2章―1
文字数 3,377文字
次の日の早朝、ユーリットはいつもより早く目が覚めた。
ベッドから飛び起きるとそのまま店に向かい、商品が全品揃っているか目を通す。栽培室の植物店のレジ、更に金庫の中までくまなく確認した。何も盗まれていない。それが分かり、ようやく胸を撫で下ろす。
昨日現れた青年、オズナーは植物園もといユーリットの自宅に住みこむことになった。どの辺りに住んでいるか訊ねたところ、オズナーは目を泳がせた。彼曰く『街を転々としていて家がない』とのこと。
それを聞いて雇い入れるかどうか迷ったが、女性恐怖症に陥ってしまった以上、助けは必要だ。幸いゲストルームが一部屋空いており、とりあえず一泊させたのだった。
「おはようございます、ユーリさん」
キッチンで朝食の準備中、背後からオズナーの声が飛んでくる。彼はぱたぱたと隣に駆け寄り、顔を覗きこんだ。
「俺にも手伝わせてください!」
人懐こい笑みを向けられ、ユーリットは思わず後退る。笑顔で見られることに慣れておらず、どのような反応をしたら良いか分からなかった。
「と、とりあえず今日は大丈夫だよ。座って待ってて」
オズナーは元気良く「はいっ!」と返事し、リビングへ向かった。その背を見送り、ふぅ、と深呼吸をひとつ。
「(見た目よりしっかりしてる、のかな?)」
無造作に伸びた白い髪、眠そうな赤い瞳、肩の位置がずれた緩いTシャツとぶかぶかのジーンズ。オズナーの見た目は『二十二歳です!』という申告通り、今時の青年だった。
ユーリットは街で見かけた若者を思い出す。店先に群がり、何処に行く訳でもなく文句を垂れる様子が強く印象に残っている。そのこともあり、オズナーを『やる気のない若者』と判断してしまったが、実は違うのかもしれない。
新鮮なレタスとトマトをベーコンと共にパンに挟み、切り分けた片方を皿に乗せる。鍋のポトフをスープマグに盛りつけ、それらをトレイで運び出した。リビングのテーブルには二人分のスプーンとフォークが置かれている。オズナーが用意してくれたようだ。
「気を使わせちゃってごめんね」
「いいんですよ。うわぁ、めっちゃ美味そうですね!」
彼は料理を見てはしゃぎ出す。ユーリットは照れながら、サンドイッチとポトフをオズナーの側に置いた。
「先に食べてていいよ」
「いえ、同じタイミングまで待ちます!」
キッチンに行きかけた足が止まる。振り返ると、満面の笑みと目が合った。ユーリットは思わず目を背け、慌ててキッチンに引っこんだ。
「(笑いかけられると、何かくすぐったいんだよなぁ……)」
手で扇いで顔の火照りを冷ましつつ、自分の皿をトレイに乗せる。
ユーリットは女性恐怖症である以前に、極度の人見知りだった。特に知り合ったばかりの人に対しては、自分から話しかけられない。オズナーと普通に会話出来るようになるには、数週間は必要だろう。
オズナーの向かいに料理を下ろし、席に着く。「いただきます!」と一声かけ、彼は一心不乱にむしゃむしゃと食べ始めた。
「す、すごい食べっぷりだね……」
「まともに朝飯食ったのほんっと久し振りなんです。めちゃくちゃ美味くて、感激しました!」
もごもごと感想を言い、オズナーは再びサンドイッチにかぶりつく。ユーリットは嬉しくなったが、咳払いをして真面目な顔を作った。
「朝ご飯が終わったら仕事に取りかかるけど……君、本当に今日から働いてくれるのかな?」
オズナーは食べ物を急いで飲み下し、「もちろんです!」と叫ぶ。彼のやる気は昨日から全く衰えていない。訝しみながらも、ユーリットは淡々と仕事内容を伝えた。
「接客以外にも栽培室の管理や備品の発注もあるし、掃除のような雑用もあって忙しいよ。それでも大丈夫?」
「はい!」
オズナーは間髪入れずに返事する。ユーリットはその異様な熱意に、一瞬怯んだ。
「(本当に、信用していいのかな?)」
女性恐怖症になった直後に現れた、身元不明の青年。人間不信に拍車がかかった今、怪しい人物を雇うのは止めたいところだが。[第六感]の警告は、相変わらずないようだ。
「分かった。今日からよろしくね、オズナー」
名前を呼ばれ、オズナーは溢れんばかりの笑顔で「よろしくお願いします!」と返した。ユーリットは直視出来ず、視線を食事に戻した。
今の時点の彼は、間違いなく好青年だ。しかし油断は出来ない。栽培室には立ち入らせず、他の業務を通して様子を探ればいい。ユーリットはひとまず、自分の直感を信じることにした。
――
「ユーリさん、ちょっとトイレ行って来ますね!」
行ってらっしゃい、と見送り、ユーリットはレジ後ろの棚に向かう。空いた時間で少しでも伝票整理を進めておきたいところだ。
オズナーを雇ってから数日経つ。思い返してみても、彼の働きぶりは素晴らしいものだった。手慣れた接客はもちろんのこと、教えたことはすぐに覚え、こちらが指示する前に既に業務を済ませてくれる。
「(家事も進んで手伝ってくれるし、いい子だよなぁ)」
店内だけでなくリビングの掃除も積極的に行い、料理の下処理から洗濯物の取りこみまで。オズナーのおかげで、あらゆる負担が軽減された。栽培室には立ち入らせていないが、この調子だと任せていいのかもしれない。
「(でも、それだと、あの時と全く同じなんだよね)」
ユーリットは手を止める。盗難事件の際は、自分が心を開いた瞬間牙を剥かれた。オズナーもそうなるとは限らない。だが、また騙されたら。
「(事件のこと、話した方がいいのかな……)」
ペン先が震え、ユーリットは作業を中断した。
被害に遭って以来、女性客が来店すると呼吸が乱れるようになり、接客はほぼオズナーに任せている。彼も薄々感づいているはずだが、まだ問いただされていない。
事情を話すべきか否か。今すぐ決断出来るほど、勇気も度胸もなかった。
――カラン、
その時、ドアの呼び鈴が鳴った。
「いらっしゃいま……、っ!」
玄関を振り向き、ユーリットは凍りついた。三人組の女性客が入店していたのだ。
彼女らはわいわい雑談しながらショーケースへと向かったが、オズナーはまだ戻らない。話し声が妙に耳につく。ユーリットは次第に呼吸が乱れ、咄嗟に胸を押さえた。
「お、お待たせしましたっ!」
レジ台に倒れかかった瞬間、慌てて飛んできたオズナーに抱き止められた。
「応対してくるので、ちょっと休んでてください」
オズナーはユーリットを椅子に下ろし、女性らに駆け寄った。呼吸は静まらない。ユーリットは悔しさで涙が滲む。結局女性らが帰るまで、症状は治まらなかった。
店を臨時休業にし、ユーリットはオズナーに支えられながらリビングに入った。ソファーに下ろされ、顔を覗きこまれる。さすがに目を逸らす気力もない。
「よかった。もう大丈夫そうですね」
オズナーはほっと一息つく。膝立ちになった彼の笑顔に、ユーリットは心が痛んだ。もう隠し通すことは出来ない。
「オズナー、話しておきたいことがあるんだ」
オズナーの表情が強張る。ユーリットは声を詰まらせたが、覚悟を決めて白状した。
「もうばれてると思うけど、僕は……女性恐怖症なんだ」
アンヌとの出会いから事件の日まで、ユーリットは少しずつ、ゆっくりと説明した。オズナーは黙って聞いていたが、話が進むにつれて、赤い目に怒りが混ざり始める。
「だから、女の人がどうしても怖くて……」
体が震える。思い出すだけでも恐怖が蘇る。ユーリットは堪えきれず、涙を零した。
すると、オズナーはユーリットを勢い良く抱きしめた。突然の行動に涙が止まる。ぐっ、と歯を喰いしばる音がすぐ横で聞こえた。
「だったら俺が、ユーリさんを守ります! だからもう無理しないでください!」
抱きしめる力が強くなる。涙が再び溢れる。だが、それは恐怖によるものではない。
ユーリットは、遠い昔を思い出した。故郷の『家』に来たばかりの頃。全てに対して恐怖を抱き、『家族』に近寄ることも出来なかった。だが初めての『親友』が、このように抱きしめてくれたのだ。
「オズナー、ありがとう……!」
あの時と同じ温もりが、凍りついた心を溶かし始める。
ユーリットは嗚咽を上げながら、オズナーの腕の中で泣き崩れた。彼はその間何も言わず、ただ自分に寄り添い続けた。
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