6章―2
文字数 2,403文字
「くそっ、いったいどこに行ったんだよ……」
鳥の声が響き渡る道のど真ん中、オズナーはひたすら走り回っていた。ユーリットの姿は見えず、気配もない。
診療所にも、交番にもいなかった。セントブロード孤児院に向かったのだろうか、と考えるがすぐさま頭を横に振る。
「『家』までは遠い。今から探しに行くには、時間がかかりすぎる」
足は速い方だが、ここから『家』までは、どんなに速くても十分以上かかる。これ以上時間を無駄にしたくはない。
道端の森に目を向ける。足を踏み入れたら確実に迷うほど、鬱蒼と生い茂った天然の迷路。逃げ道として打ってつけで、もうここしか考えられない。オズナーは迷わず、森に飛びこんだ。
右も左も同じような景色で、方向感覚が奪われてゆく。次第に焦り出すオズナーの脳裏に、ユーリットとの思い出が走馬灯のように蘇ってきた。
初めて彼を見た時の衝撃、身を焦がすような恋心、『好きな人がいる』と告げられた時の絶望感、失恋を嘆く細い体の感触、想いが通じた喜び、愛を交わす時の高揚感。全ての場面が鮮明に浮かび、愛しさが溢れ出す。
しかし、自分の過去は真実なのだ。人を騙し、生き延びるためには手段を選ばない『白兎』。愛する人と共に生きるなら、いつか伝えなければならないことだった。
――もしばれたら……きっとあんたも、私と同じように拒絶されるでしょうね
アンヌに事実を突きつけられた日から、ずっと気がかりだった。ユーリットが心に傷を負ってから一年。元々人間不信である彼が人を信じられるようになるには、長い年月が必要なのだ。
たくさんの愛情で癒し、自分の過去すら気にならなくなるまで待とう、と決めていたのに。オズナーは悔しさのあまり、自分を殴りたくなった。
確かに、昔の自分は詐欺師だった。だが、ユーリットと出会ったその日から、間違いなく変わったのだ。彼を想う気持ちは全て、嘘ではない。たとえ信じてもらえないとしても、この真実は何度でも伝えなければ。
「くっ、雑音が多すぎてさっぱり分からねぇ」
様々な種類の鳥の声が、あらゆる方向から聞こえてくる。加えて風の音もうるさく、『兎』の鋭い聴覚は惑わされるばかりだ。
「集中しろ。ユーリの音は、俺が一番分かってるはずだ」
オズナーは目を閉じ、全神経を耳に集中させる。大好きな彼の音なら、どんなに微かな手がかりでも聞き分けられる自信があった。
すると、どこか遠くから、聞き覚えのある音が飛んできた。心が締めつけられるような悲しい響きが、不規則に続く。間違いない。ユーリットが声を押し殺して泣いているのだ。
オズナーはその場でぐるぐると回り、音の方向を探る。右斜め四十五度を向いた瞬間、はっきりと聞こえた。
「ユーリ、今行くからな!」
大声で呼びかけ、オズナーは走り出した。早く会いたい。突き動かされるように、森の中を全力疾走する。木の幹や背の高い雑草に足を取られるが、気にする余裕など全くない。
しばらく走ると急に道が開け、幅の広い歩道に出た。この道は、診療所の裏から湖に続く遊歩道だったはずだ。啜り泣きは湖の方角から聞こえる。オズナーは再び、駆け出した。
「いた!」
愛する人の後ろ姿が見え、思わず声を上げる。ユーリットは湖の縁にいた。オズナーの声に反応することもなく、ただ静かに立ち尽くしている。
オズナーは走りながら腕を精一杯伸ばす。しかし、あと一歩届かなかった。
ユーリットの姿は一瞬で消え、大きな水しぶきが上がる。オズナーは一気に青ざめた。湖の淵から水面は約一メートルほど。見慣れた水色は瞬く間に、紺色の暗闇に呑まれてゆく。
彼は以前、『僕はカナヅチなんだ』と笑っていた。このままでは確実に溺れ、命を落としてしまうに違いない。
「待ってろよ、絶対に助けてやる!」
オズナーの心は最初から決まっていた。『嘘だ』と拒絶されても構わない。彼を助けたい。そして何度でも、「大好きだ」と伝えたい。
数歩下がり、湖に向かって駆け出す。そしてためらうことなく、湖に飛びこんだ。
――――
どこか遠くから、声が聞こえる。
目が覚めると、ユーリットは店内にいた。客の姿はなく、自分ひとりきり。どうやら寝落ちしてしまったようだ。壁際の時計に目を向ける。午後三時。そろそろオズナーが『休憩にしましょう!』と声をかけてくる時間帯だが、彼の姿は見えない。
栽培室を覗いても見つからず、ユーリットは家中を探し回る。リビング、キッチン、自室、洗面所。そしてゲストルームのドアを開けた瞬間、事実に気づいた。
「(そっか、オズナーは辞めたんだっけ)」
がらんどうな部屋を前に、ユーリットは膝から崩れ落ちる。二人の心は、あの日を境に離れてしまった。共に仕事を続けるのも辛くなり、つい先日『辞めさせてください』と切り出されたばかりではないか。そういえば、アンヌの姿もいつの間にか見なくなった。ユーリットは再び、孤立したのだ。
「(あれ、おかしいな)」
床に落ちた涙が目に入り、ユーリットは泣いていることに気づいた。涙は止まらない。我慢出来ずに嗚咽が漏れ、苦しみは溢れ出す。
その時、懐かしい感覚に包まれた。背中に回った温かい感触に、緊迫した鼓動。オズナーに抱きしめられた記憶が、一気に蘇る。
「(あぁ……僕はまだ、オズナーのことが好きなんだ)」
失った感情が戻ってくる。辛い、寂しい、悲しい、抱きしめてほしい、会いたい、会いたい、会いたい。伸ばした腕は何も掴むことはなく、ユーリットは床を叩きつけた。
オズナーのことは許せない。それでも、離れたくない。相反する感情に揺さぶられる。あの時彼を突き放したことを、激しく後悔していた。
「(オズナー、ごめんね。夢でもいいから、もう一度会いたいよ……!)」
目の前は徐々に白く染まり、思考が薄れてゆく。何故かオズナーに呼ばれた気がしたが、ユーリットはそのまま、意識を手放した。
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