第3話

文字数 1,880文字

 藍奈が生まれたのは、とても寒い日だった。
 翌日は雪が降るんじゃないかと言われていて、こんな寒い日に生まれてきたらどちらの両親も、病院まで駆け付けるのが大変だから、せめて天気の良い日に生まれてきてほしいね、と夫と話をしていたところだった。
 正産期に入った直後の検診の帰り道だった。わたしはやっと仕事の休みが始まっていた。育休だ。夫は、わたしの運動に付き合ってくれて、徒歩で三十分くらいかかる病院までゆっくりと、妊婦のわたしのペースで一緒に歩いてくれていた。とても寒い日だったけれど、空はすごく澄んでいて、一面透明な水色の空は割れ物ように薄く感じた。
 検診の結果から、お腹の子が女の子だということはわかっていた。夫はもうずいぶん前から恥ずかしがることもなく、藍奈、とわたしのお腹に語りかけていた。
 そしてその夜、じわっとピンク色の血がでた。まさか、もうおしるし? 少し緊張が走るのを感じながら、おしるしについてスマートフォンで調べてみる。おしるしが出ても、まだ一週間くらいは生まれない場合もある、とあった。おしるしがすぐに出産に繋がるわけではないと知り、ほっと胸をなでおろす。
 このとき、わたしはどうしてあれほど緊張したのか。
 あのときは深く考えなかったけれど、今なら、わかる。おそらく、わたし自身が一番、何の覚悟もできていなかったのだ。
 検索結果を見て、焦らずにのんびり、でも入院準備だけ最終チェックをしておこう……そんなつもりで、その夜は荷物チェックだけして、お風呂に入って眠りについた。
 翌朝……まだ暗いうちに、わたしは腹痛で目が覚めた。今までに経験したことがない、痛み。
 横で寝ている夫を揺り起こす。
 陣痛が来たかもしれないと伝える。夫は明らかに驚いていて、飛び上がって身支度をはじめた。わたしはその様子を片目で見つつ、ゆっくり起き上がって、ベッドから足を降ろして、数歩、歩いた。ひとまずトイレに行って、それからしっかりと陣痛タイマーで何分刻みの痛みなのか、間隔を測ろうと思っていた。
しかし、足を踏み出したそのとたん、足の間から大量の生ぬるい水がばしゃんっと流れ落ちた。破水をしたのだ。
 着替えて戻ってきて、わたしの状況を見てさらに慌てふためく夫に、病院への電話をお願いした。わたしは予約してあった陣痛タクシーに連絡を入れる。
 ドキドキで心臓が喉元まで飛び上がっているのを感じながら、夫とともにタクシーで病院へ向かった。破水だと正式に先生から言われ、そのまま入院手続きが済まされる。
 その日は土曜日で、翌日は日曜日だったこともあり、夫はずっと陣痛に付き合ってくれた。丸一日痛みに苦しんで、翌日の日曜日……いや、日付としては、もう月曜日だ。月曜日の深夜一時頃、わたしは無事、初めての出産を終えたのだった。
 あんなに寒い日だったのに、わたしは陣痛に苦しんでいる間中、夫に窓を開けてと頼んでいた。寒さは全く感じなかった。ただ、痛くて、ひたすらに痛くて、痛すぎて何度も嘔吐していた。覚えているのは、猛烈な痛みと、それから体が燃えるような暑さだった。
 風を感じたかった。部屋の中が無風だと、痛みの熱さでドロドロに溶けてしまいそうだった。寒くない? と心配する夫に何度もキレながら、窓を閉めないで、開けていて、と痛みの間隔の合間に、歯と歯を縫うように言葉を絞り出していた。
 赤ちゃんを産み終えて、分娩台で少し休んで、それからさっきまで陣痛と戦っていた病室に戻ったとき、部屋の寒さに愕然とした。
 ベッドは綺麗に整えられていたが、空気の入れ替えのつもりだったのだろうか、窓はわたしが出て行った時と同じ幅で開いていた。そのせいで、部屋が冷凍庫のように寒くなっていた。さっきまであれほど暑いと感じていた、空間なのに。寒すぎてピリピリと頬が痛かった。
 藍奈がお腹の中にいたからだ、と疲れ切った体で窓を閉め、ぴんと張って清潔な匂いがするシーツが張ってあるベッドにもぐりこみながら、考えた。
 藍奈を初めて分娩台の上で抱いたとき、すべてがとても小さくて、とても軽かったのに、本当に暖かかった。汗だくのわたしよりも、はるかに高い体温だった。
 藍奈が一生懸命頑張って、お腹の外に出ようとしていたからだ。あんなに体温の高い子が、必死で頑張っていたから、きっともっとお腹の中で熱くなっていたんだ。
 命のかたまりの藍奈が、わたしのお腹の中で全力でもがいていたたから、あんなに暑かったんだ。
 この結論がわたしにはすごく腑に落ちて、満足しながら、眠りへと意識をすぐに手放していったのを覚えている。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み