5:『先輩』への煽り と 最低限の仕事

文字数 3,671文字

 2-2の同点で迎えた3回表。能信の打順はトップバッターの富山君から。富山君は初回のけん制死の汚名を返上すべく、バットを握る手にも力が入っていた。それを迎え撃つ日我好ナインのほうも、同点に追いついて意気が揚がっている。


 中本君はサインを注意深く確認し、第1球を投げた。
「ットライー」
いい球が外角に決まる。

 続く2球目。
「ストライッ」
富山君、2球で簡単に追い込まれてしまう。

 続く3球目。
「ボゴッ」
臭い球をカットしようとした富山君のバットの先端にボールが当たった。奇妙な音を立ててバットに弾き返されたボールはふらりと宙に舞う。その行方はファーストの後方、ライン上のフェアかファウルか微妙な地点だった。

「ポトン」
ボールは1塁線の内側に落ち、転々とする。

「フェア!」
カットしようとした球が意外な場所に飛んだため、すっかり困惑していた富山君だったが、審判の声を聞いてあわてて走り出した。


 さて、この試合のライトを守っているのは日我好ブラッドサックスのスタメンで唯一の5年生、神楽坂君だった。彼は5年生ながら、その卓越した身体能力と負けん気で、今日のスタメンの座を射止めた男だ。すなわち、ベンチを温める同学年のライバルや補欠の6年生たちを必死に押しのけて、今、このライトの守備についているのである。しかし、彼がここに上り詰めるまでの道のりには壮絶な物語が存在していた。

 実は神楽坂君は、スタメンを獲得できなかった6年生の補欠選手たちから、嫉妬ともいえるようなひどいいじめを受けていたのである。神楽坂君は『先輩』から無理やり言いつけられて、チームの練習が終わった後、グラウンドの隅に転がっている球拾いを『先輩』の代わりにさせられた。グラウンドにトンボをかけるという役目も、本来ならば補欠の選手がやる規則のはずなのに、いつのまにか神楽坂君の役目になっていた。これらは氷山の一角に過ぎず、彼はもっと陰湿でえげつないことも『先輩』にされていて、それが日常となっていたのである。

 もちろん監督やコーチはそのようないじめを許しはしない。神楽坂君本人に、何かされたらすぐに報告するように話をし、チームメイトや保護者からも巧妙に情報を聞き取っていじめの根絶に手を尽くした。結果として、実行者の何人かをチームから追い出すことに成功したが、大人が目を光らせれば、子どもも次第に知恵をつけてくるものだ。悲しいことに、手口はより巧妙になっていき、なかなか尻尾がつかめなくなっていく。さらに、神楽坂君の報告も報復を恐れてか、次第に少なくなってきた。結果として、いじめは闇に潜り、チームの根底に燻っているという最悪な状況になってしまっていた。

 そんな状況でライトを守る神楽坂君だが、彼自身はどう思っているかというと、もはやいじめなどどうでもよくなっていた。『先輩』たちは大嫌いだ。だが、いちいち報告していてもきりがないし、練習に集中したい。それに、試合に出られる幸せに比べれば、いじめられることなんか取るに足らないことだ。そのような心境で、日々、彼は野球に打ち込んでいたのである。

 この時の神楽坂君も、目の前にポトリと落ちて力なく転がる球を、どうしてやろうかと全力で楽しんでいた。この転がるボールから、何とかしていい結果を出してやろう。そしてスタメンの座をさらに安泰にして、『先輩』たちのムカついてる表情をながめてやろう。そのように考えていたら、ある発想が頭に浮かんできた。

 神楽坂君は全速力で駆け出し、グラブですくうように素早く転がるボールを捕球する。そしてその余勢を駆り、ファーストへと全力で球を放った。ファーストの山田君は、まさかライトからボールが飛んでくるとは予期していなかったようで、慌てて向きを変えてミットを構える。打者の富山君もその意図に気づき、出遅れた分を取り戻そうと自慢の俊足で懸命に走る。

 ミットにボールが収まる。走者がベースを踏む。ほぼ同時だった。

「アウッ」
微妙だったが判定はアウト。プロ野球などではもちろんのこと、少年野球でもなかなかお目にかかれないライトゴロである。

 神楽坂君は、何でもないことだとばかりに青い空を見上げながら定位置へと戻る。だが、ベンチでどことなく腹立たしい表情をしている『先輩』たちを、目の端に入れておくのを忘れはしなかった。

 ワンナウトになり、次のバッターは2番の藤井君。送る相手がいないこの状況では、さすがの自己犠牲の鬼も気合が入らないようだ。セーフティバントの可能性を捨てず入念に守備を固める日我好守備陣と、丁寧にコーナーをつく中本君の投球の前に、あっけなくセカンドゴロに倒れてしまった。

 ツーアウトを取り、守備でも安定感を見せ始めた日我好ナインの前に立ちふさがったのは、3番バッターであり能信のキャプテンでもある登坂君だった。


 実はスタメンが発表されるまで、登坂君はこの試合に4番バッターとして出場するつもりでいた。自身が能信の主砲であり、4番バッターである、そういう強烈な自負が彼の中に存在していたからだ。だがスタメン発表の時、自分の名が読み上げられたのは一つ前の3番。4番目に名を呼ばれたのは、赤井君だった。

 常に落ち着き払っている登坂君は、この出来事も表向きは何でもないかように受け入れた。しかし、心の中ではどうしてもこの打順に納得できていなかった。もちろん、赤井君が自分より劣っているとは思っていない、彼もいいバッターだ。だが、4番に適任なのは誰よりもこの自分ではないだろうか。監督は、赤井君のマイペースでプレッシャーを感じない部分を評価したのだろう、それも一理はある。だが4番とは、4番に立つ者の資質というものは、そういうものではないはずだ。プレッシャーを感じない人間が立つのではない、プレッシャーの中でこそ力を発揮できる人間、それこそが4番に立つべきなんだ。

 3番に選ばれた瞬間からわだかまっていた心の中のしこりが、上記の理由であることを、試合中の今、ようやく登坂君自身も心の整理の末に理解したのである。

 それならば、今日の試合、プレッシャーの中で結果を残せばいい。そう考えた登坂君だが、その考えとは裏腹にチャンスで打順は回ってこない。1回表はチャンスだったが、けん制で刺されてランナーがいなくなってしまった。この回も前のバッターは二人とも倒れ、ツーアウトでランナーがいない。ここぞというプレッシャーの中で結果を出す機会は、なかなか思うようには巡ってこない。

「それでも……できることはある」
登坂君はバッターボックス内で小さくつぶやき、バットを力を込めて握った。

 中本君も、登坂君の並々ならぬ闘志には気付いていた。だが、マウンドに立つ自分も、青海さんが去った後の日我好のエースだという自覚がある。追いついたばかりでまた点をやるわけにはいかない。中本君は自分が背負っているものの重みを感じながら、振りかぶって投球する。

「……!」
ボールが手を離れる寸前、中本君は失投を自覚した。ボールはほぼど真ん中、この強打者に一番投げてはいけない場所へと吸い込まれていく。いろいろなものを背負っている、その重圧が逆にあだとなったか。

 この絶好球を闘志がみなぎっている登坂君が見逃すはずはない。初球からちゅうちょせずにフルスイング。快音が鳴り響き、ボールは長い滞空時間を経てセンターの守備位置のはるか後方にようやくバウンドした。だがボールは地に落ちても、勢いのほうは落ちはしない。どんどん向こうへ転がっていく球を、センターの佐藤(英)君は懸命に追いかける。やっとボールを捕らえたときにはもう、登坂君は3塁を回っていた。そして返球の確認すら行わず、焦らず急がず登坂君はホームベースを踏んだ。

 圧巻のホームランだった。ベンチでハイタッチの求めに応じながら登坂君は思う。『結果』というにはソロでは物足りない。むしろこれが最低限の仕事だ。だが、まずは能信の登坂という男を、内にも外にも示せたはずだ。


 一方の中本君は、先ほどの失投を切実に悔やんでいた。投げる瞬間、おとなしく指を離してしまった。投げる直前に気づいたのだ、指を離さず投げなかったり、わざとでも暴投にしたりしておけば、ボークなどにはなっても点を献上せずには済んだかもしれないのに。

 そこへキャッチャーの寺井君が駆け寄って来る。彼は中本君の今の話を聞き、ひょっとこみたいな奇妙な顔で驚いた。

「投げる寸前に打たれるのわかったのかよぉ、やっぱおまえ、天才だよぉ」

 その変顔のような驚き顔と、どこか間の抜けた声音のおかげで、中本君は思わず笑ってしまった。そして、気がつくといつの間にか失投や失点のことなんかどうでもよくなってしまっていた。

「ま、次はやらせねえよ」

 ムードメーカーのおかげで気が楽になった中本君は、そう言ってボールをグラブに収めた。


 その宣言通り、次のバッター、4番の赤井君を見事に三振に仕留め、3回表の攻撃は終了した。だが能信は登坂君のソロホームランで、再びリードを手にした。
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