第三章 恨みの泥沼

文字数 4,037文字

 翌日の朝。
 早紀は、ホテルのロビーに入ると、コンシェルジュデスクにまっすぐに向かった。
「金村さん、おはようございます」早紀は、笑顔で声をかけた。
「あ、大沢先生。おはようございます」
「ここは、語学教室じゃないから、先生――は付けないでくださいね」
「そうですね」
「今日も大勢来てますね。お仕事忙しでしょうけれど、頑張ってくださいね」
「大沢先生――じゃなくて、大沢さんも通訳、頑張ってください」
「ありがとうございます」
 早紀が立ち去った直後、幸二の携帯電話が鳴った。
 兄の幸太郎からだ。
「はい、幸二です」
(大変なことになった。親父が誘拐された)
 幸太郎の電話の声は緊迫している。
「え? 本当に?」
(今日は忙しいか? こちらに来れないか?)
「今すぐには無理だけど、午後には何とか都合をつけていくよ」
(じゃあ待ってる)
「警察には連絡したの?」
(いや、まだだ)
「すぐに連絡した方が良いのでは?」
(それはちょっと……来たら話す)

 午後二時、幸二が父の家に到着すると、兄の幸太郎と父の妻の舞がいた。
「昨日の夜、親父から電話があった。誘拐され、監禁されていると。すぐに別の男が電話に出て、身代金を要求してきた。その後で、再び父が電話に出て、警察には絶対に連絡せず、金を用意してくれ、と言った」
「犯人に脅されているのだろうけど、警察に連絡しないという選択肢はない。警察も慎重に捜査してくれるはずだ。すぐに連絡しよう」
「いや、それは駄目だ」
「何故?」
「親父の違法行為、もっといえば、犯罪行為が警察に知られてしまうからだ」
「どういうこと?」
「本当はお前にも言いたくなかったが、万が一、犯人からお前に連絡があったら面倒なので、簡単に事情を伝えておく。誘拐犯は、密貿易の相手のようだ」
「親父は密貿易をしていたのか?」幸二は一瞬沈黙したが、幸太郎の顔を見て続けた。「でも、命には代えられないだろう」
「いや、父は人生のすべてを賭けてこの会社を大きくしてきた。だから、警察には絶対に知られずに解決したい、ということだ」
「それで大丈夫なの?」
「本来お前には関係のないことだ。俺が何とかする。今日の話も忘れてくれ。それでいいな?」
「分かった」
 
 幸二が家を出て行った後で、幸太郎は舞にぴったりと寄り添った。
「これで、すべてが上手くいくかもしれない。親父もいなくなり、会社も自分のものになれば、舞と二人きりの幸せな暮らしができる」
「幸太郎さん、愛してるわ」
 幸太郎と舞は強く抱き合った。

 翌日の夜。
 幸二は、自宅のマンションの部屋で一人でぼんやりと考えていた。
――親父が密貿易をしていたとは知らなかった……兄もそれに関わっていたのだろう。父のことは心配だが、そういう事情があるなら、やはり俺は関わらない方が良いのかもしれない……。
 その時、幸二の携帯電話が鳴った。番号非通知の電話だ。
「はい」幸二は名乗らずに電話に出た。
(幸二か? 俺だ)
「誰?」
(声を忘れたか? お前の父親だ)
「大丈夫? 誘拐犯からは解放されたの?」
(いや、まだだ。幸太郎が金の用意に時間がかかると言っている。お前からも早く用意しろ、と伝えてくれ。このままでは、俺は殺される)
「えっ……」幸二は絶句したが、すぐに電話の会話の録音を始めた。
「いつまでに用意すればいいの?」幸二は冷静な口調で尋ねた。
(本当は、今日の午後五時だった。あと一日だけ待つと言っている。お前からも、すぐに用意するよう、幸太郎に言ってくれ。複数の銀行口座の金を集めれば、十分に足りるはずだ)
 父の背後で、外国語の言葉が聞こえてきた。
(ちょっと待ってくれ)
 幸二は、電話から微かに聞こえてくる父と犯人の言葉に耳を傾けた。
――これは、何語だ?
 幸二には理解できない言葉が交わされている。
 再び父の声がした。
(明日の午後三時までに、金を用意してくれ。そして……)
「そして何?」
(いや、それだけを、お前からも幸太郎に伝えてくれ。頼む)
 そこで電話は切れた。

 幸二はすぐに幸太郎に電話をし、父の言葉を伝えた。
(分かっている。こちらもできるだけのことはしている)
 幸太郎は苛立っている様子だ。
「金は口座に十分にあると言っていたけれど、何か問題があるの?」
(お前には関係ないことだ。余計な心配をするな。もし、再びお前の電話にかかってきたら、自分は関わらない、と言って切ってくれ。分かったな)
「ああ、分かったよ」
 そこで電話が切れた。
――親父と兄の間に何かトラブルでも生じているのだろうか……。
 幸二は、恨んでいるとはいえ、実の父親の身を案じた。
――ぐずぐずしないで、警察に連絡するべきだ。命より大切なものはない。
 幸二は、電話を手に持ち、警察に連絡しようと番号を押しかけた、が、手を止めた。
――俺は、子供の頃から親父から嫌われている。親父は母を裏切った。そんな親父を、俺は恨んでいる。親父から可愛がられ続けてきた兄が対応すれば良いことだ。何年間も親父と会ったことも話したこともない俺が、今しゃしゃり出ても、何も良いことはないだろう……。

 同じ頃。
 早紀が部屋を暗くしてベッドで眠りにつこうとしていたとき、幽霊のユウスケが、白の上下のスーツ姿で再び現れた。
「早紀さん、あの後、どうでしたか?」ユウスケは笑顔で尋ねた。
「本当に心晴れやかで、楽しくて、幸せな毎日だったわ。ユウスケさんに恨みを代行してもらって、本当に良かった」早紀も笑顔で答えた。
「そうですか。それは何よりです」
「ところで、萌の様子はどうでしたか?」
「その件ですが……」ユウスケは言いよどんだ。
「恐ろしい姿の幽霊が現われたから、すごく怯えていたでしょう?」
「いえ。全く怯えていませんでした」ユウスケは真面目な表情で答えた。
「えっ? どういうことですか?」
「彼女には、私の姿が見えていなかったのです」
「どうして?」
「幽霊は、多少なりとも罪悪感を持った人にしか見えないものなんです。萌さんは、姉である早紀さんに対して、全く罪悪感を持っていないようです」
 早紀はショックを受けた表情でしばらく沈黙した後、突然大声で叫んだ。
「そんなのおかしいじゃないですか! あなたが私の代わりに恨んでくれると言ったので、その言葉を信じて任せたのに……今さら、恨みは届かないなんて、酷すぎます!」早紀は、怒りで顔を真っ赤にしている。
「私は、恐ろしい姿の幽霊として萌さんの前に現れることはできますが、相手がそれに気づかなければ、それ以上はどうしようもないのです」
「恨みの代行なんて頼まなければ良かった。自分で恨み続けていれば良かった……」早紀は怒りで興奮し、真っ赤な目に涙を浮かべている。
「でも、私に恨みの代行を依頼したことで、早紀さんは心が軽くなり、毎日が楽しくなりましたよね。良かったのではないですか?」ユウスケは笑顔で冷静な口調で言った。
「全然良くありません。相手に恨みが通じないなら、私の恨みはいつまでも晴れず、元の辛い気持ちのままです。私の恨みを晴らすために、何とかしてください!」早紀は、流れ始めた涙を拭こうともせずにユウスケに迫った。
「恨みは、霧か何かのように、晴らすというような軽いものではありません。心を覆う厚く固い殻のようなものです。何とかして恨みの殻を破るしかありません」
「どうすればいいのよ!」
 幽霊はそれには答えずに、話題を変えた。
「萌さんについて、報告することがまだあります。彼女の近況です……」
 萌は、パリで海外駐在員の日本人の妻たちとの交流会に参加して、充実した毎日を過ごしており、休日は夫と二人で美術館や観光名所を巡って楽しく過ごしているという。
 早紀が予想していたよりも、萌はずっと幸せな生活をしていることが分かった。
「どうして……どうしてなの? 私がこんなに恨んで苦しんでいるというのに……」
 あまりの情けなさに、早紀は涙が止まらなくなった。
「私の報告は以上です。今日はこれで失礼します」ユウスケはそう言うと、姿を消した。
 一人部屋に取り残された早紀は、怒りと悲しみに体を震わせながら、大量の涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のままでベッドに倒れ込み、そのまま眠りについた。
 夜中に目が覚めた早紀は、ベッドの上に起き上がった。
 早紀の頭の中には、かつての恋人との破局のシーンが蘇っていた――。

 昨年の春、居酒屋でデート中だった早紀は、店内に流れるBGMが某男性タレントグループの曲に変わった瞬間、心臓が少し苦しくなり始めた。それは、萌が大好きで自分が大嫌いな曲だったからだ。額に脂汗が出てきた早紀は、何とか笑顔を保って恋人の男性と話を続けていたが、その男性がキムチ豆腐を追加注文するのを見て、目の前が暗くなった。キムチ豆腐は母と萌の大好物で、自分は大嫌いだったからだ。早紀は両手をテーブルの下で強く握りしめながら、恨みの発作が起きるのを必死にこらえていた。
 曲のサビの部分になり、萌が大声で歌っている姿が早紀の目の前に浮かび、その時、キムチ豆腐を運んできた店員がやって来た。
 キムチの臭いが鼻を突いた瞬間、早紀は「いい加減にして!」と大声で怒鳴り、店員がテーブルに置いたキムチ豆腐の入った器を、目の前の萌に向かって投げつけた。
「うわっ!」という叫び声で正気に戻った早紀の目の前では、顔中にキムチと豆腐の破片が貼りついている恋人が、怒りの表情で早紀を睨んでいた――。

 翌朝、早紀は、目覚まし時計の音で目を覚ました。ほとんど眠ることができず、頭はぼんやりとしている。
――世界物産展は今日が最終日だから、頑張らなければ……。
 ホテルに入った早紀は、コンシェルジュデスクにいる幸二を見かけたが、そのまま三階の会場に向かった。
――結局、私は恨みからは一生解放されることはないのかもしれない。これからも恨みの発作が起こるたびに、大きな失敗を繰り返すことになるのかもしれない……。
 早紀の心を覆う恨みの殻は、一層厚く固くなっていた。

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