいた愚問にも、けらけらとわらいながら
「そういう質問をするところ。」と答えるような女性だった。
 しかし本当にそう思うほど、彼女と私は不釣り合いだった。
外見も、学歴も家庭環境も、誰にもどうにもできない違和感を感じながらも
若い二人は、感情を止めるどころか、小さなすれ違いを隠すことさえ出来たのだ。

結婚式は、当然ながら自分が勤務するゲストハウスで行った。
150名の参列者。大半は友人と職場の同僚と取引先だった。私の親族は20名。妻だった人の親族は40名にもなった。
 父のモーニング姿は、いかにも「借りてきました」というサイズ感で、黒い革靴を履いているのを見たのは、数年ぶりだった。母はおしゃれで外交的な人だったので、妻であった人の母と事前に相談をして、ともに黒いドレスを着た。
 母は当時の年齢を考えれば、とても垢ぬけていて、ハイヒールを伊勢丹で新調した。
妻だった人の母親も、小柄ではあったが可愛らしさが年齢とマッチしていた。
 結婚式は、両家の親族が初めて顔合わせをする場である。両親同志や、同居していれば祖父母くらいまでは事前に会う機会があり、雰囲気もわかるが、その他の叔父・叔母などは当日でないとわからない。
新郎新婦である当人は、招待状や席次表で名前を確認したり、説明したりするけれど、そのプロフィールまでは覚えきれるものではなかった。
 妻だった人と、その家族、親族の多くは公務員が多かった。しかも地方自治体ではなく、勤務地で言うなら、虎ノ門や大手町、品川区あたりだ。
 私の親族は、中野の父母はもとより、自営業と飲食業界(兄夫婦のことだ)や、幾人かの叔父は「職人」だった。
 今となっては笑い話にしかならないが、私の親族席には日本酒が飲み干され、妻だった人の親族席では、シャンパンがおかわりされた。そして私と妻だった人は、前菜のかけらをひとくち、口にしただけだった。

 結婚生活は、ほどなくして破綻した。

私の仕事をまったく理解していたはずの妻だった人は、旅行に行けないことで「うつ」に近い状態になった。そもそも休日が合わないのだ。
キャリアを積んだ私は、エリアマネージャーとなって、複数の施設のすべてを任された。
すべてというのは、売上と損益のことだ。

「今月の成約は何件?それで目標売上いくの?」
「残業時間、平均何時間?おまえシフトの仕組み、知らねぇんじゃねぇか」
みたいなやりとりが、毎週末に繰り返された。
月間で数億円の売上が必須となり、完璧な原価コントロールが、自分の給与に反映される。
出来なければ異動があるだけだ。たとえば駐車場管理係とか。
社長は業界誌でインタビューばかりされて、政府の「少子化改善諮問機関」のメンバーにもなった。まだ結婚式が増えれば人口が増えると、世間が思い込んでいた時代のことだ。

妻だった人は言った。

「仕事変えていいよ。いやだったら止めればいいでしょう。私と仕事と、どっちが
大切なの。ふたりで旅行にも行けないんだよ。」と泣いた。
美しく、優しい人だった。全力で守りたいと思ったのに、実際は思っただけだった。
ほどなくして、妻だった人は実家に戻った。

「ありがとう。今なら二人とも再出発できる、と思う。今しかない。」というような
手紙が残されて、あとは代理人という人から書類が数回届いた。
子供がいなかったから、実に簡素な手続きで結婚歴は終わった。
そして、とある理由から私は失職した。会社そのものが、急に無くなってしまった。

思い返すと、怒涛のような年だった。その1年の中に、離婚、失職、世界的な大事件と
海外移住が重なったのだ。
2011年。今思い返しても、二度と繰り返したくない、日記にも書きたくない日々が、私の歴史に刻まれた。

「お客さん、首都高に入りました。」
ドライバーの声で目を覚ました私は、新宿のインターで降りて、甲州街道から中野駅に向かってほしいと伝えた。
ドライバーは「新宿には前職で3年ほどいましたから、わかります」と言った。
「どんなお仕事をされていたのですか。」
「いや、現場警備ですよ。西新宿とか歌舞伎町とか、近くの警備会社に登録してたんで。
東中野の大きな結婚式場では、駐車場の係員もしてました。」と言ったので、
自分の今の職業を再確認してみた。

大丈夫、今はフォトグラファーだ。
タクシーは渋滞もなく、中野駅前のサンプラザに着いた。深夜1時半。
チェックインのあと,真っ暗に近い廊下を案内されて 番号の確かめずに部屋に入った。
カーテンは閉じたまま、そもまま、ベッドに崩れ落ちた。 

(つづく)
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登場人物紹介

私  39歳。離婚歴あり、子供なし。 ハワイでフォトスタジオを経営している。主に海外ウエディングの撮影を請け負っている。今回、父の要請により、コロナ禍を超え9年ぶりに帰郷している。

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