二日目

文字数 19,742文字

瞼を刺す朝日に目が覚める。起きるのも億劫で寝返りを打つと、固いものが頭に当たった。真代は半身を起こし、ぐっと伸びをした。寝惚けた眼を擦りながら立ち上がり、窓から外を覗く。
「おぉ……」
見事な快晴だった。雨露が光を受けてきらきらと輝いている。夏らしい青々とした光景に蝶が翔く姿は、一時別の世界に来ているようだった。
寝巻きを着替え髪を留め、持ってきた時計を見れば、まだ午前六時半。する事もなく部屋を出ると、どこかの部屋から水音が聞こえた。音を辿るれば、台所で食事を作っている久内がいた。
「おはよー、おっちゃん!早く起きたから手伝うぜ」
「おはよう。早いんだね、準備が間に合わなかったよ。じゃあ……」
久内は真代を振り向き、その顔を見て言葉を止め、笑った。
「真代くん、ほっぺたに畳の痕がついてるよ」
「えっ!」
ぺたぺたと頬を触ると、確かにぼこぼことした感覚がある。
「左に出て突き当たりを曲がったすぐに洗面所があるから、洗っておいで」
不覚、とでも言うように真代は苦々しげに頷いた。
白のタイルと木を組み合わせて作られた洗面所は、家と同様、年季が感じられた。田舎らしく広い家屋。妹と弟のいる真代は、ここにひとりでは寂しいだろう、と思った。
鏡で痕が消えたのを確認し、また台所へ戻る。先程までとは違ったいい匂いが漂っていた。
「焼き魚だ!」
「正解」
久内が真代を手招く。
「味噌汁の味見をしてくれるかな」
「もちろんだ!」
にっこりと頷いて、久内は小皿によそい、真代に手渡した。山菜の入った味噌汁は、夏に相応しく少し味が濃く作られていた。
「ん〜、美味い!」
満面の笑みを浮かべる真代を、久内は嬉しそうに見ている。
「じゃあ真代くん、皿を並べてくれるかな」
「りょ〜かいだ!」
かちゃかちゃと皿を並べていると、マナが顔を出した。朝ご飯を見留めると、ハッと目を輝かせた。
「おはようございます。更科さんも早起きさんですな」
「おはようございます!あの……ラジオ体操してたら汗かいちゃって、洗面所ってありますか?」
「もちろん。真代くん、案内お願い出来るかな」
「任せろ!」
こっちだ、と軽やかに駆ける背を久内は見送った。ピー、という音が米が炊けたことを知らせる。
──さて、ご飯が冷える前に最後のひとりが起きてきてくれるといいのだけれど。
ちょうどそう思った時、眠そうに目をしぱしぱさせる菊が現れた。どこかぼんやりとしている様子だ。
「おはようございます、千歳さん」
「……久内さん、おはようございます」
数度瞬きをし、きつく瞑って、ようやく菊は目が覚めたようだった。
真代と、すっきりしたような顔のマナが、台所へ帰ってきた。
「あ、菊さん!はざまーす」
「おはよう。元気だね」
「元気だけが取り柄っすから!菊さんは眠そうっすね」
微妙に痛いところを突かれたように、菊はぎくりとする。寝起きが悪いことは自覚済みらしい。
「まぁまぁ、ご飯を食べれば目も覚めますよ!」
そうですな、と久内が言い、温かいご飯を食卓に乗せた。焼き鮭に目玉焼き、ほかほかの白米と味噌汁だ。
「昨日に引き続きありがとうございます」
「お気になさらずに。ささ、朝ごはんをどうぞ。外は良く晴れておりますし、良い日になりそうですな」
久内の言葉にマナは窓を仰ぎ、四角い景色いっぱいに広がる水色に感嘆を洩らす。
「本当だ!蝶も元気に飛び回ってるだろうなぁ」
真代が上機嫌に椅子に座り、いただきますと元気に手を合わせ、食べ始めた。マナと菊もそれに続き、箸を手に取った。その後に久内も座り、皿を持った。
三人が世間話をしながら食べ進めているのを見ていた時、久内が思い出したように口を開いた。
「ああ、そうだ。何か足りないものがありましたら、ぜひ商店街へ行ってみてください。小さいですが、温かいとこですよ」
「商店街か!面白そうだなぁ」
「それじゃ、今日はそこに行ってみましょうか!ワクワクですね」
やいのやいのと真代とマナが話す横で菊が呟いた。
「ちょうちょに興味があるなら、資料館もいいかもしれないね」
「あ、資料館でしたら鍵がありますよ。一応、私の管理下ということになっておりますので。まぁ……資料館という名の倉庫ですが」
鍵は渡しておきましょう、と久内は菊に小さな鍵を手渡した。菊はそんな大事なものを、余所者の自分たちに簡単に渡してしまうことに驚き、また礼を言った。
「資料館、おっちゃんのものなのか。すげぇな!」
久内は苦笑した。
「そんな大層なものではないよ、押し付けられたようなものだからね」
朝食は冷えた麦茶で締め、それぞれ部屋に戻り支度を整える。暑いからと久内から塩飴を渡され、それを口の中で転がしながら、三人は久内邸を出た。

紙切れに書かれた簡易地図を頼りに、教えられた商店街へ辿り着いた。賑わってはいるが規模はそこまでなく、やはり内輪のものなのだろう、町民同士がそこかしこで立ち話をしていた。昔ながらとも言える風情に、のどかな雰囲気が感じられた。
「あ!私、ちょっと欲しいものあるのでまた後で集合でもいいですか?」
「もちろん。でもここは圏外だから、あまり遠くには行かないようにね」
「了解だ!修学旅行みたいだな〜!」
「更科さんは特に女性だし、何かあれば遠慮なく言って」
「あっ、いやそんな、あんまり女性扱いとか、その、気にしないでください!」
わたわたと、顔の前で手を振り否定するマナに、菊は何も言わず笑いかける。マナも観念し、ぐうと黙り込んだ。
何かあったらまた、と三人は解散した。
菊は近くにあった古本屋に、真代は行くあてもなくふらふらと、マナは今朝乾いていなかった下着の代わりを買いに店に入った。
生憎、田舎。マナのような若い人が気に入るような近代的なデザインのものは置いていない。
「グレー……」
妥協するより他はない。下着の始末を久内に頼むのも忍びなかった。
「グレーでよし、全然よし、ないよりよーし!」
声に出し拳と意思を固めたその時、視界に明るい色が入った。
水色のレース。マナのお気に入りの色だった。このような店しては珍しいとしか言いようのない、可愛らしいデザインのものだった。ラッキー、と手に持っていたグレーと入れ替わりに、それを買う。鞄の奥に仕舞い、安堵と共にマナはその店を出た。
色々あるな、と商店街を見て回っていた真代は、団子屋を見つけた。ポケットに入れた小銭入れから五十円を出し、店主である老人に渡すと、店主は焼きたての団子にみたらしをつけ、真代に渡してくれた。焼きたての団子は冷えたものと違って余計な弾力と粘性がなく、食べやすい。加えて団子自体の甘い味が強く感じられる。
「うまっ!これめちゃくちゃ美味いっす!」
目を輝かせる真代に、店主は口を開けて嬉しそうに笑った。おまけだ、と貰ったもう一本を食べながら、真代は思い出したように店主に尋ねた。
「なぁ、団子屋のじっちゃん。ここの町ってどういうとこなんだ?ちょうちょ以外で有名なものとかある?」
「おん?そうさなぁ、蝶以外だとなぁ……あんまねぇなぁ。自然は良いだろうが、んなもん山なんだから決まってらァな」
「ふぅん。まあ、まじでちょうちょ多いしな!自然豊かって感じで俺は好きだぜ、ここ」
その会話を少し遠くから見ていたマナは、何かいいものを見つけたように突然小走りで雑貨店に入っていった。
何だろう、と向かいにいた菊は不思議に思う。しばらくして、虫取り網を片手に満面の笑みを浮かべるマナが現れた。自然の多い風景と釣り合う、無邪気な様相だ。
あまりにも似合いすぎるその風貌に、思わず菊は吹き出す。誰かに笑われている気配でも感じたのか、ハッとマナは網を握り締めた。
吹き出す声で真代が振り向き、菊の視線の先を見て顔を輝かせ、店主に早口で礼を言い、走って雑貨店へ入る。二人して買うのか、と菊はまだ笑いが収まらない。
「真代くん、買ってあげようか」
「え、いいっすよ!」
「いや、いいんだ。買うよ、貸して」
これが大人の余裕か……!と感嘆するマナの横で、内心では、面白いものを見せてもらった、と思っている菊だった。
雑貨店の老女は毎度、と声を張り、菊と真代を見て問いかけた。
「なんだいアンタら、兄弟かい?」
「あぁ、いや、そうではないんですが」
「へぇ、随分仲が良さそうじゃないか」
「ばっちゃんアンタ、おもろいこと言うなあ、そう見えたか?」
「ああ、な」
「ふふ、この子たちが可愛いからですね。ついつい……」
菊の言葉にマナは首を傾げる。
──『たち』……?
ハッとして、気づく。
──私も入ってる!
「そいや、知っとるかい?可愛いご兄弟さん」
「何がです?」
「こわーい話さ。お前さんたち、外の人だろう」
「怖い話ぃ?気になるな!」
老女は人のいい笑みを一転させ、怪談でも語るように、にたりと口の端を持ち上げた。
「巫女が、死んだって話さ」
「巫女?」
「そういえば神社がありましたね」
「死んじゃったって、なんで……?」
「殺されたって話さね。怖いねぇ、くくく……」
「物騒な話……こんなにのどかな町なのに」
マナの表情が暗くなる。
「殺されたって、犯人とか捕まってんのか?」
「さぁなぁ、あ、そいやこの前、犯人が見つかったとか話してたやもしれん」
「見つかったのか!そいつは良かったじゃねえか」
「それは、最近の話ですか?」
「最近も何も、今朝さ。発見されたのは、な」
「けっ、今朝!?」
マナは自分の身体を腕で抱き、身震いした。老女はまた、笑う。
「冷えたかい?最近暑いからねぇ」
「冷えたぜ〜!やるな、ばっちゃん!」
「はは、可愛い坊主だね」
浮かない顔をした菊は、気をつけます、と言ってその場を後にした。マナは青い顔をし、それに続く。
「また機会あったら怖い話聞かせてくれよな!またな~」
真代は朗らかにそう言って、三人は商店街を離れた。

「……背筋がぞっとするね。あの雨に便乗して犯人は殺しをしたんだから。でも犯人は捕まったって……早過ぎないか?」
「確かにな。自首でもしたんじゃねぇか?」
「安心して観光出来ないですね、やだなぁ……」
「まぁ、犯人は捕まってんだから気にする必要もねぇだろ!」
「でも、交番のようなものはここになさそうだ。なら、捕まえたのは誰だ……?」
警視庁の研究所に勤めるその職業柄、気にかかって仕方がないのだろう。段々と青くなっていくマナに気づかず、菊は顎に手を当て思考を進める。
「資料館に行ってもいいけど、事件の詳細を調べてもいい。犯人の件、少し気になるな」
「そうは言っても、俺らが首突っ込んだところで、所詮余所者だしなぁ。ミステリーは得意分野じゃねえんだよな!考えるだけで頭が破裂しちまうぜ」
両手を投げ出す仕草をする真代。菊はまだ釈然としないように眉間にしわを寄せている。
「マナさん、大丈夫か?顔色悪いけど」
「ん、んーん!えっと、あんまり気にしちゃだめだよね!大丈夫だよ、ありがとね」
「無理はすんなよ!」
「がってん!」
真代の言葉に少し気が和らいだようで、マナは笑顔を見せる。
「更科さんはどうしたい?無理はするもんじゃないよ、せっかくの旅行だしね」
「えーっと、私は資料館に行きたいですね!そこなら……ちょっとは気を紛らわせられるかも」
「まあ、資料館に休むとこありゃそこで休めるだろうし、行ってみようぜ!この町についても知れると思うしな」
「よし、じゃあそうしよう。道中でちょうちょを捕まえてもいいしね」
菊の言葉を聞いた時、真代の目がキラリと光った。
「気分転換にちょうちょ取ろうぜ!」
マナもぱっと笑顔になった。
「いいよ、どっちが先に取れるか勝負だ!」
「怪我しないようにね」
一斉に駆け出し、程なくして二人は満面の笑みで帰ってきた。マナの持つ蝶は、美しい模様をきらきらと輝かせていた。時々、街中でも見られる種の蝶だった。
──でも、こんな山の中にいるのは珍しいような……?
「すっげえ派手なちょうちょだな、こいつ」
真代は手に持った蝶をしげしげと見つめる。真っ赤な羽に渦のような模様がある。
互いの捕まえた蝶を見せ合い、マナと真代はそれを放した。二人の周りを翔く蝶に紛れ、すぐに見失った。
「そうだ!菊さん、俺とマナさん、どっちが早かったすか?」
真っ直ぐな瞳を向けられ、菊はうーん、と曖昧に笑い首を傾げた。
「余所見をしていて、分からなかったよ。ごめんね」
残念そうに二人は顔を見合わせたが、ならば勝負は持ち越しだ、とまた笑った。
「それにしても、二人とも取れたんだ、すごいね」
「菊さんもやります?」
真代に虫取り網を差し出され、菊は苦笑しながらそれを軽く押し返し断った。
「私は遠慮しておくよ、そういうセンスが全くないからね」
「センスもクソもねえっすよ、これ!網振ってりゃ、いつかとれるし!」
「へぇ、そういうもの?」
ならば自分にも、と菊は渡された網を握り締め、意気込んで網を振りかぶった。渾身の力で下ろすが、腰は引けていて、加えてそこまでの速さもない。蝶たちはひらひらとそれを躱し、菊の周りから離れていった。
ぷくく、とマナが笑いを堪えきれないように顔を逸らして口元を抑えている。その声を受けながら菊はすっと体勢を戻した。
「……そうだね、うん、向いてないんだ」
「まあ、上達するから大丈夫っすよ!練習、練習!」
「ふふ、そうですよ、くく、元気出してください……!」
この手のことが不器用であるのは自他ともに認めるものなので、菊は何も言えず、ただ黙って真代に網を返した。そして、まるで一連は何でもないかのように、言い聞かせるように言った。
「資料館に、資料館に行こうね」
何を見つけたか掌をひさしに目を凝らしていたマナが、あっ、と声を上げた。
「資料館、あれじゃないですか」
マナの指の示す先には薄汚い建物があった。住宅のように見えるが、それにしては人の気配がない。おおよそ窓のようなものも見当たらず、中に明かりも見られない。
三人はそこに近づき、やはり人はいないと確信をした。久内の家や通りがかりに見た他の家々と比べると小さく見える。
「ここが資料館か……」
「そうみたいっすね」
菊は小さな鍵をさし、ペンキの剥がれかけた鉄の扉を開いた。中は暗く、背後から差す外光と向かいの天窓のみが館内を照らしていた。
古ぼけた本棚のようなものが壁沿いにあり、雑然と本やらが仕舞われている。気まずそうに壁の端に置かれている鉄網のラックは空、床には沢山の紙が落ちていた。
「ほぇ~、なんか資料館っぽくはないな」
「資料館と言うより、資料倉庫という感じだね」
マナも、何か思っていたのと違う、とでもいうような微妙な顔をしていた。
菊は紙の散乱した足元を見た。膝をついて漁ると、中には診断書や出生届さえ混じっている。がさがさと掻き分け、めぼしい何かはないかと思うと、手の端に粗い素材の紙片が触れた。重なった古新聞などの紙の束を丁寧にどかす。出てきたのは、古い地図だった。
端は破れ、かさついた音が出るほど古くなったそれには、町の入口で見た立て看板と似たような絵が描かれていた。この飛蝶町の地図を左半分に、右側にはちょうど反転させたような形の、形も建物もそっくり対称なもうひとつの『町』があった。ふたつの町は細い管のようなもので繋がっている。立て看板よりも地形は詳しいが書かれているものは少なく、神社、町長邸、井戸のみであった。
──これは……。
菊が眉根を寄せ思考する横で、マナは真っ先に棚の方へ歩いていった。
「何があるのかなぁ」
いつかに地震でもあったのか、棚の中身はほとんどが外に落ちていた。ひとつひとつを拾い上げ、面白そうなものはないかと目を通す。中々ないなぁ、と首を傾げながら一歩出すと、つるり、と足元の書類に足を滑らせ、前のめりに倒れ込んだ。咄嗟に両手をついたものの、額を床に打ち付けた。
「い、いったぁ……」
さすりながら顔を上げると、目の前に一冊の雑誌があった。至って普通のゴシップ誌だ。ぱらぱらと眺めると、あるページの端を折って印が付けてあった。
『消された町は実在した!?残酷極まりないその理由とは』
飛蝶町の隣には、もうひとつの町が存在し、その町は飛蝶町の住民によって消されてしまった、という内容のことが、面白おかしく無駄に恐怖を煽るような文体で書いてある。自信に溢れた文章とは裏腹に、この話の根拠や実際の取材などは明かされていない。
「更科さん、大丈夫かい?」
「あ、ぜーんぜん!それより、なんかありましたよ!ゴシップ誌……みたいな」
「少し見せて貰ってもいいかな」
「はい!」
菊が渡されたゴシップ誌の折り目の部分を読んでいると、うろうろと歩き回っていた真代が戻ってきた。
「電気も見当たんねぇし、足元、気をつけろよ〜」
ひょこりと菊の隣から顔を出し、ゴシップ誌を覗き込む。
顎に手を当て、菊は険しい顔をしている。本を小脇に、先程拾った地図を二人に見せる。
「こんなものがあったんだ」
「変な地図だなぁ。町の入口にあった看板と、ちと似てるか?」
「それよりも書いてあるものが少ないね。でもこんな地形だったかな」
菊は表情を崩さず、地図の真ん中、管の部分を指さした。
「……ここが、トンネルだろうね」
菊のその一言に、マナはサッと指先から血の気が引くのを感じた。
「じゃあ、こっちが、消された町?実在、したってこと……?」
かもな、と真代はこともなげに答える。そんなものが本当にあるのか、その目で見るまで信用しない性格だった。どうせただのゴシップ、客欲しさに書き上げたのだろう、と。
「この町、ちょっと不気味……こ、こんなこと、言いたくないんだけど」
ぎゅっと、白くなった指先をマナは握りこんだ。
「あまり、町の人に消された町のことを聞くのは良くないかもしれないね。とりあえず、他にも気になるものが無いか調べてみようか」
「は、はい……!」
また何かめぼしいものはないかと探すが、古臭く虫食いだらけの和綴じの本や個人情報の塊のような紙が散乱しているだけだった。
棚の中に頭を入れて探していた真代は、高さと距離を見誤り、後頭部を強かに打ち付けた。いてて、と後ずさりすると、本棚ごとぐらりと倒れてきた。慌てて受け止めるが、どさどさと降る本の中、上の方に乗っていた一冊が角を下に真代の脳天を目掛けて落ちてきた。ごつん、と鈍い音が響く。
「君もか!」
「真代くん、大丈夫?」
「はは、大丈夫っすよ」
ぐい、と本棚を押し返し、真代は落ちた本を拾い上げた。
手のひらサイズの小さな本で、この辺りの地域の観光名所が取り上げられている。ほこりを被っていたらしく、真代の手には白い汚れがついた。灰色の表紙に、毛羽立った素材、奥付を見れば数十年前、真代の親すらまだ生まれていない時代だ。
パラパラと見れば、飛蝶町についての記述もあった。しかし、真代たちが聞きやってきた『蝶に関する文面』はひとつも見当たらなかった。
首を傾げ、真代は二人にそのページを見せた。
「私は、蝶が沢山で綺麗だって聞いてここに来たんだけど……おかしいな」
「俺もっす。ちょうちょについてなーんも書かれてないし、有名になったのはこの本より後ってことか?」
「そうだと思う。でも、生態系ってそんなに変わるものじゃないから……」
「自然じゃない、ってことか」
こくりとマナは頷いた。
「作為的な何かが、あったのかもしれない」
菊の一言に、目に見えぬ重さがじわりと三人にのしかかる。
この町で、過去に何が起こっていたのか。想像を絶する惨劇。悪夢のような光景が、脳裏に広がっていく。
「ほんとかは分かんねぇだろ」
平静なその声に、菊とマナはハッと顔を上げる。
「さっきの雑誌も、ちゃんとした根拠は書いてなかったしな。確かに事実なのかも知れねぇが、そうだと断定するには、ちょっと早すぎると思うぜ」
飄々と真代は言う。二人は顔を見合わせ、それもそうだと苦笑した。
「そういえば真代くん、頭ぶつけたの大丈夫?」
「ん?あー、まぁ大したことないっすよ」
そう言うも、真代の頭部にはぷくりと腫れた山が出来ていた。
「うわ、痛そう……帰ったら冷やそうね」
「そっすね……」
「今はなにも出来ないけど……」
屈んで、とマナは手招きする。何か分からず中腰になる真代。その頭を、腫れに触れぬよう、マナは優しく撫でた。
「痛いの痛いの、飛んでいけ〜」
ぽかんと口を開ける真代、笑いを堪えきれず吹き出した菊。当のマナは満面の笑みだ。
滅多にない感覚に、真代は照れたように笑った。
「ありがとな、マナさん」
お易い御用、とマナは胸を張った。
上体を戻し行き場なく頭をかく真代は、気づき、マナを見た。
「マナさんもおでこ打ってたじゃないっすか!」
「あはは、バレてた。実はさっきね」
「他人の心配よりも先に自分を労われっての!マナさんのも、飛んでいけ、だ」
真代はぽんぽんとマナの頭を撫でた。
「年下にやられるなんて恥ずかしいね……ありがとう」
「お互い様だぜ!」
微笑ましい光景を、菊はにこにこしながら見ていた。その視線はさながら父親である。
「そろそろ出ようか。もう大分見尽くしただろうし」
「そうですね」
「お腹も空いたしなぁ」
本や雑誌を仕舞い扉に足を向けるマナと真代に続き、菊は町の地図を携帯で写真に残し元の場所に戻して、資料館を出た。
「皆さん、ご注目!」
蝶の舞う緑の景色の中、資料館の白い壁を背景に、マナは高らかに手を挙げた。菊と真代の頭にはてなが浮かぶ。
マナは肩にかけていた大きめの手提げ鞄から、得意げな表情でパンを取り出した。
「さっき買っておいたんです!」
「おぉ〜!すげー腹減ってるから助かるな!」
「……更科さん、まさかその鞄の膨らみ、全部パンだったりするのかな?」
ぎくっ、とマナの顔が強ばる。
「……えへへ」
菊は、はぁ、と溜息をつき、仕方ないように笑った。
「しばらくは昼食に困らなそうだね」
あっ、と真代が声を洩らし、突然駆け出した。
真代の走る先には、遠慮がちに置かれたベンチがあった。少し古く錆びてはいるものの使えないわけではなさそうだ。
「ここ!お昼食べれそっす!」
「そうだね、少し落ち着けそうだ」
「じゃあお披露目会ですね!」
マナはベンチに腰かけ鞄を広げ、菊と真代に中身を見せる。カレーパン、メロンパン、コッペパンなど、十をも超えそうな数のパンが鞄いっぱいに入っていた。顔を輝かせる真代、全く、というように嘆息する菊。美味しそうだったから……とマナは小声で言い訳をする。
「俺、焼きそばパン食べたいっす!ありますか?」
「あるよ、はい」
マナは鞄からラップにくるまれた焼きそばパンを取り出し、真代に渡した。
「やった〜!」
はしゃぐ真代の横で、菊は何を選ぼうか悩んでいる。その間にマナはチーズパンを食べ始めていた。
「塩パンを貰えるかな」
ふぉーふぉ、とパンをくわえたままマナは手渡した。苦笑しながら菊もパンを食べようと口を開けた。
「マナさん、もいっこあります?」
「えっ!?」
「真代くん……まさか、もう食べ終わったのかな?」
マナと菊が驚愕し振り向く。真代の手の中にはラップしか残っていなかった。
腹減ってて、と真代は笑う。
「私なんて、まだ食べてもないのに……」
「あはは、早いね〜。焼きそばパンでいい?」
「大丈夫っす、ありがとうございます!」
三人はベンチに座り、パンを頬いっぱいにもぐもぐと食べる。菊が食べ終わる頃には、マナと真代の二人とも蝶を追いかけていた。

地図に載っている場所は全制覇しよう、ということで意見が固まり、菊、マナ、真代は井戸へ向かった。
井戸は町の端にあり、すぐ傍では鬱蒼と木が茂っている。さわさわという心地よい音が、昼過ぎの暑さを少し和らげている。
鶴瓶の空井戸は蔦や苔にまみれていたが、存在すら忘れられているのか、埋め立てられてはいない。桶が外に出て側の木にひっかかっており、もう一方の縄の端は井戸の底へと続いていた。
「どうやら、もう使われてないみたいだね」
「わぁ、中、真っ黒け」
菊が携帯のライトを使い照らすが、どうやら思っていたよりも深いらしく、ただ闇があるのみだった。
身を乗り出して覗き込んでいた真代は、姿勢を戻し、垂れる汗を胸元で拭い、言った。
「じゃあ俺、下に降りて見てきますわ」
慌てて菊とマナは止める。
「危ないよ!」
「待ちなさい真代くん、えっ、本気?」
「やめようよ、深そうだし、命綱とかないし、何があるか分からないよ」
「大丈夫っすよ、ライトもあるし」
そう言ってポケットから携帯を取ってライトを付けたまま口で挟み、吊るされている縄を掴んで井戸の縁から足を出した。内側の石を蹴って降りていたが、使い古され表面はなめらかになり、更にはほつれた縄だ、ずるりと、真代の手が滑った。
どしん、と落ちた音と、痛みに悶絶する濁った声が井戸の底から反響を伴って聞こえてきた。
その声に、マナが悲鳴をあげる。
「ま、真代くんっ!」
「大丈夫かい?全く、君は……」
「真代くん、今行くから!」
「待ちなさい、更科さん」
「だ、だって……」
「二人とも行くのは危険だ。中もそこまで広くはないだろうし、君まで落ちたら助けられないよ」
──それでも、真代くんが危ないかもしれないのに。
正論なのは分かっているが、一方で冷徹さを感じた。言葉に窮していた時、井戸から物音が聞こえてきた。菊は縁に手をかけ覗き込む。相も変わらずの深い闇、その先に向かって声を投げた。
「真代くん、大丈夫かい」
「問題ないっす、ちょっとケツが痛てぇだけで!」
良かった、とマナは安堵する。
「何かあるかい?戻れそうかな」
「まぁ多分、大丈夫っすよ!二人はそこで待っててください」
強かに打った尻を痛そうに撫でながら、真代はライトで照らし周りを見回した。
足元は土、壁も同じようだった。どうやら地下室のような作りになっているらしい。並の大人よりも身長の高い真代が腕を伸ばしても届かないほど天井は高い。少し前を照らしながら、中を練り歩く。土だらけの視界の中、ふと、大きなものが真代の前に現れた。
「な、なんだこれ……」
ライトを向けたまま、真代は立ち尽くしていた。
「なんでこんな所に、鳥居が……?」
マナは井戸の周りで、落ち着かないようにぐるぐると歩いていた。
「更科さん、落ち着いて。真代くんはきっと大丈夫だから」
「でも、あれから声も聞こえないし……」
「真代くんが上で待っていてって言ったんだから、私たちは信じて待っているしかないよ」
「……そうですね」
待つしかない、そう分かってはいても、マナの胸には黒い予感が残ったままだった。
それは天井につきそうなほど大きく、悠然とした鳥居だった。よく見ようと、真代が一歩踏み出した、その時。
ぞわりと、背筋をなぞられたような感覚がした。
振り返る。しかし、誰の姿もない。
真代は運動が出来ないわけではない。反射神経はむしろ優れている方だ。悪寒がしてから振り返るまで、まさに一瞬。
その間に、姿を消した?
ふと背後から、視線を感じた。
仰ぎ見るが、変わらず姿はない。臨むのは闇、土の壁。無音。はち切れそうな己の心音だけが耳の奥で鳴っている。この空間には真代しかいない。否、誰かがいるのか。姿の持たぬもの、実態のないもの、誰が、誰が──?
「真代くん、大丈夫か!?」
頭上からかかる菊の声に、真代はハッとした。
「……返事、ないね」
「うそ、や、やだ、真代くん!返事して!」
視線は相変わらず、こちらを見つめている。見張られているような、感覚。追い立てられるような焦燥感が
腹の底から湧き上がる。
──早く戻らねぇと、やべぇかも。
「菊さん、マナさん!俺は無事っす、何とか生きてますよ!」
「よ、良かったぁ……」
「上に戻るんで、縄おさえといて貰えますか?」
「もちろんだ」
安心してへたりこんでいるマナに菊は声をかけ、縄のこちら側の端が落ちてしまわないようにぎゅっと握った。マナもそれに倣う。
軽く引き、体重をかけても大丈夫なことを確認し、真代は井戸の壁に足をつけ、ゆっくりと登った。早く出るんだとはやる心を抑え、また落ちぬよう、慎重に。
井戸の縁に腕をかけ、ぐっと身体を持ち上げる。足の裏に感じる確かな地面が少しだけ冷静さをくれた。
緊張で余計に息が上がったのだろう、マナは荒い呼吸だった。しかし大きく息を吸いそれを抑え込んで、良かった、と真代に笑いかけた。
一方、菊は力仕事に純粋に息を切らしていたようだ。
「まっ、真代くん、怪我はない?……とりあえず離れようか。随分顔色も悪いし」
青い顔で頷く真代をマナが先導し、菊はその後ろから着いて三人は井戸から離れた。

井戸が見えなくなった頃、マナがバッと振り返り、真代に言った。
「無茶はしないこと!心配したんだから」
「す、すみません」
気圧された真代はまだ血の気のない顔だ。
「とりあえず、何があったか聞いてもいいかな」
「……井戸、地下室っぽい感じがしたけど、中にでけえ鳥居があった。そっから先はよく見えない。それに……終始誰かに見られている、みてえな感覚があった」
「誰かにって……誰かいたの?」
「いや、誰もいねえが……そんな気がしただけだ」
真代は細い声で紡ぐ。
「ここ、思った以上にやべえかもしんねえな……」
独り言ともとれる真代の呟きに、見えぬ空気は重くなる。
「……どうしようか。他の場所に行くのはやめておこうか?」
「いや、俺は平気だ!構わず続けてくれ」
「うん、こんな何も分からないまんま帰るだなんて、もっと気持ち悪い!怖いけど、もっと調べなきゃ!」
「なら、次はどこに行く?そういえば決めてなかったね」
「うーん、観光できそうなとこ……神社とか?井戸から近かった気がするし、どうですか!」
「じゃあ、神社に行こうか」
「はい!」
「よーし、気を取り直して頑張るぞ~!」
両手を突き上げ、真代は明るい声で言う。その実、まだ跳ね上がる心臓を懸命に押さえ込んでいた。
菊は携帯で撮っておいた地図を頼りに二人を先導する。歩くうちに落ち着いたのか、真代はいつもの明るさを取り戻していた。
神社というものは、その性質ゆえか、それとも歴史か、日本人にとって親しみやすいものだ。短い石階段を上れば、一般的な神社と同じように、大きな赤い鳥居があり、正面には本殿があった。しかし、そこに柔和は雰囲気はあらず、冷たい空気が辺りを漂っていた。歩みを進めると、真代が鳥居と本殿の間に置かれた狛犬の傍に、小さな人影を見つけた。
「ん、なんか人がいるぞ」
狛犬の乗っている台に背をもたれ、女の子がしゃがんでいた。
「迷子、かな?」
「声をかけてみようか」
真代が近づき、腰をかがめて言った。
「お〜い、ちっこいの〜」
女の子は膝を抱えたまま視線だけを上げ、じろりと真代を睨みつけた。
続いて菊とマナも声をかける。
「君、どうしたのかな?一人だと危ないよ」
「お名前、言えるかな?」
不快そうに眉を歪めた後、女の子は吐き捨てるように言った。
「綾芽。井戸は怖かった?」
「井戸って……さっきの?」
「そうだろうね。とりあえず、迷子でないのならいいんだけど」
「俺たちのこと、見てたのか?結構遠いぞ」
「私はずっとここにいた。迷子じゃない、好きでいるの」
「そっか……!あの井戸、近づいたらダメだよ。深くて危ないもん」
幼い子に語りかけるような口調で、マナは優しく言う。綾芽はそれが気に入らないのか、また不快そうな顔を見せた。しかしすぐに無表情に戻り、その顔を膝に埋めた。
「そうだね。降りるような馬鹿なんて初めて見た」
「げえ、馬鹿って言われちったわ」
「……否定したいところだけどね」
井戸から神社までの距離はそこそこある。ゆっくり歩いてきたとはいえ、綾芽よりも体躯の大きな三人が十分ほどかかった遠さだ。それを綾芽のような子どもが先回り出来たとも思えないし、見晴らしのいい町だ、隠れるような場所もない、誰かが自分達の近くにいれば、気づいただろう。
だが、誰もそうは言わなかった。つけられてはいなかったのだろう。しかしその口ぶりは、見ていたとしか思えない。
──どうして?
疑惑と恐怖の黒が胸に滲んで広がるのを感じながら、マナは綾芽に問うた。
「綾芽ちゃんは、ここで何をしてるの?」
綾芽は暗い目でじっとマナを見つめる。
「あんた達を待ってた」
ドキリと鳴ったマナの心臓を見透かしたように、綾芽は口の端を持ち上げた。
「……とか?」
くつくつと喉の奥で笑う綾芽につられ、マナも引き攣った頬で笑う。
綾芽はにんまりと笑みを浮かべたまま言った。
「私が怖いんだよね。まぁ、当然だよ」
「こ、怖くなんて……!」
思わず服の裾を握りしめたマナとの間に入るように、真代が声を挟む。
「待ってたってことなら話が早い、ここの人間なら尚更だ」
菊もそれに乗じて言葉を発した。
「君は、何のためにここにいる?この町の人間なんだろ、私達のことを知っているのは何故だい?」
綾芽は笑みを崩さず言う。
「私は、全部知ってるから」
菊の瞳を見上げ、じっと合わせた。
「教えてあげようか、あんたの未来。分かるのは明日までだけどね」
──子どもの戯言だ。菊は内心、笑った。
「面白いな、教えてくれよ!」
「そうだなぁ……要さんちに帰ったら、カレーの匂いがするよ」
綾芽の言葉に子どもらしい一面を感じ、マナが頬を緩める。
「カレー?ふふ、カレーが好きなの?」
和やかな様子で問いかけるマナに、綾芽は殊更表情を歪めた。
「信じてないでしょ。ビビり」
「び、ビビり!?」
「まぁ、危ないから、お互い遅くならないうちに帰ろうね」
ふん、と綾芽はそっぽを向いた。
「にしても、カレーか〜、めっさ楽しみだわ!」
他の様子など気にかけず、真代はカレーに頭のほとんどを占められていた。
「教えてくれてありがとな!綾芽、だっけか?」
「合ってるよ。藤堂真代、さん」
「……俺、名前教えてないよな?」
「さぁ、どうだろうね?」
へぇ、と真代は声を洩らす。
「やっぱアンタおもしれえな!占い師かよ」
「あんな偽物と一緒にしないでよ。占いなんかじゃない。私は全部知ってるの」
「そうか、そいつは悪かったな。全部知ってんなら、この町のこともアンタの手の内ってことか」
声のトーンは変わらない。自然な問の投げかけ。けれど、どこか冷たく鋭い。
「手の内?違うよ、私は知ってるだけ。こんな子どもに、動かせるだけの力はない」
今にも弾けそうな張り詰めた空気が二人の間に流れる。明るい表情のまま、真偽を見極めるように綾芽を真っ直ぐに見つめる真代、それを受け止め、更に裏を透かして見ているような冷ややかな顔つきの綾芽。
見えぬ攻防は数秒の間、菊と青い顔のマナは言葉を挟めず顔を見合わせ、事の動きを待っていた。
口を開いたのは、真代だった。
「……明日もここにいるのか?」
「さあね。さっきも言ったけど、分かるのは今日だけなんだ」
「わかった、色々とありがとな!」
ちかりと、菊の目を光が刺した。つられてマナも目を向ければ、赤光が空を呑み込み始めている。もうこんな時間、とマナは独りごちた。
「帰るの?」
心中を先回りされたように感じたマナは、ひっくり返った声で、うん、と答えた。
「お、帰るか?」
「うーん……このまま帰るって言うのもアレだから、ご挨拶くらいはして行こうかと思うんだけど、どうかな」
「そ、そうですね!」
「暗くなってからは危ないから、早くしよう」
二礼二拍手一礼。菊は五円玉を入れた。
──この旅が無事に終わりますように。
五円玉のなかったマナは十円玉を入れた。
──今はこんな感じだけど……楽しい旅になりますように!
真代は何となく百円玉を入れた。
──明日もいい日でありますよ〜に!
綾芽は何も言わず、体育座りをしたまま、狛犬の影からじっとその様子を眺めていた。帰ろうかと踵を返し歩みを始めた三人の背をしばらく見つめ、口を開いた。
「真代さん、カレーは甘口と辛口、どっちが好き?」
「ん〜、辛口の方が好きだぜ」
「残念。甘口カレーだよ、どんまい」
「うわ~!そいつは特大ショックだわ!」
──精神年齢が近いと、話も弾むんだなぁ。菊はしみじみとそう思った。決して馬鹿にした訳ではなく。ただ可愛いなと思っただけで。決して、決して馬鹿にした訳ではなく。
「まあ、おっちゃんのカレーならいいわ!美味いだろうし」
真代の言葉に、綾芽は少し笑った。
「じゃあ、またね。ビビりさんはビビってるし、そこの菊さんも、どうやらあんまり私を信じてないみたいだし」
突然矛先が向いたマナはぎこちない笑みを浮かべた。
「ちゃ、ちゃんと暗くなる前にお家帰るんだよ〜……?」
「あんたもね。ビビりのマナさん」
ひっ、と喉を鳴らしてマナは後ずさりした。
──非科学的な事だ、無論、信用していない。そう心中で答えた時、菊はすっと冷めた視線で射貫かれたのを感じた。
鳥居を超え、石階段の前に立つ。真代は振り返り、来た時と同じように狛犬の足元で座ったままの綾芽に、大きく手を振った。
「また夕飯聞きに来るかもしれねえから~!よろしくな~!」
「ふふ、うん、ばいばい」
夕暮れに染まった階段を降りる。最後の一段から両足を地につければ、居心地の悪い奇異な空気は身から離れ、夏のむっとした暑さが肌に戻ってきた。
陽光の中を三人は歩いている。
「最近の子は凄いな。なんというか、ませているね」
「アイツ、悪い奴じゃねえと思うけどな」
「……うん……」
マナはようやく悪寒が治まってきた頃だった。
──あんな話を聞いたからかな、何を見ても怖く思えてきちゃう。
影は伸びる。三人は歩調を早めた。
誰もいない神社の狛犬の前、綾芽はまだそこに座っていた。足を抱き、ぼんやりと本殿を見つめている。
「……お姉ちゃんも喜んでると思う。代わりに言うね、ありがとう」
長く息を吐き、膝の間に顔を埋め、目を閉じた。

夜の足音が近づいていた。追い立てられるように小走りで、菊、マナ、真代の三人は久内邸へと帰ってきた。日が長いとはいえ午後七時、自然の作り出す闇はそら恐ろしい。
真代が戸を叩いた。つっかえたような音と共に扉が開く。隙間から、ふわりと暖かい空気が流れ込んだ。久内は笑って三人を出迎える。
「おかえりなさい」
「またまたお邪魔しまーす……くんくん、この匂い……!」
「おっちゃん、ただいま〜!おっ、ほんとにカレーじゃん!」
「そうだよ、カレーだよ。辛すぎると駄目かと思って甘くしたら、ちょっとやりすぎたみたいでね……」
「いえ、ありがとうございます。甘いのも好きですので」
「なら良かった。手を洗っておいで、ご飯の用意をしておくから」
はーい、とマナと真代が声を揃えた。
いただきますと手を合わせ、よそわれたばかりの温かいご飯を食べ始める。
早くも真代の皿から半分が消え、ひと息つくように口を開いた。
「今日神社に行ったら女の子に会ったんだけどさ」
「綾芽ちゃんかな。いい子だったろう」
「いい子、まあいい子っちゃ、そうだな」
「何か言われたのかい?」
「いや、別に……」
真代は綾芽の見透かしたような言動を思い出し、少し言い淀む。黙って聞いていた菊とマナも、先刻の怪奇とも言える会話を反芻していた。
それを知ってか知らずか、久内は穏やかな笑みを深めた。
「まぁ、あの子も不思議な子だからね」
「なんつーか、大人びてるよな!」
「そうだね、あの年頃にしては少し達観してる気がするよ」
自分の妹弟に比べても、確かにそうだと真代は思った。
「そうだおっちゃん、商店街の人達から聞いたんだけどよ、今朝、神社の巫女が殺されたって話、知ってるか?」
ぴたりと、久内の手が止まった。驚愕の色が瞳に現れる。告ぐ言葉を探すように逡巡し、おもむろに真代を見た。
「巫女が……?」
虚ろな表情のまま、呑み込めないものを無理に嚥下するような、喉に詰まった声で久内は答えた。
「そうか……教えてくれてありがとう」
「知り合いだったのか?なら悪いこと聞いちまったかもしんねえ、ごめんな……」
「いや……良いんだよ、どうせ狭い町だ、どうせどこかで知っていただろうし……。今朝か、そうか……早く知れて良かった」
物悲しげに微笑む久内を見て、真代もしょんもりと俯く。
何とも言い難い気まずい静寂が流れる。
「あ、え、えーっと!」
大声を出したマナに全員が向く。ぐるぐると目が泳いでいるマナは、懸命に話題を変えようと頭をフル回転させていた。
「そういえば、この隣にもう一つ町があったんですって?」
「え?」
「資料館でそう書いてある本を見つけたんです、け、ど……デマなんですか!?」
「そんな話、聞いた事ありませんな……」
久内は眉を寄せ、顎をさすりながら首を傾げる。
──知らない?資料館の管理者なのに?
菊は久内のその返答に疑問を持った。
「ここ数十年の話みたいでしたよ!久内さんは、どのくらいからここに住んでらっしゃるんですか?」
「私は生まれた時からですから……ええと、三十九年になりますか」
菊はカレーを口に運びながら、自然に見えるように、じっと久内の様子を観察した。
表情は普段とあまり変わらない。少し沈んでいるように見えるのは、巫女の話の時からだから、それが原因だろう。声の高さの変化や震えもない。視線もしっかりと向けられているし、不自然な動作も見られなかった。
──嘘をついてる訳では無いか……巫女の話も知らないようだったし、外のことに対して疎いのか?
「あの、久内さん。失礼ですが、ええと、お仕事は」
「あー……お恥ずかしながらちゃんとした職にはついておりませんで……。山が近いでしょう、それで山菜をとったり薪を作ったりでまぁ、自給自足でして……野菜ややんやは時々物々交換する程度でしてね」
「へえ~、おっちゃん、山いくのか!すげえなあ」
「ずっとここにいるからね。良く行くよ」
「そうなんですか。いいですね、自然が近くて。コンクリートジャングルより、素敵です」
「まぁ、その分不便ですがな」
はは、と久内は朗らかに笑った。
「あぁ、そう言えば……昔はこんなに蝶がいなかったんですかね?もしかして、蝶が増えたのはここ最近ですか?」
「いや?私が子どもの頃から蝶は多かったですよ」
「えっ、でも……」
マナが思わず口を挟む。
「何かあったんですか?」
「いや、私の勘違いかもしれないです!」
釈然としないものの久内は、そうですか、と話を切った。
蝶のいないこの町について書かれていた本は、奥付によると五、六十年は前のものだった。
──まぁ、俺と歳変わらないしなぁ、町長に話を聞くべきかも。
「ごちそうさま!」
一人だけ多めによそってあった真代の皿が、一粒残さず空になった。
「おかわりはいるかな」
「ん〜、お腹すいたし、貰う!」
久内は朗らかに笑って応じた。
全員が食べ終わり手を合わせ、各々寝支度に入ることになった。真代は久内の皿洗いを手伝い、菊は自室に戻り、マナは風呂に入る。家主より先の一番風呂を謹んで辞退したマナだったが、久内は食器は早く洗わないと、と譲らなかった。困って菊を見ると、微笑みを湛えて言葉を返された。
──お先にどうぞ。結構歩いたし、おじさんの後だと嫌だろうから。
こういうことを言う時の菊は、どこか謎の哀愁を感じる、とマナは思った。
自分の方が歳上なんだがなぁ、と端で聞いていた久内は心の中で口を挟んだ。
大浴場を狭くしたような更衣室を抜け、少し冷えた石造りの床の上を歩き中を臨むと、いかにも男の人の一人暮らしといった様子で、置かれた洗剤は量産品、良く使われているのは石鹸のようだった。お風呂セットを持参して良かった、とマナはしみじみ思った。
一日ぶりの風呂に、るんるんと鼻歌混じりの上機嫌でマナは湯に浸かる。肩まで入って、一息。こうして湯船に浸かることで落ち着くのは日本人の習性を感じる。心做しか、疲れが取れていくようだ。
──今日の不思議なことも、一緒に流れてくれればいいのに。
井戸と、神社。感じた得体の知れない恐怖を思い出し、熱い湯の中、マナは身体を震わせた。
早く出よう、と水を巻き上げてまた石の床に立つ。足裏のひんやりとした冷たさに少し落ち着いた。
旅行用の小さな容器からボディーソープを手に取り、洗う。だんだんと調子が戻ってきたのか、マナは鼻歌を再開した。水音と自分の声。その中に、異質な音がふと混ざった。
草を踏む音。洗う手を止め、マナは少し開けられた窓を見た。しばらく凝視する。しかし夜、誰かがいるわけもない。
──なんだ、気のせいか。
視線を戻しかけたその時。窓のすぐそばを、誰かが──何かが、通過した。
確かに。この目で。それを見た。
「きゃ!な、何……!?覗き……とかじゃないよね!?」
己の声だけが部屋の中を反響する。いくら目を凝らしても、窓の外は静かな闇だった。
「うんうん、そんなわけないよね!ほんと、あの子が言うようにビビリだ、私ってば……」
深呼吸ひとつ、急いで身体を流し、乱暴に頭を洗って小走りに浴室を出る。まだ洗い物をしているのだろう、水の音とかすかな話し声が聞こえた。マナはほっと胸を撫で下ろし、身体を拭いて着替え始めた。
くだらない世間話や、今日の出来事などを話す。ふと、真代が手を止めて皿を持った手元を見つめた。どうしたのかと久内が口を開く前に、その一言は発せられた。
「俺、実はさ、父親いないんだよ」
驚いたように久内の目が開かれる。どう言葉をかけるかと逡巡する様を見て、真代は焦ったように続けた。
「あぁ、でも、弟と妹がいるから。むしろうるさいくらいだ」
何かを重ねているのか、久内は眉を寄せ、唇をきつく結んでどこか一点を見つめていた。
言わなければ良かった、と真代は後悔した。
──けれど。
けれど、この人なら認めてくれるような気がした。
「なぁ、おっちゃん小説好きか?」
唐突な問に久内は面食らいつつも、平生の調子を戻して答えた。
「小説かぁ、あまり読まないけど、嫌いではないよ」
「そっか、いきなり変なこと聞いてごめんな。それが聞けて、俺はよかったよ」
「真代くんは、何か書き物をしてるのかい」
「少しな、でも全然だ。親父に憧れて始めたけど難しくてさ」
寂しさの色が見えるものの、明るく話す真代に、久内は柔らかに眉を下げた。
「お父さんは小説家だったんだね。憧れのお父さんなんだ」
「……親父は言葉を大事にする人だったんだ、小説家だからとかじゃなくて、純粋に言葉が好きだからって。多分一生の目標になるかもな」
脳裏に、父親との日々が浮かぶ。思えば、こうして穏やかに父親のことを話すこともなかった。心の中で片を付けたような気でいて、その実、蓋をして封じていただけだったのかもしれない。苦しいことばかりではなかったはずなのに、きっと、紐解かなければ分からないことだった。
「……かっこいい人だね。何かを大事に出来るのはすごいことだ。とても、大変なことだからね」
そう言うと久内は真代の目を真っ直ぐに見つめ、笑いかけた。
「真代くんの文はきっと素敵なんだろうね」
「俺の文なんて親父には程遠いよ。……でもありがとうな。認めてくれるヤツとか、家族と、あと一人しかいないと思ってた」
「どうして?目指すものがあるのはいいことだよ、それを否定することが間違っているよ」
なれるわけがない、出来るわけがないと言われてばかりだった、その内本当になれるのか、不安になっていた。だからその言葉は、酷く真代の心に染みた。
「おっちゃんは、やっぱり優しいな」
「そう思える真代くんが優しいんだよ」
「どうだか!案外器が狭いかもしれないぞ」
「ふふ、そうかな。これでも人を見る目はあるつもりだよ、長く生きているからね」
「流石おっちゃんだな!俺じゃ到底敵わんなあ」
笑う真代につられ、久内も破顔する。
風呂を出たあと、三人は部屋に戻った。真代は日記を書き、菊は携帯が圏外なのを確認し大の字で転がり、マナはストレッチをしていた。久内が居間の机を拭いていると、マナがひょっこりと顔を出した。
「あ、ごめんなさい、遅い時間に!ここって電波が届いてないですよね、電話とかどうしてるんですか?ちょっと家に連絡が取りたくて……」
「あぁ、確かに不便でしょうな、都会の人にゃ……電話も特に必要ありませんからな、狭いですし、何かあれば直接来ますもんで」
「なるほど、連絡を取る術はないってことですかぁ……うーん、仕方ないか。ありがとうございます、おやすみなさい!」
「おやすみなさい。また明日」
布団を前にしたマナは大きく伸びをして倒れ込んだ。神社での出来事や風呂での気配のせいで、少しの物音にも驚いてしまっている。情けないと思う。
──けど、怖いものは怖い!
頭まで布団に埋め、きつく目を瞑った。
退屈しのぎに開いた音楽雑誌を眺めるうち、少しずつ瞼が落ちてきた。ぱたりと閉じて枕元に置き、菊は仰向けに寝転がる。
──消された町に、現れた蝶か……。気がかりなことは沢山ある。が、ひとまずまた明日。今は夏だ、ゆっくり調べていけばいい。長めに息を吐いて、身体の力を抜いた。
どこが似ているわけでもない。顔や背格好だって違う、ただなぜか、なぜかその姿が父親に重なって見える。ふと、父の温もりが蘇る。言葉を紡ぐあの手に、優しく頭を撫でられたのを覚えている。あの時は随分大きく見えた。
おもむろに浮かんできた涙を乱暴に拭い、真代は両手で顔を覆った。
夜は長い。寝静まるもの、動き出すもの、眠らないもの。少しずつ、家は意識の闇へと沈んでいく。
夢の深淵から戻ってくるには、まだ時間がかかる。
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