第4話

文字数 1,543文字

 その日、日直だった大翔くんの帰りに合わせて、私も教室に残ることにした。教室は人気(ひとけ)がなくなり、今では二人きりだ。
 いろいろな仕事を終えた大翔くんが自分の席で日誌を書いているのを、その前の席に座って眺める。今日、初めて感じた大翔くんの温もりは熱いくらいで、私とは全然違うんだと実感させられた。
 バレーボールをやっている私の体は、他の女の子に比べると柔らかくないはずだ。だけど、それよりもずっと、大翔くんの体の方がしっかりしていて、たくましくて、普段の印象とはまったく違った。そんな自分との違いに、私の心臓はまた大きく高鳴る。
「日南子」
「なに?」
「今日はごめん」
「ううん、私が悪かったから」
「日南子はかわいい」
「えっ」
「日南子の優しいところも、明るくて元気なところも、誰とでも仲良くできるところも、笑った顔も、ちょっと拗ねた顔も。全部が好きだし、そのままでいてほしいと思ってる」
「う、うん」
「俺さ、前髪で目を隠してること気付いてる?」
「……うん、そんな気がしてた」
 やっぱり意図的に隠していたんだ。綺麗な瞳なのに。もっとみんなに見せないともったいないのに。そう思っていたけど、次に続いた大翔くんの言葉で撤回することになった。
「俺の目は好きなものしか映したくないらしい」
「どういうこと?」
「日南子をよく見られたら、俺は幸せだから。だから、普段は前髪の下でいいんだ」
「大翔くん……」
 どうしよう。もう倒れそう。そんな嬉しいこと言うなんて、ずるいよ。
「ああ、嫉妬なんて、初めてしたな」
「……ごめん」
「いや、こういうのも悪くない。でも」
 大翔くんは、言葉を途中で切ったかと思ったら、シャーペンを日誌の上に置いた。それを目で追っていると、大翔くんの大きな手が上がり、長い人差し指が私の髪を耳にかける。そのまま指が滑って、頬がすっぽりと覆われた。心臓が頬に移動して、そこがドクドクと脈打って熱い。
「日南子も、俺だけを見てろよ?」
 その言葉に茫然としていて、気付けば、大翔くんの顔がゆっくりと近づいてきていた。
「日南子に触れたい」
 真剣な表情。長い前髪から覗く、真っ直ぐで強い眼差し。私は無意識に視線を下げて、大翔くんの薄くて形の綺麗な唇を見てしまった。心臓がドクンと大きく跳ねて、私はそのまま弾け飛んでしまいそうだ。
「好きだよ」
 そう言って、私の唇に温かくて柔らかいものを押し当てた。
 窓の外は夕陽が沈みかけていて、藍色へと変化している。空の低いところには、柔らかそうな綿雲がいくつも浮かび、そこに去り際の太陽の光が名残惜しそうに当たっていた。
 ゆっくり離れていく顔と顔。ほんの少しだけできた距離は、いまだに呼吸を忘れさせる。
「日南子の初めては、俺だけのものだ」
 それから、私はどこか現実感がないまま、大翔くんが日誌を書き終わるのを待った。
 すっかり暗くなった通学路を並んで歩く。私の右側だけ酸素が薄くて、そこに沈んだはずの太陽があるみたいに熱くて、とてもじゃないけど平静でいられない。周りから見たら、何も変わらないのに、昨日までとは違ってしまった私たち。
 誰よ。中野くんがこういうことしてくれるのは、いつになるやら、なんて言ったのは。あっという間に初めてのキスをされちゃった。そんなことを考えていた私の右手が、何かに包まれた。
「今日からここが、日南子の手の居場所な」
 そう言われ、私の右手は大翔くんのコートのポケットの中に連れ去られてしまった。狭い中で指と指が絡められる。
 初めてキスをした日。
 私たちは初めて手を繋いで、通学路を歩いた。
 月の光に照らされた私たちの影。そこに、これまで二人の間にあった距離はなくなっている。私はこの素敵な人に心を捕らえられて、もう逃げることはできなくなった。





 *終*
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