第6話

文字数 2,569文字

 藍奈は泣き虫だ。
 赤ちゃんは泣くもの、そうとわかっていても、こんなに泣くものだとは思わなかった。藍奈の機嫌が悪い日……それはだいたい、天気が悪い日……は、本当に、わたしは一日中胸をさらけ出している気がする。
 常にすすり泣きながら吸い付いていて、少しでも口から乳首を離すと再び声をからして泣き叫ぶ日もあれば、吸うことも拒否、眠るのも嫌、オムツも問題ない、縦抱っこのときだけ泣くのをやめて、目に涙をためて、口をへの字にして、一点を見つめているときもある。
 毎日、藍奈は違うことを要求していた。
 縦抱っこの日、オムツがちょっとでも濡れていたら許せない日、ゆらゆら歩き回って揺られていたい日、ひたすらおっぱいをしゃぶっていたい日。
 ただ、藍奈の表現方法は泣く手段しかないから、毎日結局のところ、彼女はずっと、その小さな体であらんかぎりに泣いているのだった。
 どうしてこんなに泣くんだろう、と、何度座りながら片手で藍奈を抱っこして、片手でスマートフォンをいじって検索したか、わからない。
 赤ちゃん、一か月、泣き止まない、という検索履歴のおびただしい数。
 とりあえず、調べてわかったのは、赤ちゃんは泣く生き物だということ。あまり泣かない赤ちゃんもいるけれど、よく泣く赤ちゃんも当然いて、いろいろな赤ちゃんがいる、ということだった。
どの文章にも末尾に、赤ちゃんにはいろいろな赤ちゃんがいて、個人差がある、と何かの言い訳のように書かれている。
 要はそれは、やるだけやったら、あとは、自分でその時その時の泣き止ませ方を探してなんとかしましょう、ということだった。
 夫を送り出した後、わたしはたいてい、大慌てで、毎日しなければならない家事を済ませた。台所へ行き、お昼ご飯に食べるおにぎりを握り、それから作り置きしておける夕飯を作ってしまう。買い物は週末に夫に行ってもらっているから、材料はすべて冷蔵庫にそろってある。
 夕飯の支度を終わらせたあとは、簡単に掃除をする。わたしは、床に髪の毛が落ちているのが許せないタイプで、夫には掃除は毎日しなくてもいいと言われていたが、どうにも我慢できなかった。
 もちろん、その間に藍奈は泣くこともある。運よくハイローチェアで揺られて騙されてくれているときもあるが。
 泣き続けてしまうときは、そのつど、藍奈をあやしに行った。
ど こかに、泣き続けてもお母さんが来てくれなかった子は、やがて泣かなくなる、と書いてあった。サイレントベイビーという。そういう子はとても楽に思えるが、実際は、いくら泣いてもお母さんは来てくれないという経験が刷り込まれてしまい、大きくなったとき、とても自己肯定感の低い子どもになってしまうらしい。
 ぞくっとした。
 藍奈をそんなふうにしてはならない、そうなってしまったらわたしの責任だ。母親はわたしなのだから。
 わたし自身、自分には自己肯定感がしっかりとあるとは、口が裂けても言えなかった。藍奈にはもっとおおらかに、自分を好きになってもらいたい、自信をもってもらいたい。
 だから、藍奈がちょっとでも泣けば、なるべく早く、藍奈の元へ行くようにした。
 当然、すべての作業が細切れになる。集中して始めから終わりまで、通しで何かをできるほうが少なかった。いつもは十分もかからずできるはずの、お味噌汁をつくるという行為に、一時間かかってしまうこともあった。
 全部において、藍奈を優先しなければならなかった。
 だって、藍奈は赤ちゃんなのだ。まだ首さえ座ってない、自分一人でできることと言えば、呼吸と、排せつと、泣くことだけなのだ。
 わたしが藍奈を生かさなければならない。
 責任感というほど立派なものではない、ただの重圧感から、わたしは藍奈の世話をしていた。
 だからやることをすべてし終わったあとは、疲れ切った体をできるだけ回復させたくて、睡眠不足を少しでも解消したくて、基本的にはずっとベッドに横になっていた。
 藍奈も一緒にベッドに入っていた。ダブルベッドの上にバスタオルを折りたたんでおいて、そこに藍奈を寝かせる。ベビーベッドにおいても泣くのが目に見えていたし、ベッドからベビーベッドまで、疲れ切った体でたった数歩でも歩いていくということが面倒くさかった。
 マンションは共働きだったこともあって、少し家賃の高いところに住んでいた。高層マンションの十五階。寝室にはベッドだけが置いてあった。今は藍奈のベビーベッドと、オムツやおしりふきなどのストック、タオルやガーゼが小さなカラーボックスにちょうどよく収まっている。
 大人のベッドのすぐ横の壁は一面の大きな窓。ベッドに横たわり、カーテンを開けて横を見ると、手を伸ばせば届きそうな場所に空と雲があった。はるか下には、ミニチュアの世界に住むおもちゃのような大きさの人が歩いている。
 産後一か月経っていないから、まだわたしは外を出歩くことができない。当然、藍奈も一か月検診がまだなので、外へ連れていくことができない。
 ひやりと冷たい一面の窓の向こうで、わたしが藍奈を産む前と同じように、世界が何一つ変わらずに歯車を立てて動いていることが、不思議だった。
 わたしはここで、藍奈と何をしているんだろう。
 唐突に、そんな疑問が浮かぶこともあった。
 何って、育児をしているのだ。藍奈のことをお世話している。
 だって、藍奈はまだ一人じゃ何もできないから。
 窓の向こうの世界が、まるで別世界のように見える。ほんの一か月ちょっと前まで、わたしもあのビルの中で動く小さなの人形のような人の中の一員だったのだ。
 仕事を任され、仕事をこなし、仕事が評価され、業務が動き、お金をもらっていた。
 ずっとそうして働いてきたはずなのに、その頃の記憶が夢のようにあやふやで、跡形もなくその事実は消えてしまったかのように感じる。
 ちょうど、夢から目が覚めたあと、その夢の世界が、どこにも存在していないかのように。
 横になりながら、空に手を伸ばした。冷たいガラスにぴたりと指先が吸い付く。
 藍奈と、この二人きりのお城でずっと過ごしていく。
 それは指先に触れた窓ガラスの冷たさと同じくらいさみしいことで、一面の晴れ渡った水色の空と同じくらい、幸せなことかもしれなかった。
 横で眠っている藍奈をみて、そう思った。
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