3:プレッシャーのない男 と プレッシャーをバネにした男

文字数 3,514文字

 2回の表、能信の攻撃。バッターは4番、強打者の赤井君。彼は肩の力が抜けたようなだらだらとした雰囲気でバッターボックスに入り、気のない感じで数回バットを振り回してから、気怠げに監督の出すサインを確認した。能信の4番を任されている赤井君は、ご覧の通りどこまでもマイペースが過ぎる男だ。だが、そのマイペースさが時にものすごい武器になるのを忘れてはならない。

 学校に登校した際、何か大きな忘れ物をしたとする。体育の授業があるのに体操服を家に置いてきてしまったとか、調理実習があるのに食材を忘れてしまったとか。そんなとき、気の小さい子なら世界の終わりが来てしまったかのような大騒ぎになってしまうだろう。
 ところがこの赤井君、以前、驚くことに家にランドセルそのものを忘れたことがある。もちろん中身も全て。だが、そんなときでも彼はあわてず、授業が始まるたびに「教科書とノートを忘れました」と臆面もなく先生に報告した。先生も怒りを通り越して、終いにはあきれてしまったという。

 学校生活だけではない。野球をしていても彼は、この手のエピソードに事欠かない。少し前、赤井君が守備練習で怠慢なプレーをやらかしてしまい、監督から「いいというまで校庭を走ってろ!」と怒鳴られてしまったことがあった。トラックを走らせると練習のじゃまになるので、校庭を走らせたのである。赤井君は言われたとおりに、校庭の端の目立たないところを走り始める。しかし、監督は彼があまりにも目立たなかったのと、思わず守備練習に熱中してしまったことで、それっきり赤井君の存在を忘れてしまったのだ。
 その日の夜、最後に校舎を出た教師が校門のカギを閉める際、校庭を一人ぽつんと走り続けている赤井君を目に止めた。呼び止めて話を聞いてみると、赤井君は「監督の指示があるまで走ってるんです」と肩で息をしながら言うだけだった。たまたま教師は監督と知り合いだったため、連絡をして状況を確認する。驚いた監督は。あわてて赤井君に走るのをやめるよう指示をした。それで、ようやく赤井君はその日の練習を終えることができたのだ。
 この後、監督は真っ青な顔で学校に駆けつけ、夜の校庭で赤井君に対し平身低頭して謝り、家まで送り届けて、赤井君の両親にも頭を下げたという。

 そんなエピソードを持つぐらいおよそ物事に動じない赤井君は、中本君の投げた初球、内角低めの球を相変わらずのそのマイペースさで振り抜いた。
「カキーン」
ボールは快音を上げ、左中間へと飛んでいく。センターの佐藤(英)君が落下地点に入ろうとするが間に合わず、ボールは奥へと転がっていく。カバーに入ったレフトの村山君がようやくボールを捕らえた頃、赤井君は余裕を持ってセカンドベースに到達していた。

 赤井君のマイペースさが長打を生み、能信は初回に続いてまたもノーアウトから得点圏にランナーを置く展開となった。


 続く5番は井坂君。打率はそれほどでもないが、一発がある怖いバッターだ。

 中本君はセットポジションを取り、お得意のけん制の準備をする。だが2塁塁上にいる赤井君は、ベースをベッタリと踏んでぼんやり立っていた。けん制球に対する作戦か、いや、のんきな赤井君のことだから単にリードを忘れていただけかもしれない。理由はともかく、事実として赤井君はこのときベースから離れていなかった。
 塁をしっかりと踏まれていたら、いくらけん制球を投げてもアウトにはできない。むしろ無駄に神経を使って消耗してしまうだろう。だがいい点もある。リードがなければ、タイムリーが出たとしてもホームに帰るのは難しいはず。よほどの俊足か、ランナーがサードにでもいない限り、単打での本塁生還は厳しいはずだ。いずれにしてもこの作戦(?)により、中本君は得意のけん制を封じられ、打者と向き合わざるを得なくなった。

 中本君は開き直ったのか、ランナーがいるのに振りかぶって第1球を投げる。
「ットライー」
外角低めにていねいに置いていく球で、1ストライク。

 速いテンポで第2球目。
「ットライッー」
やはり外角低めの外れ気味の球、それに井坂君が手を出して空振り。

 間髪を入れず3球目。
「ストライーッ! バッターアウッ!」
低め2球から高目のボール球。普段なら振らないところを引っかかって、これも大振りしてしまい、これで1アウト。

 中本君がけん制だけでないところを見せつける3球三振で、1アウト2塁となった。

 次のバッターは6番、本山君。彼はどこか思い詰めたような表情で中本君をにらみつけると、両手で握ったバットを正面に持ち、一声、大きなおたけびをあげる。そして、さあ来いとばかりに構えに入った。

 中本君は本山君の行動に動じず、冷静に寺井君の出すサインを確認し、第1球を投げる。

「カーン」
本山君が振り抜いたバットは美しい音を立て、ボールをレフトへと弾き飛ばす。この瞬間、誰しもが、打った本山君ですら、平凡なレフトライナーだと思った。しかし、かと思われた打球はぐんぐんと飛距離を伸ばしていく。レフトを守る村山君も完全に目測を誤り、打球を後逸してしまう。

 さっきとは逆に、今度はセンターの佐藤(英)君がカバーに入ってボールを捕らえる。だが今回も打者である本山君はすでに2塁にたどり着いていた。同じ頃、ランナーの赤井君もしっかりとホームベースを踏みしめる。

 2回の表、本山君の会心のタイムリーツーベースで、能信に待望の先制点が入った。


 本山君、実はこの試合に臨むに当たってとても焦っていた。その焦燥の理由は次のバッター、畑中さんにある。彼女は能信ウォークライズに所属する唯一の女子選手だ。その彼女が、最近メキメキと頭角を表してきている。本山君は、彼女の台頭に大きな危機感を抱いているのだ。このまま漫然と野球をしていたら、女の子に負けてしまうかもしれないという焦り。打順も、自分が6番、彼女が7番と近い位置にいる上に、彼女はセカンドで自分はライトなのだ。もちろんどちらも重要な守備位置には違いないが、やはり内野のほうが監督やコーチの覚えもめでたい。そう思うと、どうしても彼女を意識せずにはいられないのだ。

 それ故に本山君はこの打席に、それこそ不退転の覚悟で挑んでいた。得点圏にランナーがいるチャンス、これを何が何でもものにして、畑中よりも本山、と監督やコーチに積極的にアピールをするんだと。その決して小さくないプレッシャーの中で、本山君は立派に仕事をして待望の先制点を呼び込んだ。もしかしたら、本山君のこのライバル心に気が付いていた監督が、あえて畑中さんを7番に置くことで、本山君の奮起を促したのかもしれない。だとしても、その期待にしっかりと答えた本山君の快打は素晴らしい。彼は2塁ベース上で、誇らしげにガッツポーズを決めた。


 続く打順は7番。そんな本山君がライバル視をしている女子、畑中さんだ。彼女は、自身の非力さをカバーすべく、バットをコンパクトに持って構えている。


 一方で、先制点を取られた中本君は存外に落ち着いていた。少し時間を置くことで気を落ち着かせたのか、注意深く2塁ランナーの本山君を確認する。彼も赤井君を真似て、ベースをしっかりと踏みしめてけん制を警戒していた。

 それを見た中本君は、今度は一応セットポジションを取りつつも、今までと変わらない調子で第1球を投げた。

「カンッ」
またもや初球打ち。やや重たげに弾き返された球は、大地を転々としてセカンドとファーストの間を抜けライトへ。連続ヒットだ。

 本山君はサードへと向かいながら考えていた。このままホームへと突っ込むか否か。普通ならば迷わず行くところだが、けん制を警戒していたせいでスタートが遅れている。それに、自分はそれほど足に自身があるわけではない。3塁にとどまったほうがいいだろう、そう考えをまとめかけた。

(でも……)

 別の考えが本山君の脳内に浮かび上がる。今、畑中さんもヒットを打って結果を出した。より自分をアピールするなら、ここは勝負をかけなければ。
 本山君はこの考えを採用した。すなわち3塁ベースを蹴り、猛然とホームに突っ込んだのである。

「セーフ!」
間一髪だった。滑り込んだ本山君の足が、日我好の捕手、寺井君のミットより一瞬だけ早くベースに触れた。これで能信は2点目。


 その後、1塁に畑中さんを置いた状態で、8番の糸屋君はゲッツー崩れのセカンドゴロに倒れた。ツーアウトとなり1塁ランナーが糸屋君に変わったところで、9番上野君に打順が回ったが、彼は三振に倒れてスリーアウトとなった。

 だがこの回、能信は2点を挙げ、待望の先制点を手にすることができた。
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