第2話

文字数 1,296文字

藍奈を産んでから、自分が眠っているのか、起きているのかわからない状態に、意識を持っていくことができるようになった。一瞬で眠ることも起きることもできる状態だ。闇の中にぼんやりと、わたしの体、指、足があるのを確認する。
 もちろん、自分の体の存在を認識するために、こんなことができるようになったのではない。
 泣き声を聞くためだ。
藍奈の、あの泣き声を。
耳をすます。冷蔵庫が低くうなる音、隣で夫が立てている寝息。それらにまじって、かぼそい泣き声は聞こえていないか。音がするか。音がしたら、それは泣き声なのか、それとも言葉と判断はできないけれど、藍奈なりの寝言なのか、大きすぎてため息のように聞こえる、彼女の寝息なのか。
ベッドにもぐりながら、じっと息をひそめて、安らかな寝息を確認できたら、わたしはふっと体から緊張を解く。ゆっくりと息を吐きだす。
はじめは、隣で寝ている夫を起こさないようにと今以上に藍奈の声に敏感になっていたし、私自身も物音を立てないように、極力注意をして動いていた。聞こえてきた藍奈の泣き声がほんのかすかな音量だったとしても、誰かに見咎められるように感じた。
でも、そんなことは必要なかった。夫は、藍奈の泣き声で起きることは決してなかった。
羽根布団の柔らかい暖かさと、ぬくもりの中で、心地よい麗らかな春の泥沼の中に埋もれていくような感覚に陥りながら、意識から手を離そうとした、その時。
「あ……ああーん……ふああー……ああー……!」
 とたんに意識が覚醒する。
 泣き止みそうもない声に、諦めてするりとベッドから抜け出した。同じ部屋にあるベビーベッドのほうへ一歩一歩足を進める。素足だ。冷たい床に足を付けるたびに眠気が小さな泡となって爆ぜていくのを感じる。
 明るさは、豆電球のオレンジ色の明かりだけだ。薄暗い中、体を真っ赤にして火を吐くように泣いている赤ん坊をそっと抱き上げる。熱いくらいの熱をもって、全力で泣いている。
 ああ、ごめんね、と思う。
わたし、あなたが何を言っているのか、わからないのよ。
 あなたを産んだのは確かにわたしで、わたしはあなたのたった一人の母親のはずなのだけれど、でも、あなたの伝えたいことがわからないの。
 藍奈はわたしの腕の中で、顔を真っ赤にして、しわくちゃになって永遠と泣き続ける。
 オムツを確認したあと、おっぱいを差し出してみても、違ったようで、当然のように嫌がられる。口元に乳首をもっていって、泣いて丸く開いている小さな口の中に入れてみるものの、顔を左右にふられ、拒絶されてしまった。
余計に泣き声はひどくなる。
乳首を刺激したせいで、小さな痛みと共に母乳がほとばしり始める。慌てて、授乳ブラを戻す。じんじんと痛みが続く。飲まれることのない母乳が痛みと共にパッドを湿らせていくのがわかる。
胸の痛みを紛らわすように、立ち上がって、藍奈を揺らす。揺らしてみても、歩き回ってみてもなかなか泣き止む気配は見せない。
 時計を確認するのも嫌で(今が深夜だと否応なくわかってしまうから)わたしはただ、ひたすらひどく熱を持ち、そして叫び続ける命を抱いて、氷のような床の上を歩き続ける。
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