第4話

文字数 1,906文字

 僕は半ば放心状態で由香の後に続いた。その動きと心境はお互いの事を知っている人間が肌を重ねるというよりも、心よりも単純な部分が自分を動かしている感覚に近かった。
 階段を下りて、一階のエントランスに出る。蜂蜜色の照明に照らされた地下室の扉の前まで来ると、由香は立ち止まって何かを唱えた。
「それは?」
 何かの呪文を唱え終えた由香に僕は質問した。
「この扉の向こうに入るための言葉を言ったの。入った人間が不幸にならないための」
 由香は扉を見つめたまま答えて、ドアノブに手を伸ばした。秘密の多い地下への入り口であるはずなのに、施錠はされていない様子だった。ゆっくりとドアが開くと、その向こう側には真っ暗な空間が広がっていた。
 僕は由香にリードされるようにして、扉の向こう側に足を踏み入れた。扉の向こう側の気温は低く、空気は苦く湿った土の匂いに満ちている。トンネルは古代遺跡のようにきちんと整備されたトンネルではなく、地下壕や炭鉱に作られたトンネルのように土の地肌がむき出しで、強い衝撃が加われば簡単に崩落してしまいそうだった。どこから電源がとられているのだろうか、電線に繋がった裸電球がいくつも並び、弱いがエントランスと同じ蜂蜜色にトンネル内を染めていた。
 一〇メートルほど進むと、由香は足を止めて、側面に穿たれた穴を指さした。僕がその穿たれた側面の穴を覗き込むと、そこには来た時に入ったエントランスの扉と同じドアが設えてあった。
「この扉の向こうはね、パキスタンのカラチの裏通りに繋がっているの」
「まさか」
 由香の言葉を即座に否定すると、由香は伝統芸能に関する授業の映像で観た、人形浄瑠璃の人形と同じ表情と動きで僕を見つめた。
「本当よ、確かめてみて」
 由香はそう言って僕に扉を開けるように促した。僕は正直気分が乗らなかったが、由香に萎えた男だと思われたくなかったので、ドアを開く事にした。
 ひんやりとした感触のノブに手をかけ、力を入れて開くと、自分が体験した事のない雑踏と空気の匂い、温度がなだれ込んできた。なだれ込んできた空気の匂いは日本よりも香辛料系と下水、そしてコンクリートの粉塵や排気ガスの匂いがブレンドされたものだった。一人通れるだけのスペースを開けて外に少し出ると、日の当たる場所がほとんどない、汚れて薄暗い路地の光景が広がっていた。ここは本当にパキスタンなのだろうかと疑問に思っていると、僕の地元の街より気温が高い事に気づいた。そして自分のいる通りの左右にある大通りからは、明らかに日本語ではない言語で会話している、多数の人間が生活する雑踏の気配があった。
「もっと奥に行ってみれば?」
 扉の向こう側で由香が僕に促す。だが僕は踏み出す勇気が出ずに、そのままトンネルに戻ってしまった。
「少し入っただけなんて、面白くないわね」
 由香は意気地のない僕に軽く失望したのか、冷ややかな言葉を浴びせてきた。
「もうわかったから、いいだろう」
 動揺を押し殺すように僕は答えた。体中の血が逆流するような動悸に襲われて、冷静な返事を返す事が難しかったのだ。
「せっかくだから、もう一つドアを覗いていかない?」
「どんなドア?」
 冷たい言葉を浴びせる由香に僕は答えた。由香はこのトンネルに入ると、同じように冷たく、重苦しい存在変化してしまうのだろうか。
「異世界に繋がるドアよ。おじいさんがよく出入りするのに使っていた場所に繋がるの」
 その言葉を聞いて、僕は自分の頭の中にある異世界のイメージを思い返した。耳の長い人間や獣人が生活し、魔法が自動車や携帯電話よりも普及している世界だ。そんな世界に通じるドアがあるなら、覗いてみたいという気持ちと、一度ドアの向こうに行ってしまえば二度と戻れないのでないかという不安が同時に生まれた。
「こっちよ、ついて来て」
 由香は一言呟いて、何の躊躇いもなく歩き出した。由香にとってはこのトンネルを通って外国や異世界に行くのは特別な事ではないらしい。
僕はトンネルの奥へと進む由香の後を追った。知らない世界を見たいからではなく、一人でいるのが不安だったからだ。
トンネルは奥に進むにつれ、空気が薄く息苦しくなってゆくのが分かった。何か無味無臭の有毒ガスが発生しているのか、それとも単純に空気が薄いのか。理由は分からなかったが心臓の動悸が高くなっていた。由香は何ともないのだろうか、いつもと同じ様子で狭く息苦しいトンネルを歩いていた。
「あとどれくらいかかるの?」
 苦しくなってしまった僕は由香に訊いた。
「怖いの?」
「そうじゃない、息苦しいんだ」
 僕が素直に事情を話すと、由香は落ち着いて「もうすぐよ」とだけ答えた。
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