第5話

文字数 3,155文字

 退院後、一週間ほどは実家にいたが、どうしても、家に戻りたくなった。実家には一か月いる予定だったけれど、早々に切り上げて家に帰ることにした。
 もともと、夫と二人で暮らしていた家は、もう五年になる。お互いに、それぞれの仕事や、二人の趣味である旅行で忙しく、実家には盆暮れしか戻っていなかった。実家で母親にあれやこれやとしてもらうよりも、夫二人で暮らして勝手がわかった家で生活するほうが、ずいぶんと楽だと思うようになっていた。
 予定より早いけれど、帰りたい。
 夫に相談すると、できる限りはサポートするから、それでいいなら、と言ってくれた。そうして、藍奈と夫と、三人での暮らしが始まった。
 だいたいが、今日のように、夜眠れないまま朝を迎えた。
 藍奈は夜明けとともに少しずつ眠りに落ちていく。油断して、眠る気配を見せてすぐにベビーベッドに置くと、一からやり直しだ。ベビーベッドの敷布団が藍奈の背中に触れたとたん、藍奈は唐突な痛みに襲われたかのように泣き出すのだ。
 辛抱強く、寝息が深くなったことを確認して、そうっとベビーベッドに戻す。さっと掛布団をかけて、藍奈を温める。まだ背中に回してある腕は抜かない。藍奈の体温が布団にいきわたり始めたのを確認してから、これまたそうっと腕を引き抜く。
 成功。
 ふう、と息を吐いた。そして、またいつ藍奈が泣き出しても気が付くように、ドアを開けっぱなしにして、そっと台所へ向かう。夫とわたしの朝ごはんを作らないとならない。平日の料理はわたしの担当だった。今までは、朝の洗濯もわたしの担当だったのだが、藍奈が生まれてからは、洗濯物を干してくれるのは夫になった。わたしは洗濯機のスイッチをピッと押すだけで良い。
 出産前は、平日の朝ごはんは必ず一緒に食べ、夜ごはんも可能な限り、一緒に食べることにしていた。今はというと、夜ごはんは別々だ。夫は夜はどうしても仕事の終わる時間がまちまちで、そして、全体として遅くまで仕事が終わらないことが多かった。帰ってくる時刻が毎日違う夫の帰りに合わせて、二人分、作り置きしていたおかずを温めなおしたりして、食事の支度をするのは、藍奈がいる状況ではわたしにはかなりの負担だった。だから、家に戻ってきて夫と生活するようになってからすぐに、夜ごはんは先に食べてしまうことを打診した。
 夫の帰り時刻もあるが、そもそも藍奈がいるから、いつご飯をまともに食べられるのかわからないのだ。夜、わたし一人で食べられるときに早々に食べてしまって、あとは藍奈の泣きに付き合いながら、眠れるときに眠っている生活だった。
 カーテンを開け、部屋の中に日の光が集まるようにしてから、台所に立つ。
 朝ごはんといっても、毎日それほど手の込んだものを作っているわけではない。出産してからはさらに料理には手を抜いた。だいたいが、焼くだけ、切るだけ、盛り付けるだけの料理とも呼べないようなものだ。
 台所に片して置いたトースターをテーブルの上に出し、中にパンを入れる。大き目のお皿には卵料理……今日はオムレツだ……と、サラダ、それに季節の果物を盛りつける。ヨーグルトもガラスのお皿によそう。あとは、ジャムとバターを出して、コーヒーをいれれば、それでおしまい。
 夫を起こしに行く。
「朝だよ……あれ、起きてる」
 寝起きが悪いほうではないけれど、起こさないと目を覚まさない夫が、めずらしく目を覚ましていた。そして、藍奈のことを抱っこしていた。
「ごめんね、泣いてた? 気が付かなった」
「ううん、泣いてはいないよ。僕がなんとなく起きただけ……で、起き上がったら、藍奈と目があって。泣きそうになったから、抱っこした」
 にこにこと夫に報告される。
 わたしはほんの少しうんざりする。そのまま布団の上で手をぽんぽんすれば、もしかしたら泣かずに再び眠ったかもしれない。そうすれば、わたしは平穏に座って朝ごはんを食べることができたかもしれない。
 しかし今、藍奈は無表情で夫の腕の中で目を大きく開いている。
 夫にそっくりな二重の目だ。
 ため息を胸の奥底に押し込んで、藍奈を受け取る。
「ありがとう。じゃあ、着替えて朝ごはんにしよ」
「うん」
 夫が支度をしている間、藍奈を抱きながら食卓の椅子に座る。おっぱいを差し出してみると、大人しくくわえこんだ。
 しかし、またすぐに泣き出す。むせて咳き込みながら、涙している。
「泣かれたって……。おっぱいの出る量まで調節なんてできないよ。頑張って飲んでよー……」
 つぶやき、タオルでぐっと乳首を抑え込んで水鉄砲のような勢いを抑える。腕の中で藍奈はまた火がついたように泣いている。
「あれ? ハツ、藍奈また泣いちゃったの?」
「うん……むせちゃって」
「そっか~。あ、昨日ちょっと調べたらしぼってからあげるといいって書いてあったよ?」
「……うん、そうだね」
 寝不足でぼんやりする頭でうなずく。一日何度も数えきれないほど母乳をあげる。そのつど毎回しぼるのか。そんな面倒なことをしないとならないのか……。
 さらに気が重たくなったところで、コーヒーメーカーのピッという鋭い音が藍奈の泣き声の合間をぬって聞こえた。
 立ち上がりかけたところで、夫が手で制してコーヒーをいれてきてくれる。
 わたしも夫もコーヒーがかなり好きなほうだ。朝の一杯だけは、コーヒーを飲んでも良いことにしていた。あとはすべて麦茶やルイボスティーなどカフェインレスのものにしている。
 苦味のある熱いコーヒーをすする。ちょっとだけ、頭のかすみが取れる。
 藍奈はわたしのすぐ横に置かれたハイローチェアの中で静かに天井を見上げている。私の右手はマグカップを握っていて、左手はひたすら休むことなくハイローチェアを押している。
「あ、ハツ、実は、来週月曜、急に北海道のお客さんのところに行かないといけなくなって……一晩家を空ける、と思う。月曜の夜は北海道で泊まって、そのまま仕事に行って、火曜の夜は早めに家に帰るから」
「あ、そうなんだ。じゃあ、土日は簡単に出張の荷造りしないとね」
 わたしの言葉に夫は申し訳なさそうにうなずいた。
「本当に、ごめん。ハツが大変なときなのに」
「別に、平気だよ。大丈夫。最近はお風呂もわたし一人で入れられるようになってきたし。でも……じゃあ、土日のお風呂は、二日間ともお願いしようかな。いつもは土日どっちかだけだけど」
「おーけー。あ、あと、じゃあハツは北海道のお土産、何がいいか考えておいて」
 わたしは笑顔でうなずく。
 夫はわたしの好物をわかっているから、言わなくても好みのものを買ってきてくれるだろうけれど。お土産を何にするか、選ぶ楽しみができたことに少しだけホクホクする。
 わたしにとって、この朝の時間が本当に自分を取り戻せる時間だった。
 わたしと会話をしてくれる人、言葉を使って意思疎通をすること、当たり前のこの行為が、これほど自分を保つうえで大切なことだったのだと、藍奈と二人きりの時間を過ごすようになってから、わかるようになった。
 言葉を発して、わたしの思いを伝える。わたしの思いの中にいるわたし自身が、わたしの言葉で外へ出ていく。
 言葉となったわたしの存在は、目の前の他者へ存在を知らせに行く。他者とは基本的には夫で。
 当たり前だけれど夫はしっかりと、わたしの存在を認め、わたしの言葉を受け入れて、そしてわたしに、言葉を返してくれる。
 わたしは一人ではないと教えてくれる。
 腕の中に藍奈を抱いて、藍奈と一緒に夫を送り出す。玄関の扉が閉まっていく。完全に閉まると、オートロックの鍵がかかる。
 カチャリという小さな音が、こぎれいにしてある玄関に響いた。
 藍奈とわたし、二人きりの世界が、再び一寸の隙もなく、構築される。
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