第一章 恨みの発作

文字数 5,777文字

 渓谷に架かる古い鉄橋の上で、大沢早紀(さき)は大きく深呼吸をした。二十七歳の早紀の肌には艶があり、目鼻立ちのはっきりとした顔からは微かな色香も漂っている。トレーナーにジーンズ姿でもスタイルの良さがはっきりと分かり、長い髪は渓谷を吹き抜ける風に揺れている。
 早紀は、ゆっくりと目をつぶり、心で叫んだ。
――二人への恨みは忘れられない!
 早紀は再び目を開け、鉄橋の下を覗き込んだ。深い谷の底には渓流が見える。
――ママ! 萌(もえ)! 二人とも絶対に許さない!
 早紀は、眼下の渓流に目の焦点を合わせ、もう一度大きく深呼吸をした。
「うわー!」早紀は大声で叫び、谷底に向かって頭からダイブした。
「きゃー!」早紀の絶叫が渓谷に響いた。
 もの凄い風圧を受けながら早紀は谷底めがけて落下していく。
「きゃあーーー!」早紀は叫び続けている。
 谷底の渓流の飛沫や岩肌がはっきりと見え始めてきた瞬間、早紀の落下スピードは急速に遅くなり、一瞬停止し、その後、一気に上昇していった。その後、何度か降下と上昇を繰り返し、やがて空中で停止した。

「お疲れさまでしたー」バンジージャンプ台の係員が、戻って来た早紀に笑顔で声をかけた。
「ああ、すっきりした」早紀も笑顔だ。
「いつもご利用ありがとうございます。こちらには何度かいらっしゃってますよね?」
「今年はこれで十三回目くらいかしら」
「そんなにですか。そこまでの方は珍しいですね」
「嫌なことを忘れるには、これが一番。じゃあ、また近いうちに来ますね」
「ありがとうございます。お待ちしてます」
 早紀は、長い髪を揺らしながら、颯爽とバンジージャンプ台を後にした。
 車を運転して山道を下りながら、早紀は考えている。
――バンジージャンプのおかげか、この七か月くらい恨みの発作は一度も起きていない……。
 車窓から見える青い空と緑の森にチラッと目をやった早紀は、カーブの手前でハンドルをギュッと握った。
 母と妹の萌への恨みの発作が最初に起こったのは、早紀が二十五歳の時だった――。

 中堅商社の総務部で派遣社員として働いていた早紀は、その日もいつも通り仕事をしていた。
「営業第三部の島田君が、同じ部の斎藤さんと結婚するんだって。知ってた?」
「前から噂になっていたわよね」
 早紀の近くで、二人の女性社員が社内の男女関係の噂話をしている。
「島田君は仕事もできるし、イケメンだし、彼を狙っていた女子も多いと思うけど、斎藤さんはしたたかな女よね」
「甘え上手で、計算高くて、あそこまでは真似できないわね」
 二人の会話を聞いていた早紀は、妹の萌に対する恨みが一気に湧き上がってきた。
「うぅぅー」早紀は、小さなうめき声を上げ、額からは脂汗が滲んでいる。
 噂話に夢中の女性社員は、早紀の変調には気づいていない。
「島田君は、来年には、ヨーロッパかアメリカに栄転するという噂もあるし、それで結婚を決めたみたいよ」
「斎藤さんもラッキーな女よね」
 早紀は急に目の前が真っ暗になり、その暗闇の中に萌の姿が浮かんできた。萌は、「私は素敵な男性と結婚してとても幸せよ」と言って笑っている。
「ふざけるな!」早紀は目の前に見える萌に向かって大声で怒鳴った。
 噂話をしていた二人は、その声に驚いて早紀を見た。
 早紀は大きく目を見開き、恐ろしい形相で宙を見つめている。
「お前だけがいい思いをして、許せない!」早紀は再び目の前に見える萌に向かって怒鳴った。
 二人は立ち上がり、早紀のただならぬ様子を凝視しながら固まっている。
 早紀の呼吸は荒く、肩が上下に揺れている。
「うわーーー!」早紀は叫びながら萌に殴りかかったが、その瞬間、萌の姿は消えた。
 早紀の机の上のパソコンのディスプレイが、萌の代わりに突き飛ばされた。
 早紀は、一週間後に商社での仕事を辞め、その後しばらくして派遣会社も退社した――。


 バンジージャンプを終えて一人暮らしのマンションの部屋に戻ってきた早紀は、コンビニ弁当の夕食を済ませてから、夜の七時少し前に机に向かった。
「じゃあ、始めましょう」早紀は、七時ちょうどに、パソコンのディスプレイに向かって笑顔で声をかけた。
「よろしくお願いします」ディスプレイの画面の中の若い男性も笑顔で答えた。
 早紀は、オンライン語学教室の講師として、二十名ほどの生徒の個別指導の授業を受け持っている。この男性は、会社からの派遣で三か月後にタイに行くことになっている。
「今日は、電話でのビジネス会話の練習をしましょう」早紀は、笑顔で画面越しに生徒に語りかけ、タイ語の初級会話の授業を始めた。
 四十五分後。
「じゃあ、今日はこれまでにしましょう」
「ありがとうございました」
 一コマ四十五分間の授業を終えた早紀は、パソコンで時間割を確認した。
――次は、あのロシア人か……。
 早紀は、英語も含めて十か国語を操ることができる美人講師として、オンラインの語学教室の中では人気があり、ほぼ毎日、数コマの授業を受け持っている。
 八時ちょうど。
「こんばんは」早紀は、画面に現れたロシア人の中年男性に声をかけた。
「こんばんは。早紀先生は、いつも、とても、綺麗、です」ロシア人が、たどたどしい日本語で語りかけてきた。
「ありがとうございます。じゃあ、今日は会議の場面での会話の練習をしましょう」
 このロシア人は、半年ほど前に日本にやって来た貿易商だ。英語は話せるが、日本人と親しくなるために日本語を習うことにしたという。
「早紀先生、今度、食事、いきましょう。素敵な、レストラン、知ってます」
「うふふっ。今日はレストランでの会話ではなく、会議での会話を勉強しましょうね」
 早紀は、笑顔で軽くあしらった。
「はい、分かりました」ロシア人は、早紀を食事に誘おうとしたが、いったんは諦めたようだ。
 早紀は、画面の中のロシア人を見ながら心でつぶやいた。
――仕事の会話はなかなか覚えられないのに、女性を誘う会話だけは、すぐ覚えてしまうのね。
 
 夜九時過ぎ。
 オンライン語学講師の仕事を終えた早紀は、一人で寝室のベッドに腰かけている。
――今日も駄目かもしれない……。
 早紀は、バンジージャンプをして恨みを心の中から一時的に追い出した日の夜は、その反動のせいか、一人でいると恨みが激しくぶり返してくるのだ。
 早紀の頭の中には、子供の頃の思い出が蘇ってきた――。

 早紀は、父と母と二歳下の萌との四人家族で育った。
 父は大学の外国語の教師で、専門の中国語の他にも五か国語をマスターしており、語学の研究にエネルギーを注ぐ真面目でおとなしい性格であった。母は父とは正反対で、語学の才能は皆無であったが、人から好かれる仕草や話し方をする才能があり、活発で明るい性格であった。
 早紀は父親の語学の才能と母親の明るい性格を引き継ぎ、萌は母親の才能と性格だけを引き継いだ。早紀の目から見ると、萌は努力をしないで甘え上手なだけの女に見えたが、母は萌の方ばかりを可愛がっているように思えた。
 小学生だったある日、早紀は萌と喧嘩をした。口論で負けた萌は、怒りの矛先を早紀が描いた母の似顔絵に向け、キッチンの壁に貼ってあった絵を剥がして引きちぎった。
「何するのよ!」早紀は怒って、萌の頭を平手で軽くぶった。
 ちょうどその時、買い物から帰ってきた母が、萌の泣き声を聞いて部屋に入ってきた。
「どうしたの?」
「お姉ちゃんがぶった」萌は泣きながら母に駆け寄り抱きついた。
「どうして妹をぶつの」母は事情を聞く前から早紀が悪いかのような口調で言った。
「だって、萌がお母さんの絵を破ったの」早紀は悔しくて目に涙を溜めながら言った。
「お姉ちゃんなんだから、それくらいでぶつことないでしょう」母はそう言いながら、自分の胸にしがみついている萌を強く抱いた。
 早紀は、母に抱かれている萌の横顔の目が、自分をチラッと見ていることに気づいた。萌は泣き声を出しながら、目だけは勝ち誇って笑っているように見えた。
 この時以外にも、母は「お姉ちゃんなんだから」という台詞で、早紀よりも萌を優先することが多かった。早紀は、その度に悔しい思いをし、母や萌に対する恨みを募らせていった。
 早紀が高校一年生の時、母が交通事故で亡くなり、早紀は絶望に近い深い悲しみに襲われたが、その深い悲しみは、一週間後には家事の重い負担という現実の辛さにより、どこかへ飛んでいってしまった。
 早紀はそれまでも積極的に家事を手伝っていたが、萌は母に甘えてちょっとした手伝いすらしたことがなかった。母の死後は、早紀が母親と同じ役割を担うことを父から求められた。萌はまだ義務教育だから勉強を優先しなくてはならない、というのが理由であった。
 父と妹のために家事に追われた早紀は、大学受験の勉強をする時間をほとんど確保することができなかった。
 結局、受験した大学はすべて落ち、早紀は落胆したが、子どもの頃から興味があった語学の道で生きていこうと考え、外国語専門学校に入った。その時、萌は高校二年生であったが、相変わらず家事をやろうとはせず、父も萌には何を言っても無駄だと思っているのか、早紀ばかりに頼っていた。
 家事の負担を負わなかった萌は、高校時代は部活動にも勉強にも十分な時間をかけた。早紀が専門学校を卒業し、外国語の堪能な専門スタッフとして人材派遣会社に登録したのと同じタイミングで、萌は有名な私立大学に入学した。
 萌は、大学卒業と同時に大手商社に入社し、二年目の五月には社内の男性と結婚した。
 早紀が恨みの発作を起こして中堅商社での職を失ったのは、その翌月のことだった――。


 夜十時過ぎ。
 早紀はベッドに腰かけたまま、過去のいくつもの辛い出来事を思い出し、一時間ほど悶々としていた。
――このままじゃ、眠れそうもない……。
 早紀は部屋を出て、自宅マンションの前の大通りでタクシーをつかまえた。
 十五分後。
「いらっしゃいませ」
 行きつけのバーのマスターが、笑顔で早紀を迎えた。
 カウンターの八名分の席の他に、四人掛けのテーブルが二つあるだけの小さな店だ。
「今日は何にしましょうか?」
「いつもので」
 早紀はカウンター席に腰かけ、マスターがカクテルを作る様子をぼんやりと眺めている。
「今日もお仕事お疲れさまでした」マスターは笑顔で早紀に話しかけた。
「今日は、バンジージャンプに行ってきたの」
「楽しかったですか?」
「とても。でも、その後は、決まって嫌なことを思い出しちゃって」
「どうぞ」マスターは、赤色のカクテルをカウンターに置いた。
 早紀はカクテルグラスを手に取り一口飲んだ。
「マスターは、いつも笑顔ですね。恨みになんて縁がなさそうで、羨ましい」
 マスターは笑顔のまま黙って早紀を見ている。
「どうしたら恨みと縁が切れるかしら……」早紀はそう言いながら俯いた。
「無理に縁を切ろうとしないで、恨みと上手く付き合っていく方がいいかもしれませんね」
 顔を上げた早紀は、マスターを見ながら尋ねた。
「恨みと上手く付き合うなんて、そんなことできるかしら?」
「そういう人もいるみたいですよ。この店のお客さんでも」
「そうですか、羨ましい……」
 辛そうな顔をして再び俯いた早紀を、マスターは優しい笑顔のまま黙って見つめている。


 若く美しい容姿からは窺い知れない深い恨みを抱えている早紀であったが、父親から受け継いだ語学の才能はずば抜けており、母親から引き継いだ明るく前向きな性格も失われてはいなかった。
 語学専門学校に通っていた二年間に、早紀は、英語、ロシア語、中国語をマスターした。中堅商社での派遣社員として仕事をしていた五年近くの間にも語学の勉強を地道に続け、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語をマスターした。恨みの発作によって商社での仕事を失った後は、コンビニの仕事をしながら、一年半の間に、韓国語、タイ語、タガログ語をマスターした。
 昨年末のある日の午後、早紀がコンビニで働いていると、母親に連れられた小学生くらいの姉妹が客として入ってきた。
「私、これにする」姉が先に棚に手を伸ばして、イチゴのショートケーキを手に取った。
「お姉ちゃんずるい。私もそれが良い」妹が姉に向かって言った。
「もう一つ同じものはありませんか?」母親が、そばにいた早紀に尋ねた。
「申し訳ございません。同じものはもうなくなってしまいました」
「じゃあ、これはどう?」母親は、妹にチョコレートのショートケーキを見せた。
「やだ。イチゴがいい」妹は頑なになっている。
 母親が姉に向かって、妹に譲るように話しかけたが、姉も頑として譲る気配がない。そのうち、姉妹が喧嘩を始めた。
「お姉ちゃんなんだから、妹に譲ってあげなさい!」姉妹喧嘩を見て苛立った母親が、姉に向かって厳しく言った。
「やだ……」姉は泣きそうな顔をしている。
 その様子を見ていた早紀は、額から脂汗が流れ始めた。
「ちょうだい」妹は、嬉しそうな顔で手を伸ばし、姉の手からイチゴショートケーキを奪った。
 早紀は大きく目を見開き、呼吸も荒くなっている。
「じゃあ、あなたはこれにしなさい」母親がそう言ってチョコレートケーキを姉に渡すと、姉は、涙をポロポロ流し始めた。
 早紀の視界は真っ暗になり、その中に母と萌の姿が浮かんできた。萌は母に抱かれながら、勝ち誇ったような表情をして横目で早紀を見ている。
「妹ばかりを甘やかすな!」早紀は、大声で怒鳴った。
 早紀の大声を聞いて姉妹は驚き、妹が大声で泣き始めた。
 姉妹の母親は、「あんた、何言ってるの!」と怒鳴り、早紀を睨みつけた。
 その翌日、早紀はコンビニでの仕事を失い、年末年始は無職で過ごすことになった。
――このまま恨みを抱え続けていたら、人生は破滅に向かうかもしれない……。
 年明け早々、恨みの呪縛から逃れたい一心でバンジージャンプにチャレンジした早紀は、谷底に向かって急降下している間は恨みを忘れられる――と実感した。それ以降、早紀は月に二回ほどのペースでバンジージャンプを続けている。
――仕事をしている最中に恨みの発作が起きないよう、人と直接には接しないオンライン語学教室の講師をやってみよう。
 そう考えた早紀は、今年の二月からこれまで五か月ほどの間、今の仕事を続けてきた。

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