第4話

文字数 913文字

翌朝、話し声で目が覚めた。タオルで体を拭き、朝食を口に運ぶ。全ては食べきれないが、昨日より良くなっているのはわかる。
「顔色が良くなりましたね」
「この様子だと帰国できるんじゃあないか」
「様子を見て、大丈夫そうなら車を用意して…」
その日の夕方、車を出してもらい空港へ向かった。薬を入れたか何度も念を押された鞄を持って、手荷物検査を通り飛行機に乗り込む。機内では嘘のように熟睡できた。


「その節は、どうも…ありがとうございました」仕事帰りのデパートで受けた電話で、先方の担当者に改めて謝意を述べる。あれからひと月ほどが経った。「あの時は、ねえ、心配しましたよ。こちらではしばらく話題になりました。」「本当に、ご心配をおかけしまして…」そこではっとして言葉を切った。音楽だけだが、よく知った歌は頭の中で歌詞が再生される。
蛍の光、窓の雪…
閉店の合図だった。
「その曲、日本にもあるんですね」「ええ、そちらにもありますか」「はい」
向こうでも歌われている曲だったんだな、と納得する。とぎれとぎれの静かな歌声を思い出した。
「でも、もっと賑やかな感じです。こう…テンションを上げる、みたいな?」
まさか、と言いそうになる。賑やかな歌でも一人で口ずさみたくなる時はあるだろうが、あれは静かな調子だった。もの悲しい黄昏に溶けていくように。あのときこの曲を聴いたような気がするのだ、女性の声で、と思い切って言ってみる。
「まさか」相手が笑う。「会社の医務室の横で歌う人なんていませんよ」
「蛍の光」は終盤にさしかかり、閉店準備が粛々と進められていた。

太平洋戦争の初期、ビルマへの足がかりとして日本軍はタイに侵攻し、短い間ではあったが両国は交戦した。十二月のことだったという。私の滞在した北の町が戦地になったかどうかはわからない。日本軍は南から上陸し中部辺りまで来たところで和平を結んだそうだから、おそらくなっていない可能性が高いだろう。
…つとめよわが背 つつがなく…
だが、「わが背」に「つつがなく」と祈った「妹」がいわゆる日本人だけでないことは、きっと確かなことだ。国の境というものは、時にとてもふたしかだ。今日も両岸の漁家にとって、メコン川は生計の綱である。
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