第3話

文字数 1,244文字

その夜、私は転がるように医務室に入った。腹痛だけでも抑えられる薬があればと思ったのだが、症状は思ったよりも悪かったようで、医務室のベッドに寝かされることになった。朝、物音で目が覚める。二人の看護師が水とタオルを用意していた。昨夜シャワーを浴びられなかったから、体を拭くためにとタオルを渡される。看護師の前で脱ぐことにはさほど抵抗がないが、身体を清潔に保つために全身余すところなく拭くよう促されたため、尻まで拭いたタオルを彼女たちに返さなければならないのが心を重くした。情けない、という気持ちは病気になると症状が進むにつれて消えていくものだが、申し訳ない、という思いは頭が働かなくなってきてもはっきり感じられる。少しして、朝食が運ばれてきた。雑炊だ。食堂で出ていたメニューを雑炊に作り替えたようだ。病人のために、わざわざ。ありがたい。その一方で、派遣されてきたのが私だったために面倒をかけてしまったと申し訳なく思う。今回の派遣は部の中から立候補して選ばれたので、自分などが手を挙げてしまったばかりに、といっそう心苦しい。
―しかし、仕事はもう終えたから、あとは帰るだけだな。今日寝れば帰れる程度には治るだろう。これ以上迷惑をかけずに済むはずだ。
だが、昼過ぎに目が覚めるとほぼ同時に吐き気に見舞われた。何か、なにか使える物を、と必死で探し、ベッドサイドの木製の台の下にバケツを見つけた。急いで手を伸ばして取り顎の下にあてがう。異変に気付いた看護師が飛んでくる。それから嘔吐を繰り返し、状況は誰が見ても悪くなった。なにしろ胃にもう何もないのに吐き戻すのだから。帰国は難しいと判断された。病院に、という声もあったが、ここからだと病院は遠いようで、私は医務室にもう一泊することになった。皆が出ていき、再び部屋には私と大きな蟻だけになった。蟻は床を這っていたが、眺めているとベッドの脚を伝ってこちらに来るので慌てて振り落とした。こちらの蟻は毒をもつと聞いていたからだ。蟻との攻防はしかし、少し気を紛らわしてくれた。朝夕の食事の際に解熱剤を出されていたから、高熱で朦朧とすることもできなかったのだ。今何時なのか。日本の同僚たちはどうしているのか。復路の航空券はキャンセルになった。帰って片づけるはずの仕事にも影響が出ているはずだ。そもそも明日、本当に帰れるようになるだろうか。私は何をしに来たのか。天井を見つめているのは心に堪えた。太陽が落ちるまでは長かった。黄昏に向かう光が窓から射してきたころ、その窓から懐かしい旋律が聞こえてきた。音は微かだが、耳を澄ませるとつながって聴こえる。最初は何の曲だかわからず、タイの歌なのだろうとぼんやり聞いていた。
「…ふみよむつきひ かさねつつ…」
不意にそう口ずさんで、それで気づいた。ああ、「蛍の光」だ。そう気づくとたまらなかった。歌詞は聞きとれないが、紛れもなく人の声だ。誰かが「蛍の光」を歌っている。大丈夫だ。日本に帰れる。泣きたいくらいに安心して眠りに落ちた。
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