第3話

文字数 1,635文字

「その手、離してもらえますか」
「中野くん!」
 久しぶりに聞く中野くんの凛とした声。それは教室内によく響いた。グループごとに集まって話していたクラスメイトは、一様に口を閉じ、中野くんと私を交互に見ている。そんな視線を物ともせず、中野くんはつかつかと私たちのところまで歩いてきた。
「何だよ」
「その子、返してもらいます」
 中野くんがそう言い切るが早いか、私の手首が解放されるが早いか。
「え?」
 中野くんが先輩の手首を持ったと思った瞬間、間の抜けた声を出した先輩はくるりと回って、床に倒れ込んでいた。
「げ、中野、合気道できんの?」
 近くにいた加瀬くんが言った言葉に、中野くんを見上げると、相変わらず涼しい顔をしてブレザーの僅かな乱れを直している。ふわりと空気を含んだ前髪が、サラサラと元の位置に戻っていく。一瞬見えた目は、ハッキリした力を宿し、静かな怒りが滲み出ていた。
「男は大切な人を守るために強くなるんですよ。人を怖がらせるためじゃない」
 静かな口調だったが、私には分かる。中野くんはすごく怒っているんだって。
「何だよ、お前!」
 苛立った声で叫んだ先輩を、中野くんは鋭い目で見下ろす。
「日南子の彼氏ですよ。厳しく育てられて、その理由が小さな頃はわからなかったけど、今ならわかります。俺は日南子を守るために強くなったんです。これからも、強くあり続けたい。先輩は、誰を守るために生まれてきたんですか?」
 その後、物音一つしない静寂が降りた。みんなの心に、中野くんの言葉の重みが沁みていったのだと思う。
 それから、先輩は舌打ちを残して、教室を出て行った。ホッと息を吐き、胸を撫で下ろす。だけど、今度は中野くんの大きな手に手首を捕らえられ、次の瞬間、私の体は温かいものに包まれていた。
「日南子に触っていいのは、俺だけだから」
「な、中野くん」
「日南子、俺の名前は?」
「……大翔くん」
「うん。日南子は気を抜くと、すぐに名前呼びを忘れる」
 それはごめん。だけど、この体勢は何事なのでしょう!?
 私の体は細身な中野くん、ううん、大翔くんの体にすっぽりと覆われ、目の前に見えるのはブレザーとネクタイだけ。
 すっぽりと、覆われ……?
 温かい?
 この初めての温もりは?
「なな、ひひ、ひろとくん!? これ、この」
「日南子、落ち着いて」
「おお、落ち着いてって……」

 この体勢で落ち着ける人。今すぐ、この場に整列してください!

「日南子は誰の彼女?」
「ひ、大翔くんの」
「そう、日南子は俺の大事な彼女。大事すぎて、なかなか触れることができないのに」
「え」
「俺はそんなに大人じゃない」
「大翔くん……」
 少しだけ拗ねたような声は幼く感じても不思議ではないのに、なんだかいつもより低くて、強くて、男らしい。
 体に直接響く振動が、抱き締められていることを実感させる。バクバクとうるさい心臓は痛いくらいだ。だけど……だけど。
 私の耳に聞こえてくるのは、大翔くんの速くなった鼓動。私だけじゃなくて、大翔くんもドキドキしてるんだ。
 先輩がいなくなって安心したはずなのに、心臓はまったく言うことを聞いてくれない。
「心が狭いって、呆れる?」
「ううん、呆れたりなんてしないよ」
 呆れるどころか、そんなふうに思っていてくれたなんて、嬉しい気持ちが勝つよ。
「それなら、他の男に触らせるのだけはやめてくれる?」
「うん、ごめんね」
「いや、俺が我慢できなかったことが、一番ダメだから。ごめん」
 ごめん、という言葉とともに、大翔くんの腕に力がこもり、私は大翔くんの胸に顔を埋めることになった。
「終わったか?」
 不意に聞こえた先生の声に我に返って、グイッと大翔くんの体を押した。何も言わずに私の体を開放した大翔くんは、私の心臓をなだめる様に背中を撫でて、自分の席に戻っていった。私なんて、顔も真っ赤で、手だって震えるくらいドキドキしているというのに。チラッと窓の方を見ると、涼しい顔をした大翔くんは、またいつものように窓の外を見てしまった。
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