三日目

文字数 17,963文字

ああ夢を、夢を見ている。叶わない現実だ。ここでなら叶う現実だ。
目覚めたくない。ずっとここにいたい。
ずっとそばにいたい。
「……父さん」

どうにも眠りが浅かった。うつらうつらと夜を過ごすうち、いつの間にか外は明るくなっていた。枕に顔を埋めたまま、マナは唸り声をあげる。のそのそと身体を起こし、ぼんやりと手元を見つめる。昇りかけの朝日は少し冷たい。かすかな鳥の声と風の通る音。どれほどの時間そうしていたか、誰かの起きる気配にハッとする。布団を畳んで着替え、さっと髪をまとめて部屋を出る。居間に入ると、鍋をかき混ぜている久内と席についている菊がいた。
「あ、おはようございます!」
まだ半分寝ているような様子の菊は、マナの声にゆっくりと振り向く。
「おはよう……うん、朝から元気だね。疲れてないのかな……」
「私はピンピンです!真代くんは?」
「早くからここにいるけど、まだ今日は見てないな……ふたりも会ってないのかい?」
「ええ。疲れてるのかな、大冒険だったし」
ピタリと久内の手が止まる。視線を落とし、いつになく思い詰めた表情を浮かべる。
「……少し様子を見てこようか」
「私も一緒に行きます。何だか弟みたいに思えてきてしまって」
久内は菊を見やってわずかに微笑んで頷き、パチリと火を消して居間を出た。先導する久内の後ろを菊が続く。マナは少し迷い、足早に菊の後ろについた。
襖越しに久内は声をかける。
「真代くん、起きているかな」
返事はない。久内の顔が少し曇る。
「真代くん、おはよう。ご飯ができてるよ!ご飯、なくなっちゃうよ!」
返るのは無音。逡巡し、久内は襖を開けて部屋に入った。
枕に足を乗せ、逆さまに寝ている真代は、顔を横に向けたまま、むにゃむにゃとまだ夢の中のようだ。
「……うーん、まだ少し……もう少しだけ……」
「真代くん?真代くん、起きて」
ぽんぽん、と真代の肩を軽く叩く。
「……もう、ちょっと……ほんの少しだけ……で、いいから……」
くしゃりと顔を歪め布団を引き寄せる真代に、菊はしゃがみこんで声をかける。
「寝かせてあげていてもいいけど、真代くん」
真代は寝言と共に突っ伏す。どうにもならない、と菊はマナと久内の方へ向いた。
「先にご飯食べようか。真代くんの分は置いておいて……」
「いや、起こした方がいいでしょう」
キッパリと言う久内に、菊は違和感を覚えたが、それを口にする前に、視界に入った別のものに興味を引かれてしまった。
「……更科さん?」
マナはハッとして、携帯で特大アラームを鳴らそうと構えていた手を止めた。何でもないとでもいうように曖昧に笑って後ろ手に隠す。その様子に菊はくすりと笑って、また真代に声をかけた。
「真代くん、起きて。ご飯、先に食べちゃうよ」
「んあ……?あっ、やべ、寝過ごした!」
勢いよく上半身を起こした真代を見て、久内は安堵したように息をついた。
「あぁ、良かった、おはよう」
「てか、みんな起こしに来てくれてたんすか、すいません……」
菊は腰をあげながら言った。
「おはよう、疲れたよね。ゆっくりでいいからおいで」
「はざます!ほんとすいません、急いで着替えるんで!」
その場で脱ぎ出しそうな様子の真代を見て、菊、マナ、久内は早足で部屋を出た。
廊下でマナが言う。
「そういえば夜中、変な音がしませんでしたか?」
振り向き、菊が答える。
「私も聞いたよ。ガタガタって音」
「やっぱり!何の音だったんでしょうね……」
久内は二人の話を背中で聞き、前を向いたまま言った。
「まぁ、古い家だからね。家鳴りか何かだと思うよ」
居間に入ると、マナがおちゃらけた調子で聞いた。
「ズバリ、今日の天気は?」
「外を見てごらん」
マナはキッチン越しに窓の外を覗く。昨日の快晴が懐かしいような、どんよりとした灰色の、暗い薄靄のかかった空だ。雨は降らなさそうだが、何となく、気の沈む色合い。
「うーん、イマイチですね」
「そうだね、あんまり気分のいい天気ではないね」
そう言うと久内は食卓に朝ご飯を並べ始めた。ほかほかの白米に野菜が沢山入った味噌汁、焼いたししゃもと炒り卵、お好みでと漬物の入った器が置かれた。丁度肩で息をしている真代が入ってきて、四人は席に着いた。
食後、空いた皿を洗おうとする真代の手を久内は止めた。
「片付けは私がやっておくから、みんなとお話ししておいで。せっかくなんだから、楽しんでね」
「おっちゃん、ありがとな〜」
いいえ、と久内は笑った。
何も乗っていない食卓を囲んで、三人は予定を話し合う。
「今日はどうしようか?町長さんに話を聞いてみたいかなとは思ってるんだけど」
「あの、私、女の子のことがどうしても気がかりで。ちょっと神社に様子を見に行きたいなって思います!」
「じゃあ神社行ってから町長さんのとこに行くか?」
「うん、そうだね。そうしようか。真代くんも疲れてるみたいだし、ゆっくり行こう」
「俺はこの通り元気っすから、気にしないで大丈夫!」
パタパタと両手を振って真代はアピールする。菊とマナはくすりと笑い、各々支度をするため部屋へ戻った。

石階段の上、閑散とした神社。紛うことなく、昨日訪れた場所、確かにそのものだ。しかし──。
「こいつぁ……どういうことだ……?」
鳥の声、虫の音、風。同じ空気と、違う風景。鮮やかな朱色を見せていた鳥居は、薄黒に酷く汚れていた。
「嵐にでもあったみたいだ」
──そう。
その場の三人、全員が思ったことだ。嵐のような天災でない限り、人間を超えた何かでない限り、一夜にしてこれだけの広さの相貌を変えることなど、不可能だ。
何が起こっているのか。
少しでも情報を、事実を得ようと見渡すと、鳥居の向こう、狛犬の足元、目に入ったのは、赤。
赤色の、血痕。
脳裏に浮かぶのは昨日の風景。そこにあったのは、そこに居たのは──。
「……綾芽」
最悪の想像。最低な結論。この出血量、嫌でも悟ってしまう事実。
引き攣るような音を喉から発し、マナは両手で口を抑えた。その横で真代は悔しそうに唇を噛み、俯いている。
ただ菊だけが、険しい顔をしながらも、動き出した。
石畳に足音が響く。静かな時間の中、菊は歩みを進める。鳥居に近づくと、汚れは鮮明に見えた。まるで煤のようだが、触ればべとりと指に張り付く。可能性を考える。知識と現象を照らし合わせ、事実を導き出す。しかしどうしても、菊の知る中で一致するものは欠片さえなかった。
次に気になるのは血痕だ。せめて、犯人の──殺人鬼の使った凶器などでも分かるといいが。
赤黒くなった血溜まりに一歩ずつ近づき、傍でしゃがみ、覗き込む。
と。
背を気味の悪い感覚が伝った。感じたのは誰かの視線。それも一人じゃない、複数の。ぎこちない動作でおもむろに振り返り、そして目を見開いた。
誰もいない。
どさりと両の膝をつき、菊はその見えざる気配から必死に目を逸らし俯いた。
ただならぬその様子に、マナと真代はハッと意識を戻し、駆け寄った。
「菊さん、大丈夫か!?」
「ど、どうしたんですか……!?」
近寄ってきた二人の影を感じつつも、菊は顔を上げることが出来ない。ただ、汗を伝わせ、震えるだけだ。
「……何か、何かが、見て、こっちを、み、見られてる」
何を尋ねても菊はそればかりで、マナと真代は困惑したように顔を見合せた。
「一体、何を見たって言うの?」
「……分かんねえ。でもこのままじゃ、やべえ気がするな」
「私もそう思う。えっと、千歳さんが見てたのって、これ、だよね」
マナが血痕を指す。
「多分、そうっす」
「真代くん、千歳さんを離れたとこに連れてってくれる?ちょっと調べてみる」
「了解。でも気をつけてください、菊さんがそうなった原因、きっとそれっすから」
ありがとう、とマナは笑う。
真代が菊を連れて離れたのを確認し、マナは改めて血痕を見た。昨日、綾芽が座っていた場所を中心に広がっていた。大きな血溜まりがひとつ、周りに飛び散っている血は小さい。そっと触れる。あれほど鮮烈に見えた赤が、今ではただの黒ずみの他には目に映らない。地に染みきって、乾いている。ふと、その中、薄赤の塊が視界に入った。
「っ……!!」
ここで死んだのが綾芽なら、これは、その肉だ。
──本当に、人が死んでるんだ。
強ばる頬を、マナは両手でばちんと張った。
「だめ、落ち着かなきゃ」
見れば、塊はいくつか転がっている。点々とあるそれに、マナは既視感を覚えた。
──これは。
脳裏に、ちかりとひとつの光景が浮かんだ。幼い頃連れて行って貰った動物園、そこで見た、肉を貪るライオン。まだ小さかったからか、酷く焼き付いた画面だった。大きく口を開けて乱暴に歯を立てるライオン、そして、噛みちぎられた肉。
足元に転がるそれは、あの時のものに良く似ている。
──これは、生物が、自分の口で噛みちぎった跡だ。
ぞわりと這った寒気を、マナは腕を組んで押さえつけた。汗が噴き出し、心臓がこの手に触れそうな程に鳴っている。
マナの背を遠巻きに見ていた真代がおもむろに口を開いた。
「俺、町長のとこ行ってくるから、マナさん、菊さんのこと頼んでいいか?」
振り向き、立ち上がってマナは答えた。
「任せて。……くれぐれも気をつけてね」
「おうよ。じゃあ、また後でな!」
片手を挙げて背を向け、駆け下りていく真代をマナは見送った。

階段の最後の三段をジャンプして飛び降りて、真代は身軽に走った。記憶に残る地図を頼りに、所々躓きながら町長邸に向かって進む。
周りの他の家々よりも、一際大きな建物があった。久内の家よりも近代的な見た目で、しかしどこか似たような感じがした。
チャイムを押す。しばらく経つが、返答はない。押せていないのかともう一度。しかしまた何も返って来ない。首を傾げて、真代はドアノブに手をかけた。ガチャガチャと動かすが、開かない。鍵がかかっているようだ。
「閉まってらァ、留守か?」
人がいないかと、建物の周りをぐるりと歩く。窓から明かりが見えた。覗けば、カーテン越しに人影がある。真代はその誰かに向かって、家に上げてくれ、と言いながら窓を叩いた。
ハッと、弾かれたように菊が顔を上げた。何があったのか、自分がどうなっていたのかを理解し、額に手を当て、申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「……ごめん、更科さん」
「千歳さん!良かった」
「疲れてるみたいだ、ごめんね……」
「いいえ、無理もないですって」
「ありがとう、更科さん。真代くんは?」
きょろきょろと周りを見渡し、菊は言う。
「今、町長邸の様子を見てきてくれてるんです」
「あぁ、うん、私のせいだね、更科さんを待たせてしまった。追いかけようか」
「そうですね!……でも、今後誰のせいとか、そういうのはナシですよ?」
溜息をつき沈んでいる菊に、マナは特大の笑顔で言った。
「私も、たくさん迷惑かけてますから!」
明るいマナに、菊は情けないというように苦笑した。でもそれも、悪くない。
「はは、じゃあそういうことにさせてもらおうかな」
「ええ、そういうことにしてください!」
行こうか、と二人は腰を上げ、町長邸へ歩き出した。
「すいませーん、開けてくださーい。すいませーん」
返事がないのを気にもせず、真代は叩き続ける。すると突然、窓が音を立て思い切り開かれた。
「なんだ、しつこい……俺は居留守を使っていたんだ、察してくれ」
顔を出した眼鏡の若い男性は、真代の顔を見ると面倒くさそうに息をつき、また言った。
「はぁ……とりあえず何か用があるなら玄関からおいで。開けたから」
「すまねえ、ありがとな!」
真代が表に回ってすぐにドアが開かれた。
「どうぞ」
「お邪魔しまーす」
外観通り、時代錯誤な田舎の中では今に近い内装だ。少なくとも久内の家よりも後に建てられたのだろう。
通された部屋には低いテーブルと向かい合わせのソファが置いてあった。真代は勧められた席に、男性はその向かいに座った。三十手前であろう、大きめの眼鏡の奥から覗く瞳には疲れが滲んでおり、若さとは相反してくたびれた印象を与えられる。
「会って早々で悪いんだけど、アンタが町長さんなのか?」
「そうだ、私が町長の湯賀だが」
「湯賀さんか、俺は藤堂真代ってんだ。さっきはすまなかったな」
「いや、まぁ……居留守をしていた私も悪いから」
歯を見せて笑う真代に、湯賀はまた小さく嘆息した。
「町長ってことは、この町について何でも知ってるのか?」
「はぁ、基本的なことは何でも……」
「そっか~、俺、ここ来たばっかだからよく分かんなくてよ!色々聞いてもいいか?」
「どうぞ。役に立たないかもしれないが……若い人が来てくれるのは嬉しいことだから」
一転、真代の顔つきが変わる。朗らかな笑みを消し、真摯な目で真っ直ぐに湯賀を見つめる。
「ここと、もうひとつあった町のことについて、何か分かることないか?なんでもいい、少しでも何か知ってんなら、教えてくれ」
自然、膝に置いた手に力が入る。
しかし、その返答は真代の期待したものではなかった。
「もうひとつの町……?そんなものどこにあるんだ?この山で他に町は無いが……」
──嘘かもしれない。
真代は依然視線を逸らさず、湯賀を見る。
「隣にあったんだってよ、アンタも生まれちゃいないだろうけど。でも確かに資料に残ってるぞ」
「そんなもの、私は知らないぞ……?どういうことだ……」
「ふるーい雑誌にも載ってたぜ、ここの住民が殺しただのなんだの、面白おかしく書いてやがった胸糞悪い文章だったけどなぁ」
眉間にしわを寄せ、青い顔で俯いている湯賀を見て、真代は態度を緩め、不思議そうに問うた。
「……ほんとに、なんも伝えられてないのか?」
「私は、知らない……そんな話、聞いたこともない」
「……まあ、アンタを疑ってるわけじゃねえんだ。ただ、なんか知ってっかなーって思って聞いただけだし」
湯賀は顔を青くしたまま、そうか、と消え入りそうな声を発した。
何か言おうと真代が口を開いた時、無機質なチャイムの音が二人の間に響いた。
「今度は誰だ……はいはい」
重い腰を上げて湯賀がドアを開けるとマナが立っていた。その後ろには菊もいる。
「こんにちは!ええと、町長さんのお宅、でしたよね?」
「あぁ、はい。町長の湯賀だが」
「こちらにお邪魔しているはず……の男の子の、知り合いなのですが」
「来ているよ、藤堂くんだったか。何か用なのか。迎えなら今呼んでくるが」
「いえ、あの、実は私たちも、湯賀さんに聞きたいことがあってぇ」
言いかけ、ハッとしたように姿勢を正した。
「申し遅れました!私、更科と言います!」
「私は千歳と言います」
「今日は賑やかだな……まぁいい、ついておいで」
居心地悪そうにソファでひとりそわそわしていた真代は、湯賀に続く菊とマナの顔を見て、安堵したように息をついた。
「マナさん!良かった、菊さん、元気そうで」
「ごめんね、心配かけて」
「全然!良いってことよ」
ドアが開けられ、湯賀を見た時から思っていたことが、菊にはあった。
──町長と言うには、若いな。
その視線に気づいたのか、湯賀は怪訝そうな目で菊に言った。
「なんだ、じろじろと」
「あぁ、いえ、すみません、随分若いなと」
「はぁ、良く言われるが……頼りないとは」
もう一度湯賀は大きく溜息をつき、三人に向き直った。
「何があったかは知らないが……大方、君たちもなにか聞きに来たんだろう」
「はい、少し……」
「ならとりあえず座って待っていてくれ。今、お茶を持ってくるから」
「お気遣いなく。聞きたいことを聞いたらすぐにお暇しますし」
菊は、湯賀の血の気のない顔を見て言った。
「体調が優れないなら無理はしない方が良いです」
「体裁くらい張らせてくれ。お茶も出せないほどではない」
湯賀はくるりと背を向け台所へ消えた。三人は横並びでソファに座る。さすがと言っていいのか、それでもまだ隙間があった。
「真代くん、何か彼に聞いた?」
「え?あー、隣の町について聞いたけど……なんにも分からなかった。まぁ、随分と前の話だしな」
ペットボトルの緑茶とジュースと三人分のグラスを持って湯賀はまた姿を見せた。
マナは湯賀の体調を心配するようにその顔を見た。青いままだ。
「ごめんなさい、気を遣わせちゃって」
「大したことじゃない。気にするな」
菊にお茶を、真代にオレンジジュースを注いで渡す。残りのコップにもオレンジジュースをいれようとして、湯賀はちらりとマナを見た。
お茶で!お茶で!と主張するようにマナは胸の前で両手を振る。
そんな様子にくすりと僅かに目尻を下げて、湯賀はグラスにお茶を注ぎ、テーブルに置いた。
「そういえば、この町には警察も居ないと聞きましたけど、何か理由でも?」
おかしなことを聞く、とでも言うように眉をひそめながら、湯賀はゆっくりとソファに腰掛けた。
「警察が居ないことに、特に理由は無かったように思う……昔は自警団が存在したが、自然消滅したと聞いた」
「そうですか……でも、何かと困りませんか?」
「あまり……困ることは無いな。警官も、所詮人間だし」
「人間だったら不都合なことでもあるのか?」
「あぁいや、変な意味ではない。所詮人間なのだから、訓練のない町の人間でも代替が効くという意味だよ」
菊は一瞬、訝しげな表情を浮かべたが、すぐに平生の声色に戻した。
「最近、事件があったそうですね」
菊の声に湯賀の動きが一瞬止まる。
「犯人は捕まったらしいですが……物騒ですね」
「……そうだな」
真っ白と言えるほどに湯賀の顔色は悪くなる。菊はそれを見て、畳み掛けるように聞いた。
「このようなのどかな町なのに殺人とは。犯人は一体、何を動機に殺したのでしょうね」
「もうその話はいいだろう」
少し苛立ったようにきつく言い放つ湯賀に、マナは眉を寄せ、ぽそりと呟いた。
「町長さんなのに……問題から目を背けてるみたい」
バン、と突然大きな音が響いた。三人は驚いて、その主を見た。
「うるさい!」
充血した目を見開いて、少し俯き、何もない宙を見つめながら、湯賀は僅かに零れ出した熱を内側に秘めるように声を絞り出した。
「分かっている、分かっているさ、私が無能なのは十分承知だ、分かっている……」
「い、今からだって守れる命があるかもしれないじゃないですか!」
噛み付くように言い放つマナに、湯賀は恨みがましげな目を向けた。
「だから仕方ないと?無理だったと諦めるべきだと?他の住民を守るための布石だったと考えろと?」
少し腰を浮かせて口を開きかけたマナを制し、菊は言った。
「湯賀さん、少し落ち着いてください」
視線の先が勢いよく菊に向く。何か言いかけて、飲み込んで、簡素で掠れた声を発した。
「……人が、死んだんだぞ?落ち着いてなどいられるものか」
湯賀の目が、菊を向き、段々と透けたその先を見始める。
「巫女だけじゃない、あの子どもだって、死んだ。どうすれば、良かったんだ……」
「私達は観光客だ。事件があって不安になるのは当然だし、それに対して詳しいことが知りたいと思う。少し、説明していただけませんか?」
「……こうして人が不審死するのは、昔から良くある事らしい。私は聞いただけだから、きっと久内さんの方が詳しく知っているだろう」
「君はあまり、この町の歴史には詳しくないのですか?」
「あぁ。認めたくないが、詳しくないな。父も、特に何かあるとは言っていなかった」
菊と湯賀のやり取りを見ていた真代が、僅かに目を細めて、言った。
「あの子どもって、綾芽の事じゃねえよな」
「綾芽……。恩田さんは、確かにそう呼んでいたな」
「恩田さん?」
「ああ、会わなかったのか。神社の巫女だよ」
黙っていたマナが眉を下げて、おずおずと口を開いた。
「……ごめんなさい、私すごく失礼なことを」
「いや……。とにかく、用がないのなら帰ってくれ」
申し訳ないように目を伏せたマナが立ち上がろうと腰を浮かせ、それを見た菊も続こうと手を着いた。
「すまん、もうひとつ聞いていいか?」
真代だけが姿勢を変えず、座ったままだった。
「なんだ」
「巫女殺しの犯人、捕まったんだろ?どこにいんだよ」
冷ややかだけれど熱のこもった声色。いつになく、その瞳は鋭い。
「町長ってんなら話くらい聞いてるはずだろ。答えろよ、どこにいんだよそいつは!」
突きつけるような語気と共に真代の身体が前のめりに動き出し、その腕は湯賀の胸元を乱暴に掴み上げた。湯賀よりも背の高い真代は、僅かに身体の浮いた目の前の相手を睨み、見下ろした。
「真代くん、あまり声を荒らげるものでは無いよ。でも、そうだね。それは聞いておきたいな」
湯賀はがっくりと俯いたままぴくりとも動かない。菊はこれ見よがしに溜息をつく。
「はぁ……。言いたくない?それとも言えない?捕まったのは確かだよね?」
マナも真剣な顔で湯賀を見つめるが、依然、黙ったままだ。
「……だんまりかよ」
乱暴に湯賀から手を離す真代。湯賀は体勢を崩し、倒れ込む。辛うじてソファに受け止められるが、その姿勢のまま、動かない。
「人が死ぬ、それは昔にもあったこと。犯人は捕まったという噂だけ ど、定かではない。……根拠の無いことはあまり言いたくないけれど、君も一枚噛んでたり、するのかな」
青い顔で目線を落としたままの湯賀を見下ろし、真代は思った。
──こうじゃない。俺がしたいのは、こういうことじゃないんだ。
冷めたものの、先程の怒りはまだ底に燻っている。だが、誰かを責めるのではなく、誰かの為になりたい。
それに、感情に任せても何も進まない。
真代はぐしゃぐしゃと髪を掻き回して湯賀に向き直った。
「……俺もちと頭に血が上がったみてえで、すまなかったな。でもよ、アンタがこのまま黙ってちゃ、なんにも分かんねえんだよ。困ってんなら人に頼ればいいんじゃねえか、少なくとも、俺達はアンタの力になるからさ。俺は……このまま終わらせる気は毛頭ないぜ」
真代の目の奥で真っ直ぐな意志が燃えている。湯賀は決してそれを見ようとはせず、けれど重そうに口を開いた。
「……犯人が捕まったというのは本当だよ。正確には、犯人だと言われていた奴が、な。ここの地下に閉じ込めておいたんだ。だが……逃げたんだ、一昨日な……」
一際大きな嘆息と共に、湯賀は本心を吐き出した。
「……私のせいなんだ」
言葉が宙に浮いたまま、場は静まり返った。誰もがその次を探す。
考え込んでいた菊が、口火を切った。
「……なるほど。そしてその犯人は未だ捕まってないんだね」
「じゃあそいつ捕まえりゃいいってことか?」
「つ、捕まえる…!?」
「いや、そう単純にいくかな。向こうは……中々、残忍な性格らしいし」
うーん、と菊は喉の奥で唸る。
「そうだ、何か犯人の特徴とかはある?気をつけておきたいし、何か協力出来ることもあるかもしれないから」
菊が振り向き問うと、湯賀はがっくりと首を下げたまま言った。
「……もう放っておいてくれ。頼むから……」
頭を抱えた両手の隙間から、ぶつぶつと何かを繰り返し言う音が洩れている。マナは困惑と気味の悪さを覚え、両腕で己の身を抱いた。
湯賀のその様子に菊は片眉を上げ、再度声をかけた。
「……湯賀くん、少し地下を見せてもらってもいいかな」
返事はなく、菊は身体の向きを変え、地下への入口を探し始めた。マナ、真代もそれに続く。その部屋の奥、湯賀の背中側にあった扉を開く。物置のような空間の隅に、いかにもなハッチがあった。端の端まで掃除されていた地下扉を持ち上げると、暗い最下へと続く梯子がのぞいた。下りて電灯を付けると、真っ先に目に飛び込んできたのは、洋画で見るような鉄格子。三つのかんぬきさえ開けられればすぐにでも逃げ出せてしまう造りだ。
「ずさんだね。殺人犯を閉じ込めておくには不適切だ」
「どうやって、逃げたんだろう……」
「……飯は貰ってたみたいだぜ」
真代が鉄格子の向こうにある皿を指さす。
菊はかんぬきに手をかけて、しかし離し、格子の隙間から中を観察し始めた。
クッションが置かれていたりと、比較的過ごしやすいようにする気遣いが見える。湯賀がやったのだろう。
「鉄格子は壊れてないね。私、犯人は人間じゃないのかな……とか思ってた。あはは、ありえないよね、そんなの……」
「俺もそう思ったぜ。なんつーか……変だ」
二人が顔を歪めた時、えっ、と菊が間の抜けた声を上げた。
「どうしたんですか?」
「……二人とも、とりあえず湯賀さんに声をかけてから出ようか。歩きながら話すよ。あまり人の家に長居するのは良くない」
「そうだな」
一歩一歩、踏み外さないようゆっくりと梯子を上り、蓋を閉め、立ち上がる。
こちらに背を向ける湯賀の様子は変わらない。菊が声をかけるが、湯賀は返事どころか目を向けもしない。
「……私たちはこれで失礼するよ。色々すまなかった」
石のようにソファに腰を沈めたまま動かない家主だけを残して、ドアは静かに閉められた。

マナの顔が暗い。菊と真代に続いて俯きがちに後ろを歩いている。菊は肩越しに振り向いて言った。
「また明日様子を見に来てみようか」
「私は、それはあまり……また町長さんの気分を悪くさせちゃうかもしれないです」
真代は足を止め、マナに向き直った。
「マナさんは悪くねえよ、純粋に思ったことなんだろ?」
「それでも……ううん。真代くん、ありがとう」
「あんま気にすんなよ!」
「うん、もう大丈夫っ!」
両拳を上げて見せるマナに歯を見せて真代は笑い、頭の後ろで腕を組んで、あーあと投げやりに叫んだ。
「俺も頭を冷やさねえとなあ、手が出ちまったし」
「まぁ、非日常的なことが起こりすぎているから、余裕が無いのは仕方が無いよ」
菊は空気を変えるように明るい声で言った。
「ご飯でも食べようか?とりあえず、そこで状況整理しよう。腹が減ってはなんとやらだ、私が奢るよ」
「いいんですか?ありがとうございます!」
「いっつも菊さんばっかですいません、俺も何か出来りゃいいんだけどなあ」
「気にしないで。何だか弟と妹みたいで、世話を焼きたくなっただけだから」
商店街の近くまで歩いてきた三人は、少し外れた場所にある定食屋に入った。外壁や店内の至る所にある貼り紙など、オススメなのだろうカツ丼を注文する。他に客がいないからだろうか、程なくして温かいどんぶりが並べられた。
手を合わせ、三人が少し食べ始めてから、菊は口火を切った。
「今、気になってることだけど……まずはあの事件だね。久内さんに聞くのがいいと湯賀くんは言っていたから、今日の夜でも大丈夫かな?」
「……俺は大丈夫だ」
「そうですね、久内さんなら答えてくれると思います、きっと……」
「そう、そう言えば、あの地下牢には足跡があったんだ」
「足跡……って、犯人の?」
「多分ね。……子どものものだった」
「こ、子ども?子どもが、巫女さんや、あの女の子を殺したっていうことですか……?」
「まぁでも、犯人と思われている、って湯賀くんは言ってたから」
真代は口に箸を運びながら聞いている。大きめのひとくちを最後に、器は空になった。
「あとは、もうひとつの町のことと、蝶のことだね。これは何もアテがないな」
菊とマナの皿にはまだ三分の一程度残っている。
「地理的に、向こうへ繋がっているのは立ち入り禁止だったトンネルだろうね」
「あー、最初に見たあのトンネルか!」
「では、行ってみるほかないんでしょうか……?隣町、すごく気になります」
「そうだな、行ってみなきゃわかんねえし」
二番目に食べ終わったのはマナだった。
「あとは蝶のことですね」
「この町の歴史に詳しい人とか、居ないのかな。出来ればなるべく情報収集をした方がいい気がして」
「商店街の人達になにか聞けねえかな?」
「うん、それもいいかもしれないね」
「商店街に行くなら、ライトを調達したいなぁ」
「スマホだけじゃ限界があるしな!」
「それならロープも買いたいね」
「あの縄だけじゃ、心もとないですもんね……」
「じゃあ、決まりだね」
菊も箸を置き、机上の皿は全て空いた。三人は手を合わせ、勘定をする菊は後から、外に出た。

商店街は変わらず賑わっていた。三人は迷わず、雑貨店へと向かった。年代を感じさせるガラス戸を引き、中に入る。陳列棚を見ながら使えそう懐中電灯やロープを探していると、店の奥から老女が出てきた。なにか読んでいたのだろうか、老眼鏡と思わしきものを掛けている。眼鏡を指で持ち上げ、ぐっと目を凝らし、ようやく誰か分かったようで、驚いたように目を見開いた。
「なんだい、また来たのかい?」
「よっ、ばっちゃん!相変わらず元気そうだな!」
「はは、一日や二日で変わりゃしないよ。あんたらは少し、思い詰めた顔してるけどね」
見透かしたように老女はにやりと笑う。そんなに分かりやすい顔をしていたのだろうか、菊は苦笑した。
「なんだい、あんたら。変なもんばかり買いおって、山下りでもするんかい?」
「へへ、ちょっと……」
マナは目を逸らし言葉を濁した。
「死に急ぐのはよしときな、まだ若いんだ」
曖昧に微笑みつつ、菊はロープとライトをカウンターに置き、思い出したように言った。
「そういえば、あなたはずっとここに住んでいらっしゃるのですか?」
「おぉ?まぁな。なんだい、年寄り捕まえて」
「この町の隣に、もうひとつ町があったとか。……そんな話を、耳に挟んだんですがね」
空気が冷える。三人の頬に緊張が走る。第二の町があったことは確かだ。もし老女が知っていると答えたのなら、起きている不可解な出来事、そして二人の人間が殺された残忍なあの事件の影で、町ぐるみで何かが動いているかもしれないという可能性の裏付けとなる。
ほんの少しの猜疑心の混ざった双眸で、三人は老女を見つめる。
「あぁん?なんじゃそりゃ。きィたことありゃせんわ」
くるりと目が丸くなる。
「ええっ、おばあちゃん、知らないんですか」
「知らないねぇ、そんな話は」
菊は尚も表情を崩さずに、懐疑を湛え真っ直ぐに見ている。
「そうなんですね……てっきり、立ち入り禁止のトンネルが、隣の町へ繋がってるのかと思っていましたが」
老女はその視線を真っ向から受け止め、落ちくぼんだ黒い瞳で見つめ返した。
しばらくそうしていたが、突然老女は目を三日月のように歪ませ、大声で笑い出した。
「けけけ、消えた町なんざァ怪奇みてぇなもんだな。子どもの噂かい?あのトンネルは昔っからあのままさ」
そんな真面目に言うんじゃあ、まだまだ子どもだねぇ、と老女はまた笑う。
老女の笑いが治まるのを待ってから、菊は再度切り出した。
「つかぬ事をお聞きしました。誰か、歴史に詳しい方などをご存知ですか?どうも、気になってしまって……」
「歴史も何も、こォんな田舎に深い話などありゃせんがな」
しわと染みだらけの細い手をひらひらと振って、老女は一蹴する。諦めたように菊も破顔する。
「はは、そうでしたか。やはり噂は噂ですね。あぁ、そういえば、昨日話してくださった怖い話ですが、犯人は逃走中らしいですね」
「そうなのかい?怖いねぇ。まぁ、また人が死んじまってんだから、そうなんだろうね」
後ろから真代とマナも口を挟む。
「ばっちゃんも気をつけろよ」
「戸締まりはしっかりね!」
「こんな老い先短いばばあよりも、あんたらが気をつけな、若人」
老女はカウンターに置かれたまま放置されていたロープと懐中電灯をビニール袋に詰め、手渡した。菊が代金を渡すと、ガチャガチャと音を立てる古ぼけたレジスターを動かし、紙切れのようなレシートを差し出した。
「ありがとうございます、お気をつけて」
受け取った菊に、老女はまた笑いかけた。
「あんたらも、お気をつけなさんな」

「次は、例の井戸ですね!」
商店街を出た先で、マナは気合を入れるように言った。
「あの井戸、未だになんなのか分からねえなぁ」
菊は深く首肯した。
「今回は、私が降りようか?」
「菊さん、さっきあんなんだったのに大丈夫か……?」
「た、確かに!しかも、中に誰かいるんだよね……?」
「というより、見られている、感じがしたぞ」
「それって実は、犯人なんじゃないかって思うんだよね……そう考えたら、すごく危険なのかも」
「無理はすんなよ、菊さん。やべえと思ったらすぐ戻ってきてくれ」
「ほ、ほんとに……生きて帰ってきてくださいね!」
大袈裟なマナの言い方に、菊は頬を緩める。
「ふふ、もちろん生きて帰ってくるよ」
「笑ってる場合じゃなーい!……絶対ですよ」
「約束、ね」
菊は、眉を下げて心配そうに見つめる二人の頭をぽんぽんと軽く叩き、古く頼りない縄を握る。内壁伝いにゆっくり降りる。苔と蔦の生えた壁は湿り、気を抜くと滑り落ちそうになる。一歩、一歩と踏みしめる。注意は十分だった。しかし、あろうことか、いや有り得ることではあった、縄は中腹、菊の少し上あたりでぶつりと千切れたのだ。
高さがないのは幸いだった。けれど突然のことで受け身が取れず、菊は強かに腰を打ち付けた。
「うわぁ!」
「菊さん!?」
「言わんこっちゃないじゃないですか!大丈夫ですか〜!?」
「だ、大丈夫!やっぱりロープ、切れちゃったね……」
──真代くん、よくすぐに動けたなぁ。
ズキズキと痛む腰を撫でながら菊は立ち上がった。ライトを付けて辺りを照らすと、言っていた通り、押し込まれたように鳥居が立っていた。
先程神社で感じた言葉に出来ない感覚は、今はない。
──けれど、油断が出来ないのが、ここなんだよなぁ。
あの気味の悪さが思い出されて、菊は身震いした。
深呼吸をひとつ、ライトを握り直し、鳥居に向ける。この位置からは、ただの紅い鳥居にしか見えない。
──反対側からも見てみるか。
足を踏み出し、鳥居の下をくぐろうとしたその時。
バキン、という音と共に、手に持っていた懐中電灯が割れた。柄とその先が綺麗に別れ、地に落ちた衝撃で更に砕けた。
一瞬で辺りは暗闇に染まる。
先程神社で感じた言葉に出来ない感覚は、今はない。
そう、早鐘を打つこの心臓は、ただの思い込みで作用している。気の所為、気の所為だ──。
「……ごめん、二人とも。少し、上に行きたい!」
見上げて菊は言う。灰色の空をバックにマナと真代が顔を覗かせた。
「はいっ!今ロープを下ろしますね!」
「俺らが反対側持ってるから、上がってきてくれ!」
分かった、という菊の返答を聞き、地上の二人はロープの片側を手に巻き固定し、もう一端を井戸に投げ入れた。せーのと声をかけ、菊を引き上げる。
縁に肘をかけ、青い顔をした菊が息も絶え絶えに這い出てきた。
「菊さん、大丈夫か?」
「うん、まぁ……ね」
立ち上がり、背を反らせて菊は言う。ズキリと痛む腰に手を当てて、ふと、ライトを置いてきてしまったことに気がついた。
「あれ、千歳さん、ライトはどうしましたか?」
「それが……壊れちゃって。上がるのに夢中で、そのまま置いてきたみたいだ」
「壊れたって、何かに当たりでもしたのか?」
脳裏に、割れた懐中電灯が蘇る。触れている者は自分ひとりのはずなのに、何の衝撃もなく壊れたライト。その事実を考えただけでもぞっとする。
「うん、ちょっと、落としちゃってね……」
「ドジだなぁ、菊さん!」
はは、と菊は曖昧な笑みを返す。
「ライト、取ってきた方がいいのかな……」
「確かに、これじゃあ不法投棄だよな」
「だよね。よし、行ってきます!」
「ちょっと待った、マナさん。俺が行くよ。中、危ねぇし」
「大丈夫っ!私、腕っぷしなら自信あるから!」
「いや、そうじゃなくてよ……暗いし、何がいるか分からねぇだろ。犯人だってんなら、やっぱり俺が行った方がいいし、それに……よく分かんねぇのもいんだろ、ここ」
真代の口から発せられた言葉に、マナは思わず両腕で身体を抱いた。
「んじゃ、俺、ライト拾ってくるぜ」
「ごめんね、真代くん…… 」
「いいってことよ!」
古いロープの一端が結ばれていた木に、新しく買ったものを括る。解けぬように念入りに縛り付け、もう片方の端を持ち、真代は井戸へ降りていった。
底に足を着き、携帯のライトで照らすと、すぐ傍に壊れた懐中電灯の先が落ちていた。拾い上げ、手元を明るくして詳しく見ると、落としたにしては綺麗すぎる割れ口があった。
ぞんざいにポケットに入れ、改めて周りを見回した。
「やっぱここ、気持ち悪いな」
目を凝らしても、ライトを当てても薄ぼんやりとしか見えぬ闇。とうに視覚での把握は諦め、真代は尊大な威圧感を放つ鳥居に近づいた。
そっと触れると、木特有の乾いた固い感覚が伝わった。所々ささくれていて年季は入っている。しかしほこりなどを被った様子はなく、綺麗だ。
「真代くーん、どうかなー!」
「ま、また誰かいないよね!?」
空を背にする影が二つ、上から覗いている。
「大丈夫だ、生きてる!」
「なら良かった!」
「ライト取ったし、上に戻るぜ」
真代は内壁伝いに登っていく。慣れたものでするすると進む。
新しいロープは古いもののように千切れるような心配はないが、その丈夫さは馴染みのなさに繋がっている。ガサガサとした表面を、ずるりと真代の手が滑る。井戸の出口から見ていた二人はあっ、と声を洩らした。意図しない出来事に真代が硬直する。しかしそこは若さと言うべきか、反射的にロープに掌を絡ませ、間一髪、落ちるのを防いだ。
ふぅ、と息をついて、また登り始めた。縁に両手を着き、軽々と地上に降り立った。
「焦ったぁ……」
「だ、大丈夫?」
「へへ、何とか」
「良かった、本当に良かった……」
眉を下げる菊と、胸に手を当て息を吐くマナの顔を見て、真代は申し訳なさそうに笑った。
「ライト、持ってきたぜ」
「ありがとう、真代くん。ごめんね、手間かけさせちゃって」
「全然!ついでに鳥居見てきたんだけどよ、古い割に結構綺麗だったんだ」
「へぇ、もしかしたら誰かがお掃除してるのかもね」
「そうだとしたら、その人は毎回これ降りてんのか?すげーな……」
最もだけれどどこかおかしく、菊とマナは思わず頬を緩ませた。
「もう暗いし、久内のおっちゃんとこ帰るか」
「そうだね、たくさん頑張ったし!」
「今日は本当にお疲れ様だね」
「あー、色々しすぎて腹減った!」
夕暮れ過ぎの薄闇の中、一際大きな笑い声が蝶の間をこだました。

戸を開けた久内は、三人を見て驚きを顔に浮かべた。
「どうされましたか!?皆さん汚れて」
「はは、年甲斐もなくはしゃいじゃいました」
「ならばお風呂が先ですかな。もう湯は張ってありますから、どうぞお入りください」
そっと目配せをする菊とマナに、久内は、私はもう入りましたので、と笑いかけた。
マナ、菊、真代の順で食卓につく。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。今夜のご飯は鮎の塩焼きだ。
巫女の事件について聞こうと思っていた菊は、和気あいあいと弾む会話と楽しそうな顔を前に、食事中にする話でもないか、と口を噤んだ。
食事が終わり、菊とマナは各自部屋に戻り、真代は片付けの手伝いをした。疲れが出ていたのだろうか、慎重に洗っていたものの、皿の一枚がつるりと手の内を滑り、あっと声を上げてすぐシンクに落ち、パリンと音を立てて割れた。
音に久内が振り向き、破片を拾おうとしている真代を止めた。
「手は切ってないかな?見せてごらん」
「ごめん、おっちゃん……」
「大丈夫だよ、皿くらい。手は平気そうだね。後はやっておくから、部屋に戻っていいよ、ありがとう」
しょんぼりと申し訳なさそうに俯く真代に、久内は大丈夫というように優しく笑いかけた。つられて真代も頬を緩める。どこか見えた父の面影に少し胸が暖かくなるのを感じた。
部屋に戻る真代と入れ替わりに、菊とマナが台所に入ってきた。
「あの、久内さん。少しお時間いただけますか」
「はい、なんでしょう」
手を拭きながら久内はにこやかに応える。マナが恐る恐るというような様子で覗いている。どちらが切り出そうか、と菊とマナは目配せをした。
「例の事件の、話なんですけど……」
「あぁ、あの……綾芽ちゃんも亡くなったと、聞きました」
「ええ、巫女さんも殺されたとか。あれは、珍しくないことなんですか?」
「最近多いんだ、同じ手口の事件が。腹を引き裂き、はらわたを荒らす……という、ね」
「そんな酷いことが、人間にできるの……?」
思わず洩らされたマナの呟きに、久内は軽く目を伏せた。
「さぁ、どうなのだろう。犯人が捕まったと言っていたけど、現に綾芽ちゃんは死んでしまったから」
喉の奥に湧いた嫌悪と不快を飲み込んで、マナは姿勢を改め言った。
「綾芽ちゃんとは、どういった関係だったんですか?」
「知り合いだったんだ。私は恩田さんと顔見知りで、その繋がりでね」
そうだったんですか、とマナは菊の方をちらりと見た。あとを引き継ぐように菊は頷いた。
「今日、ここでは不審死がたびたび起こるという話を聞いたのですが、それについて教えて貰えませんか?」
「良くあるのは、眠ったまま起きないというものですな。何をしても起きない人もいれば、起きる人もいる。衰弱して、そのまま死んでしまう人もいた……」
「眠ったまま起きない……妙ですけど、確かに今回の事件と関係があるように思えないですよね」
「それが分からずじまいなのです。幸いそこまで被害者の数は多くないのでね、放置しております。気味が悪いと言ったらそうですが」
菊の脳裏に、今朝目覚めなかった真代のことが浮かんだ。まさか、あれは?
──いや、疲れていただけだろう。
同じことを考えていたのだろうか、マナも気難しい顔をしていた。
「お二人共、警官さんみたいですね」
にこにこと、人の良さそうな笑みを浮かべて久内は二人を見ていた。
「危ない橋は、どうか渡りませんようにな」
菊の口が開かれる前に、マナが言った。
「は、はい、身の安全には気をつけます!ごめんなさい、いっぱい聞いちゃって」
「構いませんよ。不安の種があると眠れないのも分かりますからな」
「あ、ありがとうございます。おやすみなさい」
「おやすみなさい。ゆっくり休んでくださいませ」
「おやすみなさい」
「千歳さんも、おやすみなさい」
マナは少し怯えを残し、菊は釈然としない顔のまま、それぞれ部屋へと戻った。
──今度こそ、明日こそ、変なことがひとつも起こりませんように。
布団に丸まりマナは思う。
──この町は怖いことがありすぎる。殺人事件もそう、井戸もそう、町の人たちは気づいてないの?
あんなにいい人たちなのに、不気味に感じてしまう自分を、マナは少し嫌に感じた。
天井を眺めながら菊は今日の会話を反芻している。気にかかるのは久内の言葉。
──どこか、何かを腹に秘めている。
確信めいたものがある。けれど、優しいあの人を疑いたくないことも事実。
──まぁ、いい。時間はここにいる限りある。ゆっくり調べればいい。
今は、分からないことをひとつずつ潰すこと。そして、これ以上人を死なせないこと。目を閉じ、心臓の音と共に身体から力が抜けた時、久内に犯人が逃げた旨を伝え忘れたことを菊は思い出した。
日記を綴る。悲しかったこと。悔しかったこと。助けられたはずなのだ。もう遅いことを知っている。
交わした会話は些細で、共にいた時間は僅か。それでも大事な友人だった。
泣き言ばかりが記された紙の前、真代は両肘を机に乗せ、手を組み、額に当て、深く息を吐いた。眠気がまるでない。喪失が深く胸に刺さっている。窓の外は暗く、その中に鮮やかな黄色の蝶が見えた。それは辺りを舞い、闇の奥へ消えていった。真代はまた、息を吐いた。
空気さえも寝静まる夜。眠らないのは、真代だけではない。
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