1:自己犠牲の鬼 と 打たせて刺す

文字数 3,402文字

「プレーボーッ!」
主審の試合開始の合図が大きく響き渡る。投手の中本君が投球練習を終え、能信の1番バッター、富山君がバッターボックスに足を踏み入れた。

 日我好の先発、中本君はコントロールに定評があり、安定したピッチングが売りの左腕だ。それを迎え撃つ能信のトップバッター富山君は、小兵ながら俊足巧打で選球眼もいい上に左打ち。1番打者にうってつけの存在だ。

 中本君は落ち着いて足でプレートの感触を確かめながら踏みしめ、ゆっくりと振りかぶって第1球を投げた。
「ットライーク」
低めにズバンと決まる好球で幸先の良いスタートを切る。

 続く2球目。
「ボーッ」
やや高めに抜けた見せ球とも思われるボール球。

 3球目。
「ボッ」
際どかったが、これもやや外角低めに外れる。

 やはり試合の緊張からか、コントロールの良い中本君もボールが先行するピッチング。しかし、冷静にキャッチャー寺井君のサインを確認し、4球目を投球する。
「キンッ」
高めの球をファウルにさせ、2ストライクに追い込む。

 並行カウントからの第5球。
「ボール」
振ってくれればありがたい、という感じのこれまた外角よりの球。だが富山君は微動だにせず、これでフルカウント。中本君は歩いて一度マウンドを降り、捕手の寺井君とうなずき合いながらボールを受け取りマウンドに戻った。

 第6球。5球目と同じようなコース。これも微妙だったが惜しくも判定はボール。フォアボールとなる。

 日我好は、初回から厄介なランナーを背負うこととなった。


 1回表、ノーアウト1塁で能信の攻撃。2番バッターは藤井君。彼も富山君に勝るとも劣らない俊足だ。だが、それ以上に彼の恐ろしいところはそのバントにある。彼が2番手を務めるのも、バントのうまさを買われてのことだ。

 藤井君は、小学校でもかなりの変わり者で通っている。それというのも、彼は自分を犠牲にして何かを成し遂げる、ということにとてつもないロマンを感じる男子なのだ。
 例えば、戦国時代で好きな武将を挙げよう、なんて話になった場合を想定してほしい。恐らく大抵の人間が、信長、秀吉、家康といった3英傑や、軍略に優れた武田信玄、合戦に強い上杉謙信、もしくは地元の大名などを挙げたりするだろう。そんな中、藤井君は真顔で阿多 盛淳(あた もりあつ)と答えるのである。

 阿多 盛淳は今の鹿児島県を治めていた島津家の武将で、関ヶ原の合戦で退却をする際、主君である島津 義弘を無事に領地へ帰らせるために追手を食い止めて討死した将の一人である。もちろん素晴らしい武将であることは確かなのだが、知名度という意味では先に挙げた英傑たちよりはるかに劣ることは否めないだろう。だが、藤井君は周囲の「誰、そいつ?」という空気を無視してこの武将の功績を話し続けてしまうのだ。

 このエピソードだけでも十分わかる通り、藤井君は自らの生命をなげうってでも誰かのためになりたい、役に立ちたいという少し変わった願望の持ち主なのだ。そんな変わり者の彼にとって野球とのであいとは、すなわち犠牲バントとのであいにほかならなかった。自分を殺すことでランナーを生かし、次の強打者にチャンスを委ねる。もしくは自分を犠牲にすることで、何とかして1点をもぎ取る。これ以上に痛快なことはない。これは自分の天職だ、きっとそうに違いない。そう思った藤井君はチーム加入後、のめり込むようにバントの練習を重ねていく。かくしてここに、偉大なるバントの天才であり、文字通り死をもいとわない自己犠牲の鬼が誕生したのだった。

 藤井君はもう既定路線だとばかりに、右バッターボックスでしっかりとバントの構えをしてボールを待ち受けている。だが、送りバントとすぐさま断定してしまうのは早計だ。自らも生き残ろうとするセーフティバントや、盗塁のためにバントの構えをしている場合も考えられる。先頭打者をフォアボールにしたので、コントロールが定まっていないと考えて、揺さぶりをかけている可能性も捨てきれない。もちろんそれ以外の作戦だって否定できないのだ。

 中本君は何度かランナーのほうに目線を送りながら、サインを確認し第1球を投げた。
「コツン」
美しい音を立てて、ボールはホームベースの手前に転がる。捕手の寺井君が落ち着いてすぐさまボールをつかんだ。

「セカンッ!」
この時、中本君がセカンドへの送球を指示した。1塁ランナー富山君はスタートが遅かったらしく、まだ塁の中間にいる。だが、アウトにできるかどうかは微妙なところ。しかし寺井君は迷わず、指示通りにセカンドへとボールを投げた。寺井君が放ったボールは、2塁上で構えているセカンド豊橋君のグラブにものすごい速さで向かっていく。そこにランナーの富山君が、鋭く足からスライディングしてきた。

「セーフ!」
間一髪で走者が間に合い、2塁進塁に成功する。その間に、バッターの藤井君も1塁を悠々と駆け抜けていた。

 ノーアウト1、2塁。日我好は初回からピンチを迎えてしまった。だが、キャッチャー寺井君に指示のミスを謝る中本君の顔には、それほど動揺している様子はない。

 さて、能信にとっては初回から大きなチャンス。ここで3番、シュアなバッティングに定評があり一発も期待できる能信のキャプテン、登坂君がバッターボックスに入った。

 中本君はセットポジションを取り、神妙な顔で何度かキャッチャーのサインに首を振る。と、不意にプレートを外し、振り向いて2塁にボールを投げた。あまりにも自然なその動きに2塁ランナーの富山君は虚を突かれ、戻るのが大きく遅れてしまう。それでも懸命に2塁に戻ろうとするが、もうすでに野手がボールを受けている。結果的に2、3塁間で挟まれる形となり、富山君はあえなくアウトとなった。

 1アウトを取り、ランナー1塁となったのもつかの間。中本君はまたもや何気ない動きで、今度はファーストにけん制球を送る。

 さっき富山君がアウトになっているのを見ているのにも関わらず、藤井君も戻るのが遅れてしまう。必死にベースに滑り込んではみたものの、やはり間に合わずアウト。

 なんと中本君は、けん制2球で2アウトを取ってしまったのである。

 彼は小学3年生のときにチームに加入して以来、ずっと偉大な先達である青海君の背中を追って練習に励んできた。青海君に憧れ、青海君のような素晴らしいピッチャーになりたいという大いなる目標を掲げて頑張ってきたのだ。
 しかし、どれだけ寝食を忘れて練習しても、どんなに必死になって頑張っても、何をどうやっても、どうしても彼には遠く及ばない。同じチームに所属している怪物を横目で見ているうちに、中本君はそのような悲しい結論にたどりついてしまった。
 悔しい。自分はしょせんエースを背負う器ではないのか。仮に背負うことができたとしても、徹頭徹尾青海さんと比較され、否定され続ける野球人生を送るのか。そんな受け入れがたい未来が見えている中で、中本君はどうしたか。

 これだけは誰にも負けない、青海さんにも絶対に負けない、そんな武器があればいい、それを身につけよう、彼はそのように考えたのである。

 それからの中本君は自分だけの武器を、自分が一番になれるものを、それこそ死にものぐるいで探し求めた。そして、その苦難の果てに見いだしたものがけん制球だったのである。絶望の淵でどうにかか細い光を見つけた中本君は必死で、それこそ普通の投球と同じくらいかそれ以上にけん制の練習をした。ただ漫然とけん制球を投げるだけでは駄目だ。どうすれば何気なく自然に走者の意表を突けるか。それこそ彼は大学の心理学書すら買い求め、ランナーの心理をも研究の対象にしながらけん制の精度を高め上げていった。

 その結果、中本君は気付けば「打たせて捕る」投手ではなく、「打たせて刺す」投手となっていた。またその結果、けん制以外の通常の投球の精度も上がった。ランナーを高確率で刺せるということは、ヒットやフォアボールでランナーを出したって別に構わない。その安心感、余裕が肩の力を抜いた投球を可能にし、結果として球質を向上させる結果となったのだ。

 一気に2アウトとなり、ランナーがいなくなってしまったバッター登坂君は、それでも懸命にファウルで粘って起死回生を図ったが、敢えなくセンターフライに倒れた。

 こうして、1回表の能信の攻撃は無得点で終了した。
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