第四章 恨みフェチ

文字数 6,816文字

 世界物産展の最終日の仕事を終えた早紀がホテルを出た頃、早紀の行きつけのバーでは、一人の中年の男がカウンター席に座っていた。まだ開店前で、他に客はいない。その男は、小太りで、童顔で、坊ちゃん刈りの頭で、目つきだけは鋭い。
「良い情報をありがとう。じゃあ、今度彼女がやってきたら、すぐに連絡をくれ」その男は、マスターに言った。
「承知しました」マスターは真面目な顔で答えた。
「上手くいけば謝礼は弾むし、もっと良い所に店を出せるよう金銭的な援助もするよ」
「ありがとうございます」
「それにしても、大沢早紀という女は、かなりのレベルのようだな」男は、せり出した腹をさすりながら薄ら笑いを浮かべた。
「花岡さんも、きっとご満足いただけると思います」
「楽しみだ」花岡は、そう言うと立ち上がり、マスターに軽く右手を上げて、店を出て行った。
 
 花岡茂(しげる)は、バーを出て自宅に戻ると、父親に電話をした。
「パパ。お金が必要になったから、明日振り込んでくれる?」
(何に使うんだ?)
「僕の事業に必要なんだ」
(ラウンジの運営費用か?)
「そうだよ」
(茂がやりたいなら続ければ良いと思うけれど、他人の恨みを観察して何が楽しいんだ?)
「パパには分からないと思うけれど、恨みというのは、エキサイティングなエクスタシーなんだよ」
(……そうか……それで、いくら必要なんだ?)
「良い情報をくれたバーのマスターへの謝礼だから、五百万くらいかな」
(じゃあ、明日、茂の口座に振り込んでおくよ)
「ありがとう、パパ」
 茂は電話を切ると、ソファに座っている若い女に声をかけた。
「茉莉子(まりこ)ちゃん、パパが振り込んでくれるって」
「そう、良かったわね」茉莉子は、ほほ笑んだ。「茂ちゃんのパパは、大金持ちだから、私たちは幸せよね」

 同じ頃。
 早紀は自宅のパソコンの電源を入れ、オンライン語学教室の開始を待っていた。
「大沢先生。こんばんは」幸二が、ディスプレイ上の画面から声をかけてきた。
「金村さん。こんばんは」
「世界物産展での通訳の仕事、お疲れさまでした」
「はい……」早紀は、やつれた表情で答えた。
「あのイタリア人のようなしつこい男は、他にはいませんでしたか?」幸二は、笑顔で尋ねた。
「ええ、特には……」早紀の声は小さい。
「大沢先生は美人だから、外人からも、もてそうですよね」
「いえ……そんなことはないと思います……」
「少し元気がないように見えますが、どうしましたか?」
「いえ、大丈夫です」
「そうですか……この前お願いした対面授業での件ですが、来週の火曜日のどこかの時間でお願いできませんか?」
「火曜日は、午前中に授業の予定が入っていますが、午後なら大丈夫ですよ」早紀は、少し笑顔を取り戻して答えた。「何時が良いですか?」
「できれば、夕食をしながら、というのはどうでしょうか。もちろん、僕がレストランを予約して、食事代は僕が持ちます」
「それは……」
「せっかくですので、二時間くらい時間をいただいて、ゆっくりとお願いしたいのですが」
「分かりました」早紀はすっかり笑顔に戻った。
「では、レストランを予約したら、また連絡します」
 いつも通りのイタリア語の授業をしているうちに、早紀は少しずつ元気を取り戻していった。
「じゃあ、火曜日によろしくお願いします」幸二が、授業の最後に言った。
「はい。夕食をご馳走していただくことになり、ありがとうございます」早紀は笑顔で答えた。
「僕の方こそ。とても楽しみです」
 早紀はパソコンの電源を切った後で、急に不安が襲ってきた。
――金村さんとの食事中に、また発作が起きてしまったらどうしよう……。

 オンライン授業を終えたばかりの幸二の携帯電話に、兄の幸太郎から電話が入った。
(親父が殺された)
「何だって!」
(警察から電話があり、駐車場の車の中で遺体が発見されたらしい)
「身代金の期限は、今日の午後三時だったはずだけど、払わなかったのか?」
(用意していたが、間に合わなかった)
「どうして? 銀行には金があると親父は言っていたのに」
(いろいろと事情があったんだ)
「警察には誘拐されていたということは話したのか?」
(もちろんだ。明日も朝から警察に行って話をしてくる)
「僕も行こうか?」
(いや、お前は関わらないで欲しい。親父が誘拐されていたことは、今日、俺が電話して、初めて知った、ということにしてくれ)
「どうして?」
(お前は、長い間親父と縁を切っていた。何も知らないのにあれこれ言われてもかえって混乱するからだ)
「でも、俺は、誘拐されていた親父と電話で話している。いずれ警察も分かるはずだ」
(そうかもしれないが、それまでは一切関わらないでくれ。分かったな)
「分かった。そうするよ」
 幸二は電話を切った後で、目をつぶった。
――やはり、すぐに警察に連絡すべきだった。俺は、親父を見殺しにしてしまった……。
 幸二は、頭の上に両手を乗せ、髪の毛をつかみ、強く握りしめた。
――俺は、親父を心の底から恨んでいた……しかし、親父を見殺しにしてしまったことの言い訳にはならない……。

 翌週の火曜日の夜。
 幸二と対面授業をする予定であった早紀は、行きつけのバーのカウンター席に座り、一人でカクテルを飲んでいた。前日に幸二から電話があり、「父が急逝したので延期してほしい」という連絡があったからだ。
 早紀は、カウンターにじっと目を落としている。
――恨みの代行なんて、冷静に考えてみれば馬鹿げたことだった……ユウスケという名前の幽霊が言った通り、恨みというのは、晴らす――というような軽いものじゃないのかもしれない……。
 早紀はカクテルを一口飲んで、再び俯いた。
――彼の言う通り、恨みは私の心と体を覆いつくしている厚く固い殻のようだ。やがて息ができなくなり、私は死んでしまうのかもしれない……。
 その時、一人の男が店に入ってきて、早紀から一人分空けた横の席に座った。その男は、さり気なく早紀の様子を観察している。
「大沢さん、恨みと上手く付き合う方法を知りたくありませんか?」マスターが笑顔で早紀に声をかけてきた。
「ええ、とても知りたいわ……」早紀は暗く沈んだ表情で答えた。
「実は、うってつけの人が今たまたま横に座っています。ご紹介しますね」マスターはそう言うと、早紀の横の男に声をかけた。
「花岡先生。ちょっと良いですか?」
「何でしょうか?」花岡は、そう言いながら、席を一つ詰めて早紀の真横の席に座った。
「実は、こちらの女性は、恨みと上手く付き合う方法を知りたいとお考えなので、花岡先生をご紹介したいと思いまして」マスターは、早紀と花岡を交互に見ながら言った。
 花岡は、胸のポケットから名刺を取り出し、早紀に渡した。「私はこういう者です」
〈恨みと幸福の研究所 所長 花岡茂〉
 早紀が名刺に目を通したことを確認すると、花岡は話を続けた。
「私は、恨みの精神構造を研究している者ですが、それと共に、恨みを抱えて苦しんでいる方の幸福を実現するための活動もしています」
「そうですか」早紀は、やや警戒しながら花岡を見た。
「私はラウンジを運営していて、恨みを抱えて苦しんでいる人たちに開放して、自由に語り合う場を提供しています」
「そうなんですか」
「あなたも、もし恨みを抱えてお辛いようであれば、一度、私のラウンジに来てみませんか? 同じような悩みを抱えている人が、親しく語り合うことで、心が癒されると思います」
「そうですね……」
「ラウンジは、社会貢献の一環として運営しているので、料金はかかりません。会員登録をしてもらえれば、いつでも気軽に利用できます。それに、会員の方にリラックスして語り合っていただけるよう、お食事やお酒も無料で提供させていただいています」
「そのラウンジの会員というのは、どんな人たちなんですか?」
「いろんな世代の、男性も女性もいます。あなたのように若い女性もたくさんいます」
「そうですか……」
 その時、花岡の携帯電話が鳴り、花岡は電話で話し始めた。
 一分ほどで電話を終えた花岡は、早紀を見て言った。
「もう少しお話させていただければと思ったのですが、ラウンジに新しい入会希望者が来て、いろいろと話を聞きたいという連絡があったので、これで失礼します。もし、興味があれば、この名刺の電話に連絡ください。あなたのお名前だけ、お聞きしてもいいですか?」
「はい、大沢早紀といいます」
「大沢早紀さんですね。では、お電話をお待ちしています」
 そう言うと、花岡は店を出て行った。
「大沢さん、どうですか?」しばらく姿を消していたマスターが戻ってきて、優しい笑顔で早紀に話しかけた。「花岡先生のラウンジは、結構人気があるみたいですよ」
「そうなんですか。私も一度行ってみようかなあ」
「是非そうされたらいいですよ。きっと、恨みと上手く付き合うことができるようになると思いますよ」マスターは笑顔を作りながら、早紀の顔をじっと見つめている。

 翌日の夜。
 事前に電話連絡をした早紀は、花岡の運営するラウンジに来ていた。バーやスナックが入る八階建ての雑居ビルの五階にある一室だ。
「では、簡単な会員登録をお願いしいます」花岡はそう言うと、タブレットパソコンを早紀に手渡した。
 早紀は、パソコンの画面を見ながら、氏名、住所、連絡先などを入力した。
「ありがとうございます。では、こちらの席におかけください」
 花岡は、部屋の片隅にあるソファに早紀を座らせた。
「今日は、私しかいないのですか?」早紀は少し不安そうな表情で尋ねた。
「いえ、若い女性の会員が、あと五分ほどで来ることになっています。その方も、深い恨みを抱えているので、是非、お互いにざっくばらんに語り合って、癒されてください」
 花岡はそう言うと部屋を出て行った。そして、隣の部屋に入った。
「茉莉子ちゃん、後はよろしく頼むよ」花岡は、部屋の中で座っていた女に笑顔で声をかけた。
「分かったよ。茂ちゃんは、ここで楽しんで見ていてね」
 部屋の壁には大きなスクリーンが取り付けられており、そのスクリーンの中に、隣の部屋にいる早紀の顔が大きく映し出されている。
 茉莉子は、手に持っていた数枚のレポートを、目の前のテーブルに置いた。そのレポートは、早紀の行きつけのバーのマスターが、これまでの早紀との会話の中から、早紀がどのような恨みを抱いているかを詳細に記述したものだ。
「彼女が、できるだけ苦しみに満ちた表情になるよう、茉莉子ちゃんが上手くリードしてね」
「任せて。この女は、やりがいがありそう。でも、茂ちゃん、この女のことを好きになっちゃ駄目だよ。茂ちゃんは、苦痛に満ちた女の顔を見ると、すぐに興奮しちゃうんだから。茂ちゃんは、私だけのものだからね」
「分かっているよ。茉莉子ちゃん」

 茉莉子は、部屋を出て行き、早紀が待っている隣の部屋に入った。茉莉子の表情は、先ほどとは打って変わって、深刻な表情をしている。
「こんばんは。茉莉子と言います」茉莉子は、暗い表情で早紀に話しかけた。
「こんばんは。早紀と言います」早紀は、やや緊張した表情で答えた。
「一緒に話をさせてもらっていいですか?」茉莉子は、早紀の座っているソファの向かいの席に座った。
「はい、よろしくお願いします。私、初めてなので、勝手が分からないのですが……」
「心配しないで。今日は、私がリードしますから」茉莉子は少しほほ笑んで見せた。
 茉莉子は、テーブルに備え付けの呼び鈴を押し、スタッフの黒服の男を呼んだ。
「早紀さんは、何を飲む?」
 茉莉子は、早紀の希望を聞いた後、黒服の男に酒と料理を注文した。
「早紀さんは、初めてで緊張しているでしょうから、私から話をしてもいいかしら?」
「ええ、お願いします」
 茉莉子は、自分の生い立ちや家族のことを話し始めた。弟がいて、両親は弟ばかりを可愛がり、自分は寂しい思いをしてきた。弟には、お金もかけて習い事や塾に通わせ、十分な教育を受けさせたのに、自分は何もしてもらえなかった。弟は有名大学を出て一流会社に入り、結婚もして幸せな生活を送っているのに、私は定職もなく、アルバイトで最低限の生活をしている。
 早紀は、茉莉子の話を真剣に聞いて、時々頷いたり、うっすらと涙を浮かべたりしている。
「私の話はこれくらい」茉莉子は早紀を見て言った。「じゃあ、今度は早紀さんの話を聞かせてもらえる? その前に、乾杯しましょう」
 茉莉子は、手を付けずにテーブルに置きっぱなしのグラスを手に持った。
「乾杯」茉莉子は、早紀が手に持ったグラスに軽くぶつけ、一口飲んだ。
「私の話をさせてもらいますね」早紀は、グラスを静かにテーブルに置いてから話し始めた。
 茉莉子は、話している早紀の顔をじっと見つめながら、時々頷きながら聞いている。
「早紀さん、あなたの気持ちはすごくよく分かる……」茉莉子は、早紀をじっと見つめたまま、心の底から同情したような表情で声をかける。
 早紀は、茉莉子に促されるまま、感情を露わにして、母や妹に対する恨みの詳細を話し続けている。
「恨みを我慢することないわ。もっと詳しく話して」茉莉子は、感情を込めた言葉をかけながら、早紀の話を上手に引き出していく。
 苦しみに歪んだ表情の早紀は、涙を流し、時々嗚咽しながら、話し続けている。

「最高だ……」
 隣の部屋の花岡は、早紀の苦痛に満ちた顔を見ながら、恍惚の表情を浮かべている。
「もっと、もっと、苦しむ表情を見せてくれ」花岡は、スクリーンに映っている早紀の顔に自分の顔を近づけて、早紀の顔を舌で舐め始めた。

 早紀は、自分がどこにいて、誰と話しているのか、完全に忘れるくらい、恨みの世界に没頭していた。
「悔しい……苦しい……」早紀は、うめき声を上げた。
「我慢しないで、もっと悔しがって、もっと苦しんで、それでいいのよ」茉莉子は、早紀の感情をどんどん煽っている。
 その時、早紀は、目の前に座っている女が萌の姿に見えた。
「お前は、いつもいい思いをしてきたな!」
 早紀の目は大きく見開いており、息も荒くなっている。
 茉莉子は、早紀の様子を見て一瞬ひるんだが、早紀の感情をさらに煽るため、萌の役になって声をかけた。
「そうよ。私は幸せよ。お姉ちゃんはみじめでしょう?」
「ふざけるな!」早紀は、両手を強く握りしめ、怒りで震えている。
「お姉ちゃんの苦しむ顔をみていると、楽しいわ」茉莉子は、さらに煽った。
「もう許さない!」早紀は、そう叫ぶと、萌に飛び掛かった。
「きゃー!」茉莉子は、早紀に飛び掛かられて、悲鳴を上げた。
「こうしてやる!」早紀は、そう叫びながら、茉莉子に馬乗りになり、平手で顔を殴り始めた。
「きゃー! 助けて」茉莉子は、殴られながら必死に助けを求めた。
「おい、止めろ!」花岡が部屋に飛び込んできて叫んだ。
「あんたも許さない」早紀は、そう叫ぶと花岡に襲いかかった。
 早紀は、花岡を数回殴ると、部屋を飛び出した。
「待て!」花岡は、部屋を出て早紀を追いかけた。
 早紀は、ビルの廊下を走った。
 その時、目の前にユウスケが現われた。
「早紀さん、こっちだ」ユウスケは早紀に声をかけると、早紀を導いて廊下を走り出した。
「待て!」花岡が怒りの形相で早紀を追いかけている。
 ユウスケは、廊下の端の非常口の扉を開け、早紀に言った。
「非常階段を駆け下りて逃げて」
 非常口を出た早紀は、ビルの外壁に取り付けられている非常階段を、一気に駆け下り始めた。
 花岡も、早紀を追って非常階段を駆け下り始めた。花岡が半階分だけ駆け下りて反対側に折り返そうと向きを変えた瞬間、目の前にユウスケが現われた。
「あ! お前は」花岡はそう叫ぶと、身をのけぞらした。
「花岡茂。そろそろ非道な真似は止めたらどうだ」ユウスケは、怒りの表情を浮かべて睨んでいる。
「何だ! 何の恨みがある!」花岡は大声を出したが、恐怖で声は震えている。
「それは説明する必要はないだろう」ユウスケは、花岡に近づいてきた。
「止めろ!」花岡は、非常階段の手すりを背にして、大きく身をのけぞらしている。
「恨みを抱えて苦しんでいる人をもてあそぶような奴は、地獄へ落ちろ!」ユウスケは、花岡の首に手を掛け、力を込めて押した。
「うわー!」花岡は絶叫し、手すりを越えて落下した。

 花岡の後を追って非常口を出た茉莉子は、非常階段の手すり越しに下を覗き込むと、一気に階段を駆け下り、地面に倒れている花岡に駆け寄った。
「茂ちゃん!」茉莉子は大声で呼びかけたが、花岡は息絶えていた。
「あの女、許さない!」茉莉子は、怒りに満ちた目で宙を見つめた。

 早紀は、夜の街を無我夢中で走った。どこをどうやって走ったのか、全く分からないくらい、早紀の心は乱れていた。
 気が付いた時には、早紀は自宅マンションの部屋にいた。
――もう限界……。
 早紀は、床にしゃがみこんだ。

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